二 亡国の記念日
     紀元節復活とその背景
 
 本稿は、一九六九年二月一〇日慶応大学における講演を、その後『前進』に二回にわたって掲載したものである。東大闘争の直後であり、亡国の記念日の行事にすべての大学が参加したことの意味を問いつめ、帝国主義の腐朽性と学問、大学闘争等についてもふかく論じている。
 
 
 つぎの三つの柱を中心に「紀元節復活とその背景」について論じたいと思います。
 第一は、いわゆる「建国記念日」といわれているものが、いかに非学問的なものか、第二には、明治維新後の日本資本主義、帝国主義の歴史にとって、紀元節はいかなる意味をもっていたのか、あるいは最近にいたってふたたび建国記念日としてよみがえってきたのはなぜか、第三には、七〇年を明年にひかえて、建国記念日ということからこんにちの大学に学ぶ学生たちがいかなる実践的な結論をもつべきか、ということについてです。
 まず最初に建国記念日とはなにかについてあきらかにしておく必要があります。結論からいうと、建国記念日とは、日本国家が政府と国会の名において、日本では学問研究の成果を尊重しないということを宣言した日であるといえます。したがってまた、すべての大学が大学の名においてこの二月一一日を休校にすることをもってこの反学問的行事に参加し、それに「学問的承認」を与えた記念すべき日であるということができます。
 建国記念日とはブルジョアジーの説明によると、いまから二六二九年前の二月一一日に神武天皇が即位した日ということになっています。
 
 性紀元節の学問的インチキ
 
 しかし、こうした考え方は現在の日本の学問研究の水準からいって、まったくインチキなものであります。第一に、考古学的にいっても、二六二九年前に国家が存在していた、というようなことは、検討の余地がない、滅茶苦茶な学説である。この時代は、日本ではまだ鉄器はおろか青銅器も使われていない時代であり、人骨がまばらに発掘されている程度で考古学上からはまったく問題にならない。
 第二に、文献学的にいっても問題にならない。つまり、紀元節は直接には、古事記、日本書紀における記載をもとにおこなわれているといわれていますが、しかしその古事記、日本書紀の批判的研究が明治以来つづけられ、そのインチキ性がはっきりしています。
 たとえば、反動思想家が尊敬している本居宣長でさえ、神武建国のあたりはかなり疑わしいことを学問的に洞察しています。かれの説によれば、日本人はもともと太陽をうやまう民族である。ところが、古事記、日本書紀の古代についての記載を見るとすべて、十干十二支、ならびに太陰暦になっている。しかし日本の歴史において太陰暦が採用されるようになったのは中国と接触するようになってからである。かれの言葉でいえば、中国文化との接触以前に大和ごころでなくて唐ごころで記載されたものが存在するのはあきらかに矛盾しているというわけです。批判の方法はきわめて天下り的であるが、一応矛盾をついています。
 さらに、明治六年に紀元節が制定されたときに、ある民間の学者が古事記、日本書紀を学問的にまったく正しいものと前提したうえで二月一一日というのはおかしい、古事記、日本書紀のどこを見ても二月一一日という日を推定させる日がない、と明治政府に訴えでた。しかし、これは、明治政府によって「そんなことはどうでもよい」と弾圧されてしまっています。
 その後、明治政府の弾圧によって、天皇家にかかわる歴史の研究は学問的にも危険の存在するもの、自由に研究することが非常に困難なものとなったのでありますが、しかし、それにもかかわらず、大正のはじめ、早稲田大学の津田左右吉教授が『古事記ならびに日本書紀の研究』を発表されて以後、さまざまなかたちで古代史および古代王朝史についての研究がしだいにすすみ、こんにちでは学問的につぎのことがあきらかにされています。
 すなわち、日本における国家の成立は二世紀前後に各地に小国家が形成され、四世紀のはじめから七世紀にかけて大和地方を中心に古代天皇制として統一されていった(ただし、この古代国家の形成が天皇制主義者が主張しているように、はたして万世一系であったかは疑わしく、こんにち学者のあいだでは、このあいだに二王朝ないし三王朝の交代があったのではないかといわれている)のであって、紀元二六二九年という時期規定がまったく荒唐無稽(こうとうむけい)であることははっきりしています。
 さらに文献学的につっこんでみると、四世紀から七世紀にかけて各地方の豪族や天皇家史を天皇家を中心とする立場から書き直したものに『帝紀』『本辞』がありますが、これをさらに七世紀における古代天皇制の危機の時代に、天皇を中心に日本国家が形成されたという思想でもって積極的に書き改められたものが古事記、日本書紀であるということです。したがって、古事記、日本書紀には、決定的な歴史のごまかしがおこなわれています。推古天皇九年(西暦六〇一年)から一二六〇年歴史を過去にさかのぼらせて神武天皇即位の年とした(これが、紀元節の基礎になっている)のですが、一二六〇年という数字は中国の讖緯(しんい)説という思想によっています。讖緯説によると「辛酉(かのととり)革命」といって、辛酉の年には天の命があらたまって世のなかに大変化がおこるとされています。辛酉は十干十二支の組み合せで、六〇年ごとにあらわれますが、とくに大変化がおこるのは、二一回目の辛酉(六〇×二=一二六〇)であるとされていたのです。そこで古代の反動的天皇イデオローグたちは、推古九年がちょうど辛酉の年にあたることに目をつけて、この説にしたがって、推古天皇九年(六〇一年)から一二六〇年前(紀元前六六〇年)を神武天皇即位の年としたわけなのです。
 神武伝説なるものは、七、八世紀の古代天皇制が壬申の乱に示されるような危機におちいったとき、それを救うために支配階級が考えだしたもの、支配階級の神秘化のために、その支配の権威化のために人為的につくりだされたものであります。
 ところが問題は、学問の世界では完全にその欺瞞性があきらかになっている紀元節が、こんにち、建国記念日というかたちをとってふたたびわれわれのまえにあらわれてきたことです。
 明治初年ならともかく、こんにちの段階では、それがまったくまちがったものであるとわかっているのに、なおかつそれが強行されたということです。
 そして、真理探究が唯一の価値基準であると宣言されているにもかかわらず、日本の大学のなかでただの一つといえども紀元節復活にたいして拒否をした大学が存在していないこと、すべての大学がこの二月一一日を祭日として休んでいること、このことのなかにこんにち大学問題がかかえている国家的本質があるのだ、とわれわれはつかみとっておかなければなりません。
 
 日本帝国主義の歴史と紀元節
 
 ところで、こういう蒙昧(もうまい)なものが明治以後登場し、かつまた二〇世紀の後半にもう一度よみがえってきたのはなぜでしょうか。それはたんにイデオロギーの問題として解くことはできないのであり、当然そのようなイデオロギーが復活してくる社会、国家の状態にメスをあてなければなりません。
 ところで明治の当初、東京の市民は、天皇についてそんなに尊敬の観念をもっていなかったし、日の丸がなんの旗かさえも知らなかったのですが、こんにちわれわれの親の世代は、天皇とか日の丸について非常によく知っています。それは、明治以来の日本政府のいっかんした上からの教育の展開の結果であります。つまり、天皇がなんであり、日の丸がなんであるかを知らなかった江戸の市民たちがわずか三、四〇年ののちには、天皇のためには生命をささげてもいい、というところまで教育されてしまったのであります。
 「日本は神の国である」という思想をうらがえせば、朝鮮人、中国人、インドシナ人など日本の周辺の民族は、神の民族とはちがう、したがってこのような民族はわれわれによって支配されなければならない(八紘一宇)ということになりますが、かつて日向の国を出発して東征した神武天皇の業績と同じように、アジアの近隣の諸国を支配してはじめて日本の発展が可能となる、という侵略思想がその背後で用意されていることはいうまでもないのであります。他方では、それは、天皇の赤子であるから日本国民は天皇=国家にたいして批判したり、抵抗したりしてはならないという反動思想として発展していくことになります。この侵略と反動の思想を統一的に日本国民のうえにおしつけるイデオロギー的テコとして、日本神国説、皇国史観が使われたのです。
 では、こうしたことが必然化してくるのはなぜかということになりますが、その原因は日本資本主義、帝国主義の形成のもっている特殊な条件のうちに求められなくてはならないのです。イギリスを中心として世界的に発達した資本主義の発展にたいして、それが世界史的にいえば没落の段階にはいったときに、はじめて日本において資本主義のあゆみがはじまった、という特殊な歴史的関係、具体的にいえば、日本資本主義の本源的蓄積が金融資本形態をもっておこなわれたという点にあります。もともとイギリスを中心に産業資本的蓄積形態を基軸に形成された世界資本主義は、一八七三年の大恐慌から二〇世紀の初頭にかけて、金融資本的蓄積形態を基軸とする帝国主義に世界史的に推転したのでありますが、日本資本主義はその登場の世界史的位置に規定されることによって資本の本源的蓄積が金融資本形態をもっておこなわれたところに第一の特徴があります。
 ちなみにもうしますと、明治維新(一八六七年)は、ヨーロッパではマルクスの『資本論』の初版本が出版された年でありますが、このことからもわかるように、」第二の特徴は「 ヨーロッパにおいてはブルジョア革命の時代が終わってこのブルジョア革命をのりこえてあらたな時代をつくりだすプロレタリア革命の波が明白におしよせているときに、はじめて日本が資本主義の道をあゆみはじめた点にあります。
 ヨーロッパでは、一七八九年のフランス革命以来、一八三〇年に七月革命があり、四八年にはドイツ、フランス、オーストリアの三国をまたにかけた大きな革命の波が襲ったことは周知のことですが、四八年――四九年の革命によってヨーロッパのブルジョアジーは、アンシャン・レジーム(旧体制)を徹底的に打倒していくと、当然ヨーロッパの貧民、プロレタリアートが主力として登場し、ブルジョアジーが永続的に打倒され、権力がプロレタリアートに移行してしまう危険性を革命の途中で自覚するにいたり、そして革命を中途で放棄して旧体制との妥協を開始するのであります。
 さらに決定的に歴史を画したのは、一八七一年のパリ・コンミューンであります。ここでは、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒し、わずか半年であれ、プロレタリアート独裁の国家を樹立する最初の経験をもったわけです。ところで、これは日本の歴史でいえば、明治四、五年にあたります。したがって日本の支配階級は、あらかじめヨーロッパの階級闘争のなかからプロレタリアートにたいする危険性を予知することができたわけです。
 一八六八年をエポックとする日本近代史の始まりは、直接的には明治絶対主義政府の樹立であった。そして、この絶対主義政府がヨーロッパの先進諸列強に対抗するためには、どうしても日本を富国強兵しなければならないのですが、そのことは二つの意味をもってあらわれてきます。一つは、富国強兵のために当面必要なもの、造船、兵器、製鉄、石炭、鉄道などに集中的な近代化がおこなわれるために、一方では、製鉄業などでは、ドイツとイギリスの水準と同じ製鉄機械が導入され、他方では、封建制の時代とほとんど変らないような生産のしくみが尨大に温存されることになります。これは、金融資本形態をもって資本の蓄積がおこなわれると一般化してくることですが、これがこんにちの段階では常識化している日本の二重構造をつくりだした原基的形態を与えたということができます。
 もう一つのことは、このようにして近代産業が発展すると、当然そのなかでプロレタリアートが登場し、このプロレタリアートが資本主義を否定して社会主義へむかって反乱を開始することはいうまでもありませんが、しかし、日本においては、現実にプロレタリアートがプロレタリアートという社会的なかたちで登場してくる以前から、日本支配階級は、このプロレタリアートのもっている世界史的危険性をあらかじめ思想的に確認していたわけです。したがって、一方では資本主義を発展させながら、そのなかに登場するプロレタリアートにたいしてあらかじめ反革命的に対応しなければならなくなることから、日本における近代化は必然的に旧体制を革命的手段をもって打倒し、そののちに日本近代化の道をあゆむというのではなしに、旧体制と徹底的に妥協して、むしろそれと同盟を結んで、プロレタリアートや農民に対抗することを任務としなければならない。そしてこんどは、旧体制とブルジョアジーの協力の内部にあって、可能なかぎり、絶対政府を内部からきりくずし、ブルジョアジーの階級的利益に相応するような国家の形態にきりかえていったところに日本史の特徴があるといえます。
 この国家形態をめぐつて、論争が存在しています。
 明治維新で現出した国家は、旧体制と新興ブルジョア的諸関係の両勢力の均衡のうえに国家を主軸にして形成された天皇制絶対主義国であるといえますが、ところで、われわれが四五年八月一五日に見いだす国家とそれはどういう関連にあるのか、ということについて三つの対立する考え方が過去においては支配的に存在していました。一つは、絶対主義がそのまま八月一五日までつづいたという考え方で、日本共産党系の綱領的見解がこれです。もう一つは、明治維新そのものがブルジョア革命であるという考え方で、向坂逸郎とか大内兵衛など労農派の思想です。しかしこれは論理的に無理があります。もし明治維新がフランス革命と同じブルジョア革命だとするならば、昭和初年に日本の社会を特徴づけていたような地主制については、うまく説明がつかないことになりますし、なによりもまず天皇制のもつ独自の役割が捨象されることになります。天皇制ファシズムという日本歴史学研究会などの支配的意見は、三二テーゼ型の前者の見解を没理論的に手直しした現象論であり、ファシズムにかんするまったくの無知を意味するものです。
 さきに、明治絶対義政府が自己の生存のために資本主義を発展させたこと、この過程で形成されるブルジョアジーが自己と対抗的に登場してくるプロレタリアートに対抗するために、旧体制と妥協し、それと同盟を結びながら、その内部で絶対政府をきりくずし.ブルジョアジーの階級的利益を貫徹させていったことを指摘しましたが、わたしは、このような特殊な国家形態をボナパルティズムと規定すべきだと考えています。
 ボナパルティズムは、歴史的にいうとナポレオン・ボナパルトによって代表された形態、さらに四八年の革命から反革命へ転じていく過程のナポレオン三世のルイ・ボナパルトの形態、そしてこんにちではドゴール型とでもいうべき形態の三つを典型としてあげることができますが、トロツキーは、この三つを比較して「ナポレオン・ボナパルトのボナパルティズムは若気のいたりのボナパルティズムである。ルイ・ボナパルトのボナパルティズムは、すでに頭の禿に気づきはじめたボナパルティズムである。そして二〇世紀に登場するボナパルティズムは、自分の老いの身を自覚したボナパルティズムである」というようなことをもうしています。このようなフランスの典型的なボナパルティズムにたいして、ドイツにおけるカイゼル主義=ビスマルク主義、ロシアにおけるツアーリズム=ストルイピン主義、そして日本の天皇制主義といわれている三つのタイプも、ボナパルティズム的形態をもって絶対主義国家から近代ブルジョア国家に移行していったもの、ないしは移行していこうとしたものだと見ることができます。
 このドイツのカイゼル主義、ビスマルク主義、ロシアのツァーリズム、日本の天皇制主義の歴史をイデオロギー的に比較してみますと、はっきりすることは、旧体制の無知蒙昧(むちもうまい)なものをできるだけ近代のなかにもちこんで、むしろそのような無知蒙昧を徹底的に利用して農民のような小ブルジョアをひきつけながら、プロレタリアートに対抗する、そういうタイプの政策をもった国家であると整理することができます。
 日本帝国主義の前近代性=無知蒙昧なるものは、資本主義が世界史的には没落の時代にはいりはじめたなかではじめて資本主義の歴史を開始しなければならなかった日本資本主義の世界史的特殊性、すなわち、あまりにも現代的な性格に規定されているものとして理解する必要があります。したがって日本共産党が三二年テーゼのなかで主張しているように、日本には古い封建的諸形態が多く残存しているから、まずそのような古い形態をブルジョア革命によって打倒して、しかるのちに社会主義革命をめざすプロレタリア革命をおこなう、というような考え方は、資本主義の発展段階のもっている世界史的な特徴について、あるいはその特徴にもとづいて日本の近代の歴史が開始された特殊な意味についてまったく無知であることを示しています。
 戦前の地主・小作などの農民問題の解決は、まずもってブルジョア革命によって解決されるのではなしに、地主をも同盟軍にひきつけている日本帝国主義権力を打倒していくことのなかに真の解決の道が存在していること、二段階的にではなしに、社会主義にむかってのプロレタリア革命に包摂される一段階的なものとして考えなければなりません。
 したがって、八月一五日から二十数年たったこんにち、紀元節がふたたびとびだしてきたことは、日本支配階級が国民の圧倒的部分が信じるに足らないような根拠のない日を建国の日としなければならないほど血迷いはじめたことを事実をもって示しているといえます。ですから一部の近代主義者のように、紀元節のような古いものがよみがえってきたから、ますます日本を近代化してこれをとり除こうと考えるのは本末転倒したまちがいであって、むしろ日本の超近代的性格、もっと正確にいえば、日本資本主義がもっている帝国主義的特質が、逆にこうした紀元節のような無知蒙昧なものを国家の紋章として張りつけたのです。すなわち、日本の国家が、こういう荒唐無稽、無知蒙昧なるものを出発点とし、こういうものの条件のうえにしか自己の存立の条件を政治的に見いだすことができないとしたら、日本帝国主義はわれわれにむかって、みずからの死滅を宣言しているにすぎないのです。
 したがって、われわれにとって紀元節のもっている意味は、たしかにこの日がきわめて不合理な日であり、学問にたいする侮辱の日であり、そして日本の教育、日本の大学のすべてが、日本帝国主義の学問否定の攻撃にたいして屈服した記念日であることの確認にとどまることはできないのであります。頭の禿げあがってしまった資本家たちにとっては建国記念日であるかもしれないけれども、批判精神をもった若い世代、民衆にとっては、この日は日本の亡国記念日として記念されなければならない日であると思います。
 
 ミネルバの梟は、日暮れてとびたつ
 
 最後に、日本の学問の現実が、東大、日大をはじめとする大学闘争の非妥協的=永続的発展のなかでどういう問題をつきつけているのかをあきらかにしたいと思います。
 建国記念日という問題によって象徴されているように、日本の大学の現状、あるいは学問の現状がすでに度しがたいところまで腐朽してしまっているという認識をもって、われわれはこの大学の腐敗を根本的に突破する道を追求しなければならないのですが、しかしこのことからもあきらかなように、大学の腐朽は、大学問題として自立的に解決することが不可能であることを明白にしなければならないのであります。たとえば、大学の理事会に学生が何人かはいれば、こんにちの大学がよくなると夢想するわけにはいかないのであって、むしろ、こんにちの大学が大学として日本の学問の腐朽にたいしてなんらかの意味をもちうるとすれば、真理を奪い、真理の圧殺のうえに日本の政治をおしすすめようとする日本帝国主義、七〇年に日本の歴史を反動と侵略の方向へおしすすめようとしている帝国主義にたいして一大反撃をくわえる巨大な力が大学の内部に巨大に形成されること、そしてこれをたたきつぶそうとする大学の内外における反動にたいして徹底的な闘争が開始されることいがいにありません。
 われわれは、大学の変革を大学の内部で閉鎖的に解決されるものとしてではなしに、七〇年安保粉砕・日本帝国主義打倒の歴史の大きな道筋にこれを位置づけ、そのたたかいのなかに大学の矛盾の解決を集約してたたかいぬく立場にたったときに、はじめてこんにちの大学闘争をとことんたたかいぬいていく姿勢が生まれてくることを確認しなければなりません。この日本の社会全体の変革と機械的にきり離された次元で大学の改革、革新を論ずる人びとはあきらかに、日本のそういう歴史的な過程に対立するものだと見なければならないのであります。
 具体的事項の検討をとおしてこの問題をもう少し考えてみたい。東大闘争のあの一月一八、一九日の激闘ののち、法学部研究室にとびこんでいった学者たちがいます。加藤代行のブレーンをなしている国際法の寺沢一、ドイツ政治史の篠原一、国際政治学の坂本義和など高名な諸教授でありますが、これらの教授が東大の問題をどううけとめたのかのなかに、じつは日本の学問のもっている腐敗のふかさを見ることができます。
 たとえば、篠原一教授はドイツ政治史の専門家で、最近ではファシズムの研究をやっているようでありますが、そのかれが、今回の東大闘争でナチス・ドイツの法律にかんする貴重なマイクロフィルムが破壊されたので、もう学問をする気がしなくなった、と嘆いているそうであります。しかし、もしファシズムの法律にかんする資料がそんなに重要なら、マス・プリでもして配ればよいので、それを自分の研究室に大事にしまっておいて、はじから小出しにしてそれを研究の成果とするような金利生活者みたいなやり方で学問をやっているところにもともとかれの問題があるわけです。自分の研究室で階級闘争がおこったのだから、これほど研究の素材が、豊富になったことはない。おおいに意気を燃やして学問研究に接近しなければならないはずであります。ところが、かれはそういうアプローチの方法をとらないで、マイクロフィルムのなかに学問があると考えている。
 もちろん、ナチスの法律の研究をすることじたいが無意味だというわけではありません。ナチスというのは、たとえばアウシュヴィッツ収容所のユダヤ人の大量虐殺の例のようにものすごく残忍で反人間的なことをやっておきながら、他方では、ナチスの法律を研究していくと、ナチスが「非常にやさしいこころね」と「ものを大事にする精神」をもっていることがわかります。
 たとえばナチスの法律には「カニ・エビその他の甲殻動物であって、その肉が人間の食用に供せられるものを殺すときは、熱湯に、なるべくひとつづつ投げこまなくてはならぬ。これらの動物を冷水あるいは温水に入れてから加熱することは、これを禁止する」(生魚その他の冷血動物の屠殺および貯蔵にかんする条例第二条「一」一九三六年一月一四日施行)というような法律が沢山あります。このようにナチス・ドイツは、アウシュヴィッツ収容所で何百万という人間を殺しておいて、他方ではカニやエビの死に方について法律をつくつている。しかし、これこそナチズムというものがもっている本質的論理構造であるといえるのであります。つまり、もののあわれとか、花の風情を一方で盛んにいっている人たちが、もう一方では人間を食いものにし、人間の虐殺のうえに政治をやり、みずからの利益を貫徹するようなことを平気でやっているのですが、だが、この両者のあいだになにひとつ矛盾が存在していないのであります。ところが、わが篠原教授は、ナチスの法律の研究をとおして、こうした支配者の論理構造をつかみとり、これを実践的に粉砕していくのではなく、逆に、国家権力の重圧のなかで支配者の論理構造の恥ずべき走狗となっていたのであります。
 反動的マスコミ屋どもは、東京大学のなかで文化が失われたといっていますが、だいたい文化とは、マイクロフィルムでなくて、まず人間であります。学生が警察権力によって弾圧をうけて、両眼が失明したり、死の危険にさらされているこの事実について、寺沢一や篠原一や坂本義和が心を集中しないで、まず大学の研究室のドアを開けて「オレの本がどの位残ったか、マイクロフィルムがどの位破損したか」と腐心して泣きべそをかいている――こういう論理構造が進歩の名において東大に存在しているわけです。
 ある人たちは、東大のなかにだってマルクス主義の研究がおこなわれ、政府の批判がおこなわれているから、学問の真理の探究がおこなわれていると主張しますが、これはまったくおろかなことです。
 むしろ一見政府を批判するようなものすら大学のなかに存在しながら、全体として建国記念日を認め、大学のなかに国家権力をひきこんで、その手によって非人間的行為が現実に展開されているにもかかわらず、そのことのなかからみずからの政治学的結論をひきだすことができないで、マイクロフィルムの損失しか歎くことができないほどこんにちの大学は腐敗していると見るべきであります。
 そもそもわれわれにとってファシズムの研究とは、ファシズムをなくすこと、あるいはファシズムに代表されているような圧政者の論理を打倒することでなければならないのであります。しかし、実際上は、大学のなかで学問の自由が存在しているかのようなたてまえが、建国記念日というかたちでおこなわれている無知蒙昧を学問の名において、大学の名において擁護するゆえんになってしまっている。こういう大学のあり方そのものをわれわれはうちやぶっていくことでなければならない。
 したがって、こんにちの学生にとって唯一のモラルは行動すること、つまり、こういう日本の社会、大学の状態を根本的に変革するたたかいの具体的な担い手として一人ひとりの学生がたちあがることでなければならない。つまり大学中に、社会の不正と徹底的にたたかうというような力が澎湃(ほうはい)としてまきおこり、これが大学を砦として社会の不正に、権力に対抗する部隊として登場してきたときに、はじめて大学は大学のもっているみずからの使命を今日的に達成することになるのだと思います。
 われわれは、第二次大戦の最中のレジスタンスにおいてジョリオ・キューリー研究所の内部で、ウラニウムを研究したその手で、試験管をふるったその手で、キューリー爆弾=火炎ビンの製作に熱中していたこの学者たちの態度こそ、こんにちもっとも学問的な態度であるとみなさなくてはならないのであります。もちろん、われわれは学問研究を放棄せよといっているのではない。だがむしろわれわれにとって必要なことは、ファシズムを研究することとファシズムをなくしていくことを篠原一のように機械的に分離することが、実際上それに似たような事柄がおこったときにはなんの力にもならないでむしろ権力のなかにあるファシズム的な論理を助長し、イデオロギー的意義を付与していくようなものにしかならなかったのだと、厳しく自己反省し、ファシズムを研究することとファシズムをなくしていくこの両者を一つの実践的行為のなかに結びつけていくことでなければならないのであります。
 「ミネルバの梟(ふくろう)は、日暮れてとびたつ」という諺があります。「ミネルバの梟」とは学問とか真理とか研究をさし、「日暮れて」は「人間の実践的行為が終わったあと」をさしています。つまり、人間の歴史的行為が終わったあとに学問は発生するという意味です。つまり歴史を選択し決定するような行為は、あるいはそういう時代がはじまっているようなときには、既成の理論よりむしろおこっている事柄の方がもっともっと大きな意味をもっている場合が多いのであります。したがってこんにち必要なのは、こんにち世界の歴史がもっている曲り角をはっきりと見きわめること、そしてすでに七〇年にむかって開始されている民衆の行動の背後に存在する論理を理論的にふかめながら、同時に七〇年にむかって歴史を動かしていく行為のなかにそれを止揚していくことでなければならない。そしてこんにちの段階では、「学びつつたたかい、たたかいつつ学ぶ」この倫理でなければならない、いや学生のみならず、日本のすべての民衆が、七〇年へむかってひとしくかちとっていくべき共同の倫理でなければならないのであります。
 こういう日本の歴史の大きな胎動が開始されるときに、はじめて日本において新しい文化が創造される歴史的条件が形成されるのです。われわれは紀元節によって代表されるような無知蒙昧な、荒唐無稽なものが国家の紋章として張りつけられているようなさげすむべき国家に最後の言葉を投げ与えて、新しい日本の社会、国家、文化をわれわれが創りあげていく、その歴史の曲り角のカジを握らなくてはならないと思います。
      (『前進』四二二号、四二三号、一九六九年二月一七日、二四日 に掲載)