天皇制ボナパルティズム論
    日本近代国家論にかんする批判的覚書(一)
 
 本論文は一九六〇年十二月に発表された。日共スターリン主義内部の天皇制をめぐる綱領論争、志賀・神山論争の止揚をつうじて、天皇制ボナパルティズム論をうちだした歴史的文書である。
 
 
 天皇制問題を特集した『思想の科学』一月号を、中央公論社が後難を恐れて自主的に「発禁」した、という記事を読みながら、わたしは、日本的近代主義の敗北の過程が、いままた、くりかえされていくのをみたように思った。アメリカ的機能主義で粉飾することによってかろうじて生き残ったこの矮小な日本的近代主義が、日本ブルジョア社会の片隅に追いつめられた天皇制ボナパルテイストの老朽した腕力に無残にも、たたきのめされる悲喜劇を見せつけられても、わたしは、この敗残者たちにいささかの同情ももつべきではないと決意した。なぜなら、ヘタな茶番と同様に、これら知的道化役者たちは、幕がかわれば、変りばえしない衣裳に着かえて登場してくるにちがいないからである。
 もともと、わたしは、日本の知的勇士の最強の「武器」は自殺の思想の欠如ではないか、と考えている。
 本当に不敗の思想的立脚点を形成するためには、わたしたちは、敗北に泥酔したり無感覚である敗残の名士たちにたいし、甘い顔などけっして見せてはいけないのである。『思想の科学』などという愚鈍な商業誌が廃刊になったことを、わたしは、すこしも残念だとは思わない。むしろ、遅きに失したとさえ思う。ただ残念なのは、わたしたちの力で精神的引導を与えてやることができずに、老残の天皇制ボナパルテイストの強面(こわもて)にさきをこされたことである。
 だが、考えてみると、日本的近代主義が天皇制ボナパルテイストの一喝で戦線から逃亡したこと、しかも、その介添役が日本的知性の素町人的な後見人であった中央公論社である、という念入りな筋書も、日本的近代主義の最後を飾るものとして、それほど悪いできとはいえないのではなかろうか。というのは、すでにブルジョア的日本の紋章にまで去勢してしまった天皇制にたいして批判的ポーズをとることで自分の進歩性を立証しようとする「左翼的」ジャーナリストの方法は、「大政奉還」をブルジョアに進言する天皇制主義者とともに、なんの現実性もないからである。この無意味な闘争を、おそらくは、ブルジョアジーは舌をだしてみているにちがいないのである。
 わたしは確言する――。ブルジョア的日本の主人公たちは、天皇一家に愛玩的感情を抱いてこそおれ、尊敬など薬にするほどももちあわせてはいないのである。成金が家譜を買いあさるように、ブルジョアの貴族主義的趣味を満足させるための冗費である、とわたしは思う。あえていうならば、三越の入口に鎮座している獅子像のごときものである。だからこそ、ブルジョアジーは、逆に、自分の貴族的象徴の名誉をまもるためにムキになるのである。
 もともと、日本のブルジョアジーは、イギリスやフランスの勃興期ブルジョアジーのように、青春の日の幻想にかかわりあう余裕などありはしなかった。もっと狡猾で、もっと現実的であったのだ。かれらは、革命とか自由とかいうような、幻想的闘争に瞬時も心を動かすことなく、貴族的天皇制の内側から注意ぶかく侵食していって、しだいに、ブルジョアジーの国家形態に変質させていったのである。
 若き日本のプロレタリアートが、すでにブルジョア的国家に変質してしまった天皇制(ボナパルティズム的統治形態)にたいし、ブルジョア民主主義の革命的実現(民主主義革命)を合言葉に死活の闘争をいどんでいるとき、老かいなブルジョアジーは、政治闘争の後景にしりぞいていればよかったのである。五・一五事件から東条政権の成立にいたる政治的全過程は、天皇制ボナパルティズムにブルジョア的腐敗の一掃を幻想的に託した農民的=軍事的反乱が、現実には、軍事的国家独占資本主義を強力的に形成する動力に吸引されていく過程であった。
 そして戦後、ブルジョアジーは帝国主義戦争の責任をブルジョア的実体をぬきとった「日本軍国主義」なるものに転嫁し、旧軍人や頑迷な天皇制ボナパルテイストにたいしてプロレタリアートが小児病的な闘争に執着しているあいだに、政治的権力を全一的に掌握してしまったのである。こうした戦後日本プロレタリア革命の敗北を隠蔽し、ブルジョア的支配の完成を美化するための欺瞞的綱領こそ、悪名たかき「日本民主革命」であったのである(『共産主義者』第四号、田宮論文参照)。
 だが、戦後、日本国家が基本的に天皇制ボナパルティズム(地主とブルジョアジーの権力)から議会民主制(ブルジョアジーの権力)に転換したという事実から直接に、天皇制ボナパルテイストの政治的役割を無視することは、わたしは正しくないと思う。自由化を契機に激化するであろう帝国主義的市場競争とソ連圏との経済的争闘に備えて、日本ブルジョアジーは、国内の政治的秩序のブルジョア的安定のための一連の攻撃を強化しはじめている。ブルジョアジーは、必要とあらば、プロレタリアートの政治的背骨をたたき折るために、天皇制ボナパルテイストの動員した凶暴な部隊を先兵として利用するであろう。だが、それは、ブルジョア的支配の防衛のためであって、その逆ではない。
 戦前の天皇制的政治形態になぞらえてブルジョアジーを「非難」する方法は、もはや、なんらの現実性をもちえない、とわたしは思う。日本天皇制ボナパルティズムの凶暴性は、じつに、日本ブルジョアジーの危機的構造から必然化した政治的表現であったのであり、「皇太子ブーム」に象徴される戦後天皇制の開明的性格は、じつに、日本ブルジョアジーの政治的安定性の結果である。
 ブルジョア日本の主人公たちは、極度に硬直した民主革命論者や近代主義者たちのはるか前方を邁進しているのである。帝国主義的再編の強行的実現の後方にあらわれる白いアブクの乱舞を見て、「民主主義をまもれ!」などとあわてふためいても、ブルジョアジーに太刀打ちできないのである。
 ブルジョア的秩序の革命的転複――これが天皇制ボナパルテイストの暴力と思想にうちかつ唯一の道である。日本的近代主義の最期は、迫りつつある。社学同の辞世の句ではないが、「もはや、死ぬことしか残っていない」のである。(六二年一月)
 
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 戦前の日本共産主義運動が直面した天皇制権力の階級的特質はいかなるものだったのか――こうした問題の理論的解明は、すでに天皇制が統治形態の後景にしりぞいてしまったこんにちでは、革命論争のなかではもはや第二義的な意味しかもちえない。天皇制は敗戦直後の革命的激動と日共の裏切りのなかで、ブルジョアジーによって現実に解決されてしまった。こんにちでは、天皇制は国家の正面にしみついた紋章にまで去勢されている。
 だが、こうした現実は、われわれ革命的共産主義者が天皇制問題からたちさることを許すだろうか。われわれは、労働者や学生のマルクス主義的サークルのなかで天皇制にかんする種々の質問によくあうのである。
 それは、おおよそ、つぎのような事情による。
 第一には、社会革命への志向は一般に、現存する国家がいかなるものであり、いかにして形成されたのか、という関心を広範につくりだすこと。そして、わが国ではつい先日まで天皇制という「例外的国家」が存続していたこと。第二には、天皇制問題は、日本共産主義運動の挫折と敗北の基本的回転軸の一つをなしていたこと。したがって、日共にたいする批判が歴史的過去にむかってすすむならば、必然的にこの核心に接近せざるをえないこと。第三には、にもかかわらず、こうした検討におもむこうとしている人のまえには、さまざまな色合をもった「天皇制」論が破廉恥にもめじろおしにならんでいること。しかも、既成のいっさいの「天皇制」にかんする諸理論は、労農派もふくめて戦後の「民主革命」のなかで破産したにもかかわらず、いぜんとして革命運動の体内にふかく亡霊のようにしがみついていること。第四には、われわれ革命的マルクス主義者にとってこうした理論亡霊を全面的に退治することがまったく必要であるにもかかわらず、そうした仕事は、ほとんどといっていいくらい、おこなわれていないこと。
 こうした右の事情は、われわれにきわめて困難な、だが、まったく分にあわない仕事を強制する。かつて、エンゲルスは、『住宅問題』の序文のなかで「ある程度までたちいって近代社会主義を研究するものは、運動の『克服された見地』をも知らなければならない」といったが、わが天皇制にかんして、ブルジョアジーの側ではすでに「克服された見地」に到着しているのに反して、プロレタリアートの側ではいまだに「克服された見地」が与えられていない。
 『早稲田大学新開』八一六号にのった宍戸恭一『現代進歩的文化人論』(上)は、「日共公認の史観を打破するために最初に着手すべき作業」として「その第一は、戦前の日本共産主義運動が対決すべき国家権力の性格は、『天皇制ファシズム』ではなくて『絶対主義天皇制』であるということの確認である」といっている。つま宍戸恭一は、「日共公認の史観」である志賀説=天皇制ファシズム論を「打破」するために、神山説=絶対主義天皇制論を対置しようとする。
 だが、こうした「作業」によって、はたして「日共公認の史観」は「打破」されるだろうか。
 たしかに、神山茂夫の「二重の帝国主義」=「絶対主義天皇制」論は、「日共公認の史観」ではなかった。往年の志賀・神山論争では神山説は、日共内の官僚主義的統制によって、理論外的に封殺された。こうした処置は、後年の『神山問題』へと結びつく不吉な兆候でもあった。
 事実、スターリン=ブハーリン的な二段階戦略に立脚しつつ、いわゆる三二年テーゼに依拠して展開された神山の「天皇制ファシズム」論批判は、それなりに首尾一貫した理論でもって、志賀理論と三二年テーゼのあいだに存在する対立と空隙を拡大して見せてくれた。こうした神山とその一派の精力的な理論活動は、それじしんとしてはきわめて戯画的な誤謬ではあるが、にもかかわらず、志賀理論の不確定戦略的な本質とそのファシズム論の現象論的な特質を暴露するという意味では、それなりの有効性をもちえた。
 天皇制ファシズム論の原典ともいうべき志賀の「明治以来、天皇制が強大な独立性をもつ国家権力としてつづき、一九三一――四四年のあいだに、絶対主義的な天皇制が、帝国主義的権力としてそのままファシスト的役割をやらされることになった……」(『軍事的・封建的帝国主義について』)という所説が、いかにたあいのない現象論であるか、われわれは、ここではこれ以上に論及せずに、半封建的権力としての絶対主義と近代的権力としてのファシズムとの質的差異を、神山とともに、指摘するにとどめよう。
 だが、こんにち、「日共公認の史観を打破」すると称して、神山のかつてのこうした見地がチリをはらって復活しようという事実に直面して、われわれはいささか感ずることもなくはない。
 考えてみると、八月一五日まで日本に絶対主義が存在したという見解は、いくらか理論癖をもった「マルクス主義」者のあいだでは、かなりの支持者を発見することができる。中西功や佐藤昇や柴田高好のような、スターリン主義者のなかではそれなりの理論的水準をもった人たちが、こんにちでもいぜんとして、敗戦当時の天皇制を絶対主義と規定しているのを知って、われわれは、天皇制問題の理論的混乱について、いまさらながら、りつ然とする。
 しかし、こうした混乱は、ただたんにスターリン主義者のあいだにとどまらず、吉本隆明のような人でさえ、天皇制を「地主=官僚制」と考え、神山の『天皇制に関する理論的諸問題』における分析を「わたしの知っているかぎりでは、もっとも正確な日本ファシズムへの理解である」などといっている始末である(吉本『日本ファシストの原型』)。
 だが、これらの人たちが、天皇制を絶対主義と規定しようとする原因には、それなりの現実的基礎と心情的状況がなくはない。たとえば、吉本は共産主義者同盟の綱領草案が「戦前・戦争期・戦後を直接的なアスハルト路で切開している」のにたいして「わたしなどがいだいている太平洋戦争期から戦後期にかけての社会的ヴィジョンはこれとすこしちがっている」とのべ、「太平洋戦争期は、三二年テーゼが規定する権力構成がしだいに構造をかえていった過程であり、敗戦・占領は、ブルジョア的な変革がしだいに完成する過程である」といっている(吉本『戦後世代の政治思想』)。この論文には、政治的概念の混乱、とりわけ三二年テーゼの桎梏が色こく刻印されている。にもかかわらず、政治的概念上の混乱を捨象して、この所説に想像力を与えるならば、吉本が、戦後の日本社会=国家の変化にもっと深刻な政治的=思想的意義を求めようとして苦吟しているのだ、と容易に気づくだろう。
 つまり、こんにち、われわれが、戦後日本革命の敗北の原因を解明し、その克服の道を照らしだそうとするとき、戦後のこうした変化をどう考えるか、そして、こうした変化にたいして日共や労農派マルキストがいかなる役割をはたしたのか、について解明することは、まったく不可避である。われわれは、吉本とはかなり相違した意味ではあるが「戦前・戦争期・戦後を直線的なアスハルト路で切開」しようとする共産主義者同盟の「公認の理論」とは、まったく別の方法をとろうとしている。
 われわれは、むしろ、戦前の天皇制とブルジョアジーの関係を鋭角的に再構成し、絶対主義でもファシズムでもない、別のブルジョアジーの「例外的国家」としてのボナパルティズム的君主制として天皇制をとらえ、戦後の変化を、こうした天皇制ボナパルティズムから議会民主制への解体――再編の過程として理解しようとする。こうしたわれわれの見解は、『安保闘争――その政治的総括』(現代思潮社版)のなかで、日共批判に関連してごくかんたんな定式に素描しておいた(一六六――一六七ページ)が、ここでもうすこし詳細にその理論的根拠ならびに現実的基礎についてあきらかにしたいと思う。
 
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 周知のように、イギリスで発達した資本主義の世界史的過程のなかに、日本が直接に投入されるようになったのは、一九世紀も後半にはいってからであった。
 明治維新で成立した近代的統一国家――すなわち、中央集権的な絶対君主制――は、それじしんとしては封建的家臣団が軍事的、警察的官僚制に転化することによって形成されたきわめて絶対主義的な国家であったにもかかわらず、欧米の列強と対抗していくためには、みずからの基礎である封建的な大土地所有制を解体し、資本主義的発展の道をはききよめなくてはならなかった。エンゲルスがロシアについて「もしもロシアがクリミヤ戦争のあと、自分自身の大工業を必要としたならばロシアはそれを三の形態すなわち資本家的形態においてのみ、得ることができたということは確かです。したがってロシアは、資本家的な大工業がその他いっさいの国ぐにでもたらすところのすべての結果をうけとらねばならなかったのです」(『マルクス・エンゲルス選集』三巻)といった事情が、日本でも同様におこった。
 明治初年の一連の農村改革は、封建的大土地所有制から近代的土地所有への過渡的形態としての過小農制を普遍的に生みだした。しかしながら、重要産業から集中的に外国の高水準の機械と技術を導入して展開された日本資本主義は、一方では有機的構成のきわめて高度な産業を形成していくと同時に、他方ではきわめて構成の低度な産業をとりのこし、超近代的な重工業と前近代的な家内工業が共存する奇妙な二重構造を形成したのである。そしてまた、こうした日本資本主義発展の特殊性は、農村から都市への労働力の流出をいちじるしく困難なものにし、没落し土地を手放した農民がふたたび猫のひたいのような土地を借りて耕作することによって、かろうじて生計をたてるという状況を普遍化した。こうした過小農制のうえに高利貸的な――すなわち、商品生産者としての小作農に帰すべき普通利潤のすべてを横奪し、普通労働報酬のかなりの部分すら横奪する――寄生地主制が成立した。だが、こうした過小農制を基礎とする高利貸的地主制は山田盛太郎がいうように日本資本主義の「半隷農的特質」を決定する「基底」ではなくして、逆に日本資本主義の特殊性と土地の私的所有を条件づけたのである。
 こうして、わが日本資本主義は、近代文明にとりのこされた「野蛮人」たる過小農と家内工業者のかなりの巨大な屑を社会のすみに追いやりながらしだいに日本社会の基本的な社会構成として勝利していく。明治二三年(一八九〇年)に開設された帝国議会における皇室歳費の審議権をめぐる政府と民党との闘争は、前記の資本主義的発展に基礎をもつ民党と貴族との矛盾の一つの幻想的形態であった。半封建的な土地貴族とブルジョアジーの均衡のうえに成立した絶対主義天皇制は、明治二九年(一八九六年)の選挙、すくなくとも、明治三一年(一八九八年)の隈板内閣の成立以後、その解体――ブルジョア的変質の過程に席をゆずる。
 だが、明治二九年には労働立法が問題になり、翌三〇年には足尾銅山事件がおき、労働組合期成会が組織され、小作人組合結成の動きがはじまった。日本のブルジョアジーは、あまりにもおそくやってきたために、ヨーロッパでは、すでにブルジョアジーが政治的に没落しはじめたのちに、その政治的最盛期をむかえようとしていた。ブルジョアジーが、かれらの工業、商業、交通手段を発展させればさせるほど、かれらはそれに比例してプロレタリアートを生みだす。そして、ある点にくると――これは、かならずしも、あらゆる所で同時に、もしくはおなじ発展段階においてあらわれることを要しないが――かれらは、かれらの分身であるプロレタリアートがかれらを追いこして成長しはじめるのに気づく。この瞬間から、ブルジョアジーは、独占的な政治的支配への力を失う。ブルジョアジーは、ただ自分のかわいい皮膚をまもりたいばかりに、かれらのきのうまでの敵、いっさいの反動的な勢力(貴族的地主階級)を同盟者として発見する。
 エンゲルスは、『ドイツ農民戦争』第三版の序文のなかで、つぎのようにいっている。
 「産業の急激な発展は、ユンカーとブルジョアとの闘争をしてブルジョアと労働者との闘争に席をゆずらせ、そのため、旧国家の社会的基礎は内部においても完全な変革を経験したのである。一八四〇年以来徐々に変質しつつある君主制は、貴族とブルジョアジーとの闘争を基礎条件とし、そこに平衡をたもっていた。もはや、ブルジョアジーの進出にたいして貴族をまもることではなく、労働者階級の進出にたいしてすべての所有者階級をまもることが問題になった瞬間から、旧絶対君主制は、とくにこの目的のためにつくりだされた国家形態たるボナパルト君主制に完全に移行しなければならなかった」(一八七五年)。
 われわれは、日本でもほぼ同様の過程が明治二九年――三二年ころからはじまり、大正二年(一九二三年)の護憲運動、おそくとも、大正七年(一九一八年)の原政友会内閣から大正一三年(一九二四年)の護憲三派内閣の成立のころまでには完了していたと考える。「大正デモクラシー」の名で呼ばれる外見的立憲君主制は、「ふるい絶対王政のこんにちの解消形態であるとともにボナパルト的王制の存在形態」(エンゲルス『住宅問題』)であった。
 こうした新しい政治的変化のなかで、支配的ブロック内部でのブルジョアジーの地位はますます拡大され、貴族および地主とブルジョアジーの同盟を維持しうるものはただ、大正六年(一九一七年)以来「急激にその数をまし、またその階級意識をいちじるしく強めたプロレタリアートにたいする恐怖にほかならな」かった。
 そして、このような日本ブルジョアジーの旧社会との闘争の不徹底さは、天皇制ボナパルティズムのもとに、高度に発達した資本主義社会のいたるところに、ドロドロとした前近代的汚物をぬりたてることを可能にした。こうした前近代的汚物は、なによりもまず、農村における過小農制と都市における家内工業制の広範な存在に物質的な基礎をもっていた。
 しかも、これらは、すでに悪臭を放ちはじめるまでに成熟した独占資本主義と対応することによって、経済的貧困と文化的退廃をよりいっそうふかめた。
 こうした情況は、ただ、独占資本主義にまで発展した資本主義的諸関係と土地の私的所有を根本的に変革しないいじょう、けっして止揚されえないだろう。
 したがって、こうした見地にたちえない小ブルジョアとそのイデオローグは、一方では、小農民の救済をブルジョアジーとプロレタリアートの階級的対立を「超越」した国家的意思の強力な実現に求め、他方では「ブルジョアなきブルジョア革命」を高度の独占資本に手をつけずに実現しようとする幻想にとりつかれた。 いまや、ロシア革命の遠雷によって、自己のプロレタリア的任務を自覚した若き革命家たちは、世界にツアーいがいには類例もないような凶暴な国家権力にたちむかっていかなくてはならなかった。だが、吉野作造や大山郁夫といった急進デモクラットのもとで左傾化した革命的インテリゲンチャの多くは、国家の直接的な凶暴性から天皇制を絶対主義として把握する現象論におちいり、しかも、こうした誤りは、スターリン=ブハーリン的な二段階戦略と結合することによって、日々激化するブルジョアジーとプロレタリアートの闘争と別個に「天皇制打倒」をかかげるという反動的役割すらはたしたのである。
 こうした小ブル急進主義的傾向は、革命的プロレタリアートの現実的闘争の発展、昭和二年(一九二七年)の金融恐慌・同四年(一九二九年)の世界恐慌による階級闘争の激化によって、しばしばプロレタリア革命の側への傾斜を示しながらも、プロレタリア革命論と二段階革命論のあいだを動揺し、ついには、志賀の「悪名高き」不確定戦略に結晶する。
 
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 マルクスは、一八五八年四月一六日付のエンゲルスあての手紙のなかで、「ドイツにおける全事態は、農民戦争の第二版のようなものによって、プロレタリア革命を助くべき可能性に依存するだろう。そうすれば、事件はすぐれたものとなるのだ」と語っている。
 プロレタリアートと農民の同盟の問題を提起したものとして有名なこの一節は、戦後の日本革命運動の挫折について検討する場合、きわめて貴重な視角をわれわれに与えてくれる。
 なぜならば、戦後のいわゆる農地改革に直面して、当時のいっさいの「マルクス主義」理論家といっさいのプロレタリア「指導部」は、共通してこうしたマルクス的見地にたつことができず、天皇制ボナパルティズムの崩壊→ブルジョア的議会民主制の確立の過程を「民主革命」、あるいは「民主的改革」として肯定的にとらえ、その不徹底性を論難するばかりであったからである。
 かくして、かれらは「農民戦争の第二版のようなものによってプロレタリア革命を助くべき可能性」をブルジョアジーの思惑どおりに自己の手で放棄してしまった。日本ブルジョアジーは、自己の旧来の政治的同盟者である地主を見すて、高利貸的地主制のもとで生産力の発展を阻止されてきた借地過小農民を自作小農民に変えることによって、この尨大な小ブルジョアを自己のあらたな同盟者に獲得したのであった。そして、わが「マルクス主義」者たちは、ごていねいにも、このブルジョア的過程にいろいろなマルクス主義的な説明(?)を与えることによって、こうした変化を美化し、労働者階級をブルジョアジーの末尾に結びつけたのであった。
 神山はいう――「日本の政治的・思想的流派の中、昔も今も一貫して戦争と反動の元兇である天皇制の廃止を主張しつづけた党派は、三〇年の歴史をもつ日本共産党だけである。従って、終戦前においては戦略的打倒の目標であった天皇制にたいする態度決定、すなわち、戦略問題をめぐつてこそ、共産党およびその支持者の陣列の中に離合集散がおこなわれた。………党正統派は、平和・米・土地・自由のための闘争を集約する戦略的闘争目標として絶対主義的天皇制の打倒を一貫して主張した。これに対して、この時代における敗北主義者と妥協主義者はすべて『天皇制万歳』を叫んだ。また、いわゆる『良心的転向者』は、日本の支配権力は、絶対主義にはなく、金融独占資本あるいはファシストの手中にある、と主張することで、天皇制権力への自己の降伏を合理化していたのである」と。(神山『天皇制に関する理論的諸問題』葦会版への序文一九五三年)
 つまり、神山によれば、「日共公認の史観」は「絶対主義的天皇制の打倒」を戦略的目標とすることにあった、というのである。したがって、宍戸の「日共公認の史観を打破する第一の作業が戦前の日本共産主義運動が対決すべき国家権力の性格は、『天皇制ファシズム』ではなくて、『絶対主義天皇制』であるということの確認である」との主張がいかに戯画的であるか、いうまでもないであろう。
 だが、まえに指摘したとおり、こうした主張には、それなりの心情的な基礎がなくもないのである。すなわち、戦前の革命家たちの革命的心情の一つの転回軸が、多かれ少なかれ、天皇制的な支配体制への憎悪につながっていたことであり、また、革命的陣列からかれらが離脱していく場合も、その多くは天皇制への屈服というかたちをとってあらわれたということである)
 たとえば、大逆事件で天皇制の絞首台にたった明治の革命家=幸徳秋水は、『兆民先生』(明治三五年発行)のなかで、つぎのようにいっている。
 「鳴乎巴里城中の平民、一たび竿を掲げて叫ぶや、欧州列国の王侯宰相為めに霑惶せるは何ぞや。他なし、民権は至理なれば也、自由平等は大義なれば也、憐れむ可し、東洋の小帝国、曾て此至理の彩華を現ずるなく、曾て此大義の甘雨に浴するなし。コウコウ然として専制の頑夢未だ覚めず、蠢々乎として猶ほ蛮野の城中に在り。……(兆民) 先生の仏国に在るや、深く民主共和の主義を栄奉し、階級を忌むこと蛇蝎の如く、貴族を悪むこと仇讐の如く、誓って之を苅除して以て斯民の権利を保全せんと期せるや論なし。且つ謂らく、凡そ民権は他人の為めに賜与せられるべき者に非ず、自ら進んで之を恢復すべきのみ。彼の王侯貴族の恩賜に出る者は、亦其剥奪せらるる有るを知らざる可らず。古今東西、一たび鮮血を濺がずして、能く真個の民権を確保し得たる者ある乎。吾人は宣く自己の力を揮て、専制政府を顛覆し正義自由なる制度を建設すべきのみと。」
 秋水が中江兆民を『革命の鼓吹者』として称揚し、パリ・コンミューンに感動し、専制政府の顛覆に熱中する兆民を語るとき、秋水もまた、ひそかに天皇制の打倒の日をおもいうかべていたであろう。そして、こうした専制政府=天皇制にたいする革命的態度はその後も、すべての革命家たちに継承されていったのである。
 だが、問題は、いまや、つぎの点にかかわる。すなわち、日清戦争以後、急速に数を増加したプロレタリアート、とりわけ第一次大戦以後、激化していくブルジョアジーとプロレタリアートの闘争は、こうした専制政府=天皇制との闘争にいかなる新しい意味を与えるか、という点に)
 ここにおいて、日共正統派は、こうしたブルジョアジーとプロレタリアートの均衡がもたらした天皇制のブルジョア的変質を見おとし、スターリン・ブハーリン的な二段階革命戦略にもとづき天皇制打倒をめざすブルジョア民主主義を主張し、そしてまた、日共から分離した労派は、二段階革命論を否定し、正しくも帝国主義ブルジョアジーの打倒をめざすプロレタリア社会主義革命を主張しつつも、天皇制をただ「封建的遣制]としてとらえ、日本国家権力構造の特質を正確に規定しえなかったのである。
 かくして、ブルジョア=地主という階級的実体と天皇制権力という国家的形態との形式主義的分離は、すくいがたい混乱を戦前・戦後の革命運動に与えるのである。そして、こうした混乱は、つぎのような事情によって、さらに拡大されるのである。
 すなわち、「ふるき絶対君主制の根本条件、すなわち、土地貴族とブルジョアジーとの均衡と相ならんで、近代的ボナパルティズムの根本条件、すなわちブルジョアジーとプロレタリアートとの均衡を発見する」(エンゲルス『住宅問題』)ような状況のなかで、「労働者階級の進出にたいしてすべての所有者階級をまもる」ために、天皇制ボナパルティズムという形態で自己の政治権力を実現した日本ブルジョアジーは、一方では、大正六年以来「急激にその数をまし、きたその階級意識をいちじるしく強めたプロレタリアートにたいする恐怖」から、土地貴族との同盟を強めつつも、他方では、重化学工業の急激な発展を基軸に日本資本主義の高度化をすすめつつ、「自作農創定維持補助規則」(一九二六年)の制定を起点に農村のブルジョア的改革に着手したのである。「もっとも穏健なる形式で、かつ『つねに漸進的』という気持のよいメロディーとともに……」
 独占ブルジョアジーのこうした農村政策は、戦時経済によって促進された銀行と重化学工業の集中・独占・国家資本との融合、三井財閥の池田成彬の改革に表現される旧財閥の再編、国家独占資本主義への発展、という新しい過程のなかで、より急速にすすんでいった。農地調整法(一九三八年)、小作料統制令(一九三九年)、米穀管理規則(一九四〇年)などの一連の日本農業への国家独占資本主義的統制は、小作料の金納化を不可避とし、さらに、臨時農地等管理令(一九四一年)、作付統制規則(同)、農業生産統制令(同)、食料管理法(一九四二年)、農業団体法(一九四三年)などによる全面的な農業統制の確立は、地主制の解体を深刻化したのである。そして徴兵の拡大による農業労働力の絶対的、相対的な縮小は、高利貸的地主制の成立を根拠づけていたひとつの条件である土地飢餓を解消してしまったのである。
 こうした一連の農業政策は、地主層の没落を急激に促進し、同時に、政治的支配層内部における土地貴族の政治的比重をいちじるしく低下せしめた。だが、この事実から直接に土地貴族の政治的没落→支配層のブルジョア的均質化を結論づけることは誤りである。日本支配階級の極度の反動性を決定づけていたこうした要素が完全に一掃されたのは、戦後である。そして、こうした『ファシズム』論者の素朴な反映論は、天皇制絶対主義論者をして、召喚派を批判したレーニンの「かかる誤謬――専制政治と君主制との忘却、これを直接に上層階級(ブルジョアジー)の『純粋』の支配に帰せしむること」という断片にしがみつかせ、一応の説得性を与えることになるのである。
 
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 日本帝国主義者の軍事的敗北、それによる軍の自己崩壊、官僚制度の停滞、そして敗戦前から深刻化していた生産の低下、等々の日本資本主義の危機は、戦後、急激なテンポで高揚を示した労働者階級の闘争と対応することによって、前革命的情勢をつくりだした。天皇制ボナパルティズムの「独立性」の実体を構成してきた軍隊の崩壊、警察・官僚制度の解体、地主=土地貴族の実質的没落、そして都市におけるプロレタリアートの革命的高揚と農村における農民的動揺、これら一連の政治的激動は、いっきょに、ブルジョアジーの統治形態であった天皇制ボナパルティズムを崩壊せしめた。
 いまや、革命的プロレタリアートにとって、ブルジョアジーのあれやこれやの統治形態が問題ではなくして、こうしたブルジョア的支配の打倒が現実的課題として登場したのである。敗戦によるブルジョア的秩序の混乱は、「内乱」に転化されねばならなかった。
 だが、公然とした活動の自由を獲得した日共は、『人民に訴う』との第一声明のなかで、絶対主義天皇制打倒を強調し、三二年テーゼに忠実に民主主義革命の完成をよびかけたのであった。日本ブルジョアジーがすでにふるき統治形態である天皇制ボナパルティズムの崩壊を確認し、あらたな統治形態を模索しているときわが労働者「前衛党」は、かれらにかわってブルジョア民主主義の実現を要求し、地主制の一掃による小農の普遍的成立を綱領的課題としてたたかったのである。
 戦時中の天皇制権力の規定をめぐる志賀・神山論争は、こうした「民主革命」の幻想のうえに、はなやかなジャーナリズムの脚光をあびながら進行した。だが、ここには、レーニンの論文の断片をめぐる訓古学者的な探究はあっても、労働者階級の現実的闘争が提起する諸課題との生きいきとした交流は片鱗すら見いだすことができないのである。まことに、「革命的プロレタリアートにとって、自由主義化したブルジョア・インテリゲンチャの悲しむべき各種の偏見をさけて通ることは できない」(神山・前掲書)のである。
 だが、戦前、資本主義論争のなかで二段階革命戦略に反対し、「和製トロツキスト」(内田穣吉『日本資本主義論争・歴史編』)と烙印された労農派もまた、こうした事情を根本的に変えさせるものではなかった。
 労農派の「闘将」であるといわれる向坂逸郎はいう――「私は、日本の敗戦をもって終った第二次世界大戦後の世界の政治経済の動向と日本の新たな社会情勢とは、おそらく日本におけるプロレタリアートの戦略と戦術とを根本的に変化させるのではないかと考えていた。……新たに生じた日本の国際的地位は、日本プロレタリアートの主要なる当面の階級的任務を、民主主義革命の完成におくほかなからしめている。そしてこのことに日本国民が成功するか否かは社会主義社会への進展」がいわゆる平和的なみちを通って最小の摩擦をもって遂行されるかどうかを決定する。……すなわち、日本における社会情勢の変化は社会革命を一段的というより、むしろ二段的というのをより適切としているかのようである」と(『日本資本主義の諸問題』再版序文一九四八年)。
 つまり、向坂によれば、戦後の国際情勢の変化は日本プロレタリアートに民主主義革命の完成という「主要なる当面の階級的任務」を与えたというのである。こうした向坂の見地は、山川均の『民主革命論』の「民主的権利の拡大」との表現と対応させて考えるならば、労農派の主要な見解であるといえるであろう。
 わが「社会主義革命」論者は、プロレタリア革命の前夜に直面して、いまや「民主主義革命の完遂」(対馬忠行『日本民主革命論』一九四九年)という一段階をあいだにはさむことによって、こうした前革命的情勢を流産させ、ブルジョアジーが自己の政治的、経済的体制を確立するための時期を与え、こうした過程を「左翼」的に美化する役割をはたしたのである)
 かくして、わがブルジョアジーは、スターリン主義者と左翼社会民主主義者の裏切りによって援助されることによって、敗戦による革命的危機をのりきり、アメリカ占領軍の「強力」によって社会秩序の混乱に対処しつつ、農地改革を遂行し、警察・官僚制度を基本に「ブルジョア支配の首尾一貫し形成」(エンゲルスのベルンシュタインへの手紙一八八三年)である民主的議会制へと移行するのである。こうした戦後日本の天皇制ボナパルティズムから議会民主制への転換は、帝国主義ブルジョアジーにより安定した政治的階級関係をもたらした。
 だが、こうした危機の回避は、ただ小ブルジョア的「マルクス主義者」の裏切りによる労働者階級の血みどろの敗退によってのみ、可能であったのである。そして、戦後のこの「民主化」を「民主革命」としてしかとらええなかった、いっさいの「マルクス主義者」は、マルクスが一八四八年のドイツ革命における小ブルジョア左派の役割についてのべたつぎのことなどが、なんと似かよっていることか。
 「民主主義小ブルジョアは、革命的プロレタリアのために全社会を変革しようなどとは毛頭考えず、現在の社会をできるだけ自分らに我慢のできる、そして快適なものにするような、そうした程度の社会状態の変化をめざして努力する。したがって、かれらはなによりもまず、官僚の縮小による国費の節減と、主要な租税を大地主とブルジョアとに転嫁することを要求する。かれらはさらに、官設信用機関と高利取締法――かれらや農民はこれによって資本家からではなく国家から有利な条件で借入できるようになる――によって小資本にたいする大資本の圧迫を排除し、さらに、封建制度を完全に一掃することによって農村におけるブルジョア的所有関係を貫徹させることを要求する。これらのすべての要求をつらぬくために、かれが必要とするものは、立憲的なものにせよ共和的なものにせよ、かれらとその盟友たる農民とを多数派にする民主的国家組織と、自治体財産および現在官僚によって行使されている一連の機能にたいする直接の統制権をかれらの手に与える民主的な自治体制度とである」(マルクス『共産主義者同盟への中央委員会の回状』)。(六〇年十一月)
   (『批判と展望』二号一九六二年四月 に掲載)