二 第四インターの歴史的破産
    右翼的逃亡と脱落の根拠と現実
 
 本論文は、一九七二年七月、『前進』に二回にわたって掲載され、のち『共産主義者』二四号に収録された。トロツキー主義と第四インターの歴史的破産を根底的に批判し、革命的共産主義運動の綱領的独自性を照らしだし、勝利の展望を強くうちだした重要な論文である。発表時署名は黒沢昌三。
 
 
序 章 わが同盟の戦略的、組織的前進と第四インターの脱落
   (1)強大な戦略的、組織的前進/(2)政治配置の巨大な変動/(3)破防法攻撃とK=K連合、カクマル反革命を粉砕し、内乱・内戦――蜂起の準備を推進せよ/(4)第四インターの逃亡と脱落
第一章 日本における革命的共産主義運動の歴史的特質と第四インター日本支部
   (1)綱領的立脚点の確立/(2)革命党建設の前進/ (3)戦略的総路線の展開/(4)革命と反革命の対峙/ (5)第四インターの随伴者的性格
第二章 第四インターの歴史的破産――その戦略論的、組織論的、戦術論的な根拠について
   (1)破産と無為の四〇年/(2)日和見主義の体系(A 独裁論の客観主義化/B段階論なき世界認識/C社民的組織論/D戦術右翼主義)/(3)スターリン主義への屈服
第三章 第四インター日本支部の主張点の主要な誤りについて
   (1)空論と日和見主義のアジア戦略/(2)日帝打倒を 回避した沖縄闘争方針/(3)蜂起の観点を欠如した戦術 /(4)K=K連合粉砕闘争からの逃亡
 
 
 
 序章 わが同盟の戦略的、組織的前進と第四インターの脱落
 
 1) 強大な戦略的、組織的前進
 
 偉大な闘争のたかまりの時代にむかって情勢は確実な足どりで前進している。
 アメリカ帝国主義と日本帝国主義のベトナム共同侵略の絶望的な激化と、それにたいする世界人民の巨大な反撃のたたかいは、戦後世界体制の崩壊的危機のふかまりを(反帝国ま義・反スターリン主義世界革命)に転化すべき革命闘争の必要性と現実性とを鋭く提起している。米中会談、米ソ会談に代表される、アメリカ帝国主義の中ソスターリン主義との反人民的な協商の政治は、(民族解放・革命戦争)の歴史的勝利をめざすベトナム人民にたいし、巨大な反動的圧力としてのしかかっている。
 ベトナム人民をはじめとする全世界のプロレタリアート人民は、いまこそ、アメリカ帝国主義にたいする(民族解放・革命戦争)の歴史的勝利のためにかたく団結し、帝国主義の絶望的な攻撃と、それに屈服したスターリン主義の反動的圧力を断固としてぶちやぶり、戦後世界体制の崩壊的危機を国際的内乱に転化する重大な戦略的任務にむかって強大な前進を開始しなくてはならない。
 五・一五を画期とする日帝の沖縄政策「七二年沖縄「返遷」政策の攻撃に抗して沖縄奪還闘争の永続化の道を確固としてもぎりとった日本プロレタリアート人民は、(侵略を内乱へ)の戦略的総路線のもとに、米帝と日帝のベトナム共同侵略粉砕・沖縄――本土の出撃基地撤去の巨大な闘争を、沖縄奪還闘争・入管闘争・狭山闘争などとかたく結合して決定的に発展させはじめた。内乱・内戦――蜂起の準備の思想と、蜂起への一階梯としての総力戦的な闘争形態の恒常的な定着化の前進は、わが同盟とその指導下のプロレタリアート人民の勝利への確信を日に日に強めている。日帝国家権力の破防法攻撃の全面化との内乱的対峙、またカクマル反革命のK=K連合的襲撃との内乱的対峙をとおして血と汗をもって獲得したこの人民共同の成果は、かならずやプロレタリアート人民の巨大な革命的決起にひきつがれていくであろう。
 
 2) 政治配置の巨大な変動
 
 戦後世界体制の崩壊的危機のふかまりと、それにもとづく帝国主義の絶望的な攻撃の激化、国際スターリン主義の席国主義への屈服とそれをめぐる分解と没落の際限のない進行、そして帝国主義とスターリン主義の反動的協商をぶちやぶって前進しようとする全世界プロレタリアート人民の闘争と、それを保証する思想的・戦略的展望の模索――情勢のこのような基本的特徴は、政治的党派配置の巨大な変動という形態をとって、日本階級闘争の現実的展望のなかにもっとも明瞭にうつしだされようとしている。
 第一の指標は、議会内勢力のとどまるところを知らぬ無力化と地位低下である。伝統的な議会主義支配の方法は、内外する情勢の発展のなかで行きづまりを明確にしている。議会主義的水路に包摂しえない内乱型の階級闘争の発展と、それに対応した警察的、行政的、軍事的官僚機構のボナパルティズム的な強大化の傾向こそ、伝統的な議会主義支配にとってかわるこんにちの政治ホウコウである。
 第二の指標は、内乱・内戦――蜂起の準備の戦略をもった革命党とその指導下の革命勢力の強大な前進である。日帝のアジア侵略、議会主義の後退、権力機構の反革命的な独立化、内乱型階級闘争の発展こそ、日本階級闘争のもっとも根底的な要因である。
 第三の指標は、中間主義的左翼諸傾向の没落と分解である。共労党、フロントなど構改系左翼勢力の完全な分解、解放派、日向派など宮下右派ブロックの没落と分解は、革命的左翼内の同伴者的要素の未来を明確に照らしだしている。
 第四の指標は、カクマルのK=K連合、反革命勢力への明確な移行と、それにもとづくカクマルの混乱と低迷である。革命的左翼の反動的疎外形態として経済主義、分裂主義の傾向を党的に表現してきたカクマルは、六九年の十一月決戦と七一年の大暴動闘争を画期として、革命的左翼の原則を最終的に放棄し、反革命勢力に移行し、K=K連合を形成した。かれらは、権力への投降とその庇護のもとでの反革命的成長という転向の現代的形態を典型的に生みだし、体制内左翼の主座をめぐつて日共との接近と反発の関係を緊張させはじめている。
 しかしK=K連合、反革命襲撃集団としてのカクマルの純化、それにたいするわが同盟の壊滅的批判とせん滅闘争の前進は、カクマルの私的願望とは正反対にカグマルの政治的低迷と内部的分解を決定的に促進しはじめている。カクマル反革命とわが同盟との内乱的死闘が正しく発展するならば、それは、革命的左翼とプロレタリアート人民の巨大な部分を内乱・内戦――蜂起の準備のための闘争に動員する決定的水路となるであろう。それゆえ、またそれは、カクマル反革命の没落と解体を促進する重大な水路ともならざるをえないのである。
 第五の指標は、日共スターリン主義の議会主義と排外主義へのいっそうの純化と、それにもとづくあらたな混乱と分解の進行である。
 日共の議会主義への埋没、排外主義への屈服のふかまりが、日帝の伝統的な議会主義支配の危機を支え、日帝のアジア侵略とそのための権力機構の独自的強大化の道を隠蔽する反動的役割をはたしていることは周知のとおりである。それゆえ、外見的にはどんなに順調な党勢強化がみられようとも、内実的には脆弱化と空洞化の危険をますます拡大せざるをえないのである。一方では民青中央などいくつかの戦線にみられるサラリーマン的右傾化と党指導からの自立化の傾向、他方では議会主義――排外主義の指導に反発し、革命的左翼の歴史的闘争につき動かされてベトナム反戦闘争、基地闘争、沖縄闘争の戦闘的展開を要求する傾向、という日共を根底から揺るがす二つの傾向に直面して、いまや宮本指導部は、構改派(六一年)、ソ連派(六四年)、中国派(六六年)との闘争よりもいっそう深刻な内部矛盾をかかえはじめたのである。
 もとより宮本指導部は、基地闘争などみせかけの大衆闘争をおこないながら、究極的には、日帝の好意的援助のもとで、いっそう議会主義的で、いっそう排外主義的な党の再編をなしとげるであろう。しかし、日帝のアジア侵略の道と、それを内乱に転化せんとする革命勢力の道との激突は、日共有本指導部の議会主義、排外主義の路線をたえず破綻の危機に追いこまずにはおかないであろう。
 
 3) 破防法攻撃とKK連合、カクマル反革命を粉砕し、内乱・内戦――蜂起の準備を推進せよ
 
 〈日帝のアジア侵略を内乱へ〉〈沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒〉の戦略的総路線にもとづくわれわれの闘争の前進、党建設とその指導下の革命勢力(政治勢力・恒常的武装勢力)の建設の前進は、日帝の政治支配を根底から揺るがす力がどこにあるか、を疑問の余地のない明瞭さをもって全社会に提示している。日帝国家権力は、このようなわれわれの強大な前進に恐怖し、それを鎮圧するために、大暴動闘争にたいする報復的な大刑事弾圧をおこなうとともに、革共同の団体解散にむかって破防法弾圧の全面化を着々と準備している。また、カクマル反革命は、K=K連合を強化し、革命勢力にたいする反革命的襲撃の機会をねらっている。革命の前進は、密集した反革命をつくりだし、それを強化したのである。革命はただ、この密集した反革命にたいし内乱的に対峙し、それをうちやぶることによって勝利できるのである。
 もとよりわれわれは、革命の雄大な目的を達成するためにはあまりにも少数の勢力であり、われわれに対峙する当面の敵(国家権力と反革命勢力)と比較しても圧倒的に劣勢である。われわれは、敵と味方の客観的な力関係を正しく認識する能力をもたなくてはならない。しかし、そのことは、われわれに後退を要求することになるであろうか。断じてそうではない。われわれは「二つの十一月」を頂点とする永続的闘争の歴史に確固としてふまえ、階級闘争の主導権をたえずにぎりしめながら、「第三、第四の十一月」を断固としてかちとり、内乱・内戦――蜂起の準備のための闘争をがつちりとうちかためなくてはならない。
 国家権力・反革命勢力と革命勢力の内乱的対峙の関係を断固として堅持し、そのなかで、われわれの戦略的前進にとって有利な形式、有利な時点(時間と空間)で闘争を主導的に敵に強制し、党建設を基軸にプロレタリアート人民の動員と武装をおしすすめ、との前進する基礎のうえに、闘争をもって闘争の力を養い、闘争をもって戦略的総路線と革命精神の高揚をはかる、とい上指導原則を断固として貫徹するならば、われわれの勝利は確実である。
 われわれの勝利の保証は、圧倒的に劣勢なわが革命勢力が、圧倒的に優勢な国家権力・反革命勢力の密集した部隊に抵抗し、対峙し、その闘争をとおして戦略的総路線を前進させ、党と革命勢力の建設を前進させている現実の事実そのものにある。国家権力の破防法攻撃を粉砕し、K=K連合粉砕・カクマル反革命せん滅の闘争を積極的に発展させること、まさにこの一点に、内乱・内戦――蜂起の準備のための闘争の今日的にもっとも集約された内容が問われているのだ。
 
 4) 第四インターの逃亡と脱落
 
 戦後世界体制の崩壊的危機のふかまりを基礎とした革命と反革命の巨大な分岐と対峙、日帝のアジア侵略の道をめぐる国家権力・反革命勢力と革命勢力の内乱的対峙の熾烈な展開は、またしても第四インター日本支部に日和見主義的後退を要求した。日本階級闘争の歴史が高揚にむかってあらたな前進を開始したとき、まさにそれゆえにこそ、第四インター日本支部の歴史的後退、没落と分解の過程は開始されたのである。
 一九六〇年――日本における若き革命的左翼が、日帝の日米安保同盟の反動的再編に抗して戦闘的闘争を展開し、いくたの弱点を内包しつつも革命的左翼の新しい時代を求めて躍動を開始したとき、第四インター日本支部の諸君は、五九年の十一・二七国会突入闘争、六〇年の一・一六羽田闘争、四・二六国会デモ、六・二五国会突入闘争などに日共に呼応していっかんして反対し、六〇年三月の全学連臨時大会においては、日共全自連と共同戦線を組んで全学連指導権の右翼的解体を策動したのであった。
 一九七一年――日帝が七二年沖縄「返還協定」の成立をもって、沖縄県民の復帰の要求にこたえるかのようなペテン的なやり方で、侵略基地としての沖縄を再編固定化し、日帝のアジア侵略にむかって沖縄――本土のプロレタリアート人民をふたたび動員する攻撃をくわえてきたとき、第四インター日本支部の諸君は、いくたの動揺をくりかえしながらも、基本的には革命的共産主義運動との共同闘争を追求する方向を選んだ。われわれは第四インター日本支部との共同闘争を信義と節度をもって迎え、それを維持するために多くの努力をはらうとともに、この共同闘争がきわめて不安定な基礎のうえにたっていることを確認していた。
 もとよりここのような確認は、第四インターの基本路線の日和見主義的本質にたいする根底的認識に究極の根拠を有するものであるが、同時にまたそれは、六〇年闘争における第四インターの歴史的裏切りと、それにたいする自己批判的総括の欠如、統一戦線問題における六〇年以来の随伴者的な御都合主義という階級闘争上の歴史的事実にも直接の根拠を有していたのであった。
 一九七二年――四・二八、五・一五、六・一五、六・二三の連続的闘争において一歩一歩かちとられた戦略的前進、内乱・内戦――蜂起の準備のための闘争の明確化、権力の破防法弾圧の全面化とK=K連合、カクマル反革命の激化にたいする内乱的対峙の非妥協的な貫徹などを基礎として、日本階級闘争の新しいたかまりの時代が開始したとき、第四インター日本支部は、ふたたび日和見主義的後退を決意し、宮下右派ブロックの没落と分解の道を一年おくれであゆみはじめたのである。
 第四インター日本支部の諸君は、われわれが『前進』紙上でわずか二行分だけ批判をくわえたら、その風圧に耐えきれず革命勢力の命綱から手をはなした。われわれは、第四インター日本支部が共同闘争の歴史を清算し、革命勢力の命綱を手ばなしたことについて、いまここで批判しようとは思わない。さしあたって、諸君はどこでも諸君の好きなところへいけばよいのだ。われわれは共同闘争を清算したかぎり、第四インター日本支部のまえには、没落と分解の道しか残されていないことを冷厳に確認しておけばよいのである。
 以下の論文は、「わが同盟と第四インター日本支部との共同闘争がいちおう維持されている条件のもとで、第四インター日本支部の基本路線にたいするわれわれの原則的態度を明確にする目的をもって五月中旬に討論資料として執筆され、六月中旬の段階で若干の加筆がおこなわれたものである。
 革共同の第一次分裂(五八年)、第二次分裂(五九年)や、六〇年代初頭にあたって当時の第四インター(西分派あるいは関西派と呼ばれた)との闘争を経験された古い読者にとっては、第四インターの日和見主義は「すでに克服された見地」であろう。しかし、非常に多くの読者にとっては、このかんわれわれが共同闘争を維持する配慮から批判を手びかえてきたために、第四インター日本支部についてはかならずしもあきらかになっていない問題もありうるものといわねばならない。ここに本論文を発表する理由は、読者全体にあらためて第四インターの日和見主義的本質を明確につかんでもらい、あわせてわが革命的共産主義運動の歴史的到達点=戦略的課題を再確認してもらうためである。(六月三〇日)
 
 第一章 日本における革命的共産主義運動の歴史的特質と第四インター日本支部
 
 第四インターとその日本支部の傾向と問題点を検討するにあたって、われわれがまずもって前提的に確認しておかなくてはならない点は、創立以来の十数年の歴史をとおして第四インター日本支部が、日本階級闘争の基軸的な担い手として登場したことが一度もなく、階級闘争のメンシェヴイキ的随伴者としての第四インターの本質を終始一貫して自己暴露しつづけてきた、という歴史的事実である。それゆえ、第四インターとその日本支部の傾向と問題点にたいするわれわれの検討は、かれらの動揺つねなき軌跡の確認からでなく、日本階級闘争の基軸的現実とそこからの日和見主義的偏差の確認という正しき総体的関係の確認から出発摩しなくてはならない。
 
 1)綱領的立脚点の確立
 
 日本における革命的共産主義運動の第一の歴史的特質は、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命戦略が、日本階級闘争の革命的発展の綱領的立脚点として確固たる管制高地をきずきあげているところにある。
 周知のように、日本における革命的共産主義運動は、日共六全協(五五年七月)、ソ連共産党二〇回大会(五六年二月)、ハンガリア革命(同十〜十一月)を契機とした国際スターリン主義運動の危機と動揺のなかで、日本スターリン主義運動の内部からの左翼的分化として誕生した。
 六全協問題に象徴される日本スターリン主義運動の危機と腐敗、日共指導部の毛沢東主義的な民族主義路線とその破産、その裏返しとしての日共の際限なきフルシチョフ=トリアッチ的な改良主義・議会主義への右傾化、平和と民主主義の路線の行きづまりと破綻、こうした日共指導部の現状にたいする青年労働者、学生、下部党員の左翼的な不満と批判は、「一国社会主義」理論と平和共存政策を基礎とした世界革命運動のスターリン主義的変質への徹底的な理論的、実践的批判、マルクスの世界革命論、レーニンの世界革命の事業の復権と継承とを出発点として、革命的共産主義運動の創成にむかって決定的な前進を開始したのである。反帝国主義・反スターリン主義の世界革命戦略、その一環としての日本プロレタリア社会主義革命の旗は、このような革命的前進の綱領的立脚点を確固として明示するものであった。
 もとより、日本における革命的共産主義運動の創成のための闘争は平坦なものではなく、二つの傾向との非妥協的な闘争を不可避としたのであった。すなわち、第一には、日本スターリン主義運動の破産とそれからの左翼的分裂のたたかいを左翼スターリン主義の段階、戦術左翼の段階、トロツキ主義的な中間主義の段階におしとどめようとする傾向との闘争であり、第二には、革命的共産主義運動を、革命的実践と切断された閉鎖的な理論サークルに矮小化し、せいぜいそれに協会派的な組合主義を付加しようとする傾向との闘争であった。
 いうまでもなく、第一の傾向との闘争は、六〇年安保ブントならびにその系譜を自認する再建ブント諸党派との闘争、青解派、ML派、フロント派など革命的左翼への社民的・毛沢東主義的・構改派的同調者との党派闘争として勝利的に貫徹された。
 また、第二の傾向との闘争は、五九年の全国委員会結成から六二年の三全線にいたる同盟のボルシェヴィキ的強化とそれにもとづく日和見主義グループの非組織的逃亡の結果として党内闘争から敵対的な党派闘争に転化した。三回大会におけるわが同盟の綱領=戦略上の理論的前進とそれにもとづく革命闘争の強大な戦略的、組織的前進は、カクマル的日和見主義の破産と敗北を赤裸々にあばきだし、カクマルの反革命への転落、K=K連合への投降を不可避とすることによって、われわれとカクマルとの敵対的な党派闘争を革命と反革命の内乱的対峙の現在的形態のひとつにおしあげたのである。
 まさにわれわれとカクマル反革命との内乱的死闘は、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命戦略とその一環としての日本プロレタリア革命戦略をプロレタリアート人民の生きた革命の大義に鍛えあげ、戦後世界体制の崩壊的危機を全世界的な革命と内乱に転化する実践的指針に発展させようとする革命的翼と、反帝国主義・反スターリン主義の旗を小ブル平和主義に染めかえ、日帝打倒に反対し、日帝の侵略の道をはききよめようとする反革命的翼との死活の綱領闘争を基礎としているのであり、こんにちにおける革命と反革命の綱領的対立をもっとも先鋭に示すものなのである。
 結論的にいうならば、反帝国主義・反スターリン主義の綱領的立脚点が決定的な正当性と有効性む有し、それがプロレタリアート人民の解放の道として確固たる地位をきずきつつあるからこそ、帝国主義との闘争、スターリン主義との闘争とともに、カクマル反革命との闘争の激化が階級闘争の基本的性格に発展せざるをえないのである。
 
 2) 革命党建設の前進
 
 日本における革命的共産主義運動の第二の歴史的特質は、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命戦略を綱領的立脚点とする革命党建設のたたかいが、日本階級闘争の革命的発展の組織的基礎として確固たる地位をきずきあげているところにある。
 周知のように、世界革命運動の反動的疎外態としてのスターリン主義運動は、官僚主義的党機構を特徴とするため、スターリン主義への反発と分離は、往々にして解党主義、自由連合主義、個人分散主義の傾向をもちがちであり、また、その裏返しとしてスターリン主義的組織(国家、党、大衆運動)や社民的組織(党、労働組合)にたいする私観的意義付与主義、宿かり的依存主義の傾向をもちがちである。
 日本における革命的共産主義運動の創成と前進は、スターリン主義からの分離を解党主義、親スターリン主義に固定しようとする傾向、「革命的」空語にかくれて社民やスターリン主義の傘のもとに後退していく傾向、や革命党と革命勢力の建設のための独自的な闘争から逃亡し、敵対し、権力や社民の庇護のもとに投降していく傾向、こうしたいっさいの日和見主義と反革命的投降主義の傾向と断固として闘争し、反帝国主義・反スターリン主義を綱領的立脚点とする革命党建設のたたかいの独自的推進をなしとげることによって、はじめて可能となったのである。
 第四インターの長期加入戦術とその基礎をなすトロツキー主義の解党主義的傾向、組織論にかんするメンシェヴィキ的日和見主義との闘争は、「ソ連労働者国家無条件擁護」のスローガンに示される第四インターの親スターリン主義的傾向との闘争と一体のものとして、革命党建設上の重大な試練をなしていたのである。スターリン主義からの分離を反帝国主義・反スターリン義義主義として向自的に自覚し、それを革命党建設のたたかいとして主体的に構築し、綱領的立脚点と党建設の結合を基礎として日本階級闘争の革命的発展をおしすすめること、まさにこの一点にわれわれの勝利の道があったのである。
 こんにちでは、トロツキー主義=第四インターの日和見主義的な本質、待機主義的な客観主義とメンシェヴィキ的解党主義、親スターリン主義的世界認識と随伴者主義的な組織活動については、革命的共産主義運動の共同の確認点に到達しているばかりか、第四インター系の諸君ですらひそかにみとめざるをえない現実をつくりだしているのである。しかし、その基礎には、創成期以来の十数年にわたる理論的、実践的な批判のたたかい、反帝国主義・反スターリン主義を綱領的立脚点とするわが同盟とその指導下の革命勢力のいっかんした血みどろのたたかいの歴史がよこたわっているのである。
 
 3) 戦略的総路線の展開
 
 日本における革命的共産主義運動の孝第三の歴史的特質は、「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」「たたかうアジア人民と連帯し日帝のアジア侵略を内乱へ!」のスローガンと、その実現をめざす闘争が日本階級闘争の革命的、内乱的、武装的発展の戦略的路線として確固とした展望をきずきあげているところにある。
 周知のように、戦後世界体制の世界史的な破局のはじまりは、世界的な革命的激動の条件を日に日に成熟させはじめている。帝国主義世界支配の破綻を回避するために、時間かせぎと巻返しの政策として米中会談をおこなったアメリカ帝国主義は、アジア後進国・半植民地体制のとどまることない崩壊の危機に対処するために、より絶望的で、より凶暴な攻撃を開始せざるをえなくなっている。こうした情勢のなかで、七二年沖縄「返還」政策をテコとしてアジア侵略の道をつきすすみはじめた日本帝国主義は、日米安保同盟の反動的再強化を基軸としてアジア侵略の政策、そのための国内体制の構築をますます強めざるをえない。沖縄は、アジア侵略のための出撃基地としての性格をますます明白にしている。
 アメリカ帝国主義と日本帝国主義の共同のアジア侵略の道にたいし、日本プロレタリアート人民の正義の道は、ベトナム反戦闘争の革命的展開を徹底的にかちとり、沖縄奪還(本土復帰・基地撤去、永久核基地化粉砕)闘争の永続的爆発を断固としてもぎとり、日本階級闘争の大衆的、戦闘的高揚(このなんぴとによっても阻止できない現実の流れ)を内乱・内戦――蜂起の準備の総路線、全人民の武装の勝利の道にむかって計画的、系統的に発展させることである。たたかうアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化する革命闘争こそ、アジアの情勢を根底的に変化させ、日本プロレタリアート人民の革命的再生を準備する唯一の道である。
 第四インターの「反帝・労働者国家無条件擁護」の世界革命戦略と極東革命の総路線は、スターリン主義陣営の「革命化」に世界革命の命運を結びつける客観主義、スターリン主義依存の日和見主義的綱領であり、第四インター独自の闘争をあらかじめ随伴者的位置に設定した自己不信、他者依存の日和見主義的路線であり、日本プロレタリアート人民を解放の主体から救済の対象にすりかえる階級性喪失の日和見主義的思想である。レーニンの帝国主義戦争を内乱へ! のスローガンに敵対し、ヨーロッパ社会主義合衆国という無内容なスローガンをかかげたトロツキーの戦略上の日和見主義的伝統を確固として克服し、レーニン主義的戦略思想の基礎のうえに、しかり、プロレタリアート人民の階級的革命性への絶対的信頼、革命党建設とそれを基礎とした革命闘争の勝利的展望への絶対的確信のうえに、革命的共産主義運動の戦略的前進を設定することは、われわれのいっかんした決定的態度である。
 
 4) 革命と反革命の対峙
 
 日本における革命的共産主義運動の第四の歴史的特質は、帝国主義国家権力と革命勢力の内乱的対峙とならんで、革命を裏切り、帝国主義の侵略の政治を擁護する反革命勢力と、革命を堅持し、帝国主義の侵略の政治を内乱に転化しょうとする革命勢力の内乱的対峙が存在し、それらが日本階級闘争の革命的発展の到達点、跳躍台として確固たる役割をはたしているところにある。
 周知のように、六七年の羽田以来の日本階級闘争の永続的激動、六九年の十一月決戦と七一年の大暴動闘争の二つの英雄的決起を頂点とした日本階級闘争の革命的、内乱的、武装的発展は、帝国主義国家権力と革命勢力とのあいだの内乱的対峙の情勢を生みだした。敵の完全な打倒か、味方の完全な敗北かという内乱の論理が、敵の側からも味方の側からも指導原則としてはっきり意識されはじめたのである。
 日本帝国主義国家権力は、わが同盟とその指導下の革命的闘争にたいし数千名をこえる刑事弾圧、起訴投獄をくわえ、再度にわたって破防法弾圧の攻撃をおこなった。そのうえ、かれらは日常的な組織破壊の攻撃をますます強めており、公安調査庁は年内に組織破防法=団体解散をおこなうと公言するにいたっている。権力は、一方では、「超過激派」の虚構に関心を人為的に集中することによって、現実の階級的重心を隠蔽し、他方では、日和見主義的潮流の逃亡と屈服をおしすすめながら、その背後で真実の革命勢力にたいする全面的な組織弾圧の準備を着々とすすめているのである。
 第四インター日本支部の諸君が破防法の問題に極度に鈍感であり、いちどとして真面目に破防法との闘争にとりくんだことがないのは、けっして安易に看過さるべき問題ではない。昨年末の沖縄返還協定粉砕闘争の最終局面において、革共同――中核派ならびにその系統として特定された団体の集会が、屋内屋外を問わずすべて禁止されたとき、権力があえて第四インターなど中核派以外の党派の集会をすべて許可した事実は、帝国主義権力の分裂政策のありようを如実に示すものであった。問題は、第四インターの諸君がこのような権力の破防法攻撃を真正面から自分の問題としてうけとめ、権力の挑戦にたいしてわが同盟と統一して共同の反撃を強めていくのか、それとも権力の破防法攻撃に恐怖し、わが同盟との共同闘争を清算して宮下右派の道に一年おくれで転落するのかということである。
 まさに破防法弾圧との闘争は、その党派の革命党としての成否を問う決定的指標である。われわれは、権力との内乱的対峙、破防法弾圧の全面化の攻撃との恒常的闘争をとおして、党と革命勢力の強化をかちとり、プロレタリアート人民の広大な部分を同盟の周囲に結集し、内乱・内戦――蜂起の準備の戦列をかためてきた。われわれは、わが同盟とプロレタリアート人民の革命的団結の力をもって権力の破防法攻撃を断固としてうちやぶり、その勝利のたたかいをもって偉大な闘争のたかまりの時代の展望をいっそう豊かなものに育てあげるであろう。
 同時に、確認されなくてはならない点は、国家権力と革命勢力の闘争とならんで、民間の反革命勢力と革命勢力の闘争が発展する、という内乱期の一般的特徴が、カクマル反革命と革命勢力との政治的、武装的対峙として具体的に進展しはじめていることである。
 破防法体制を基軸とした内乱鎮圧型の弾圧にもかかわらず、十一月決戦と大暴動闘争を貫徹し、ますます強大な勢力に成長しつつあるわれわれにたいし、帝国主義国家権力は、いっそう凶暴な弾圧を強めるとともに、帝国主義に投降した反革命カクマル集団を武装襲撃に動員し、あたかもそれが内ゲバであるかのような欺瞞的方法をとって攻撃を加重してきたのである。しかし、「権力は首ねつこを押え、カクマルは下の急所を狙う」という反革命の攻撃は、日本階級闘争の内乱的発展の到達点を明確に照らしだすとともに、党とその指導下の革命勢力の強化、その密集力と武装力の強化をかちとる有利な条件として弁証法的に作用しはじめているのである。
 革命運動における党建設と党派闘争の独自的な意義、革命と内乱の時代における党派闘争の特殊的な意義について、日和見主義的認識しかもちえない第四インター日本支部=トロツキー主義の諸君は、カクマル反革命の襲撃を「内ゲバ」と規定し、それを官僚の政治学の実践であるとウェーバー主義者流の注釈をくわえてなにかいったつもりでいる。
 かれらには、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの分裂におけるトロツキーの日和見主義と敗北、革命的共産主義とスターリン主義の分裂におけるトロツキーの日和見主義と敗北、反ナチス闘争におけるトロツキーの日和見主義と敗北について、こんにちにいたるもぜんぜん理解できないのである。この調子では、そのうちに、レーニンの指導のもとでトロツキーが例外的に勝利をおさめた二つの党派闘争(一七年革命――内戦段階におけるメンシェヴィキとエスエルのせん滅)について、軍隊を行使して党派闘争を解決したのは「官僚の政治学」への屈服であったと自己批判でもすることであろう。
 しかし、わが愛すべき(これは皮肉ではない!)友人諸君がどのような日和見主義的逃げ口上を発見しようとも、反革命勢力との政治的、軍事的闘争に勝利することなしには、日本階級闘争の真の前進はありえないのである。ただ、一点、諸君に望むとすれば、われわれの独自の武装自衛のたたかいとその勝利的な貫徹があってはじめて諸君の内ゲバ反対という上品な態度が可能になっていたこと、それだけは十分に理解しておいてほしい、ということである。
 
 5) 第四インターの随伴者的性格
 
 日本における革命的共産主義運動の第五の歴史的特質は、反帝国主義・反スターリン主義を立脚点とする革命闘争の歴史的前進によって、左翼スターリン主義の腐敗と破産が完全に暴露されてしまったげかりか、トロツキー主義、第四インターの随伴者主義的性格が明示的になってしまっており、それが日本階級闘争の革命的前進の歴史的前提として確固たる意義を有しているところにある。
 周知のように、第四インター日本支部は、反帝・労働者国家無条件擁護の世界革命戦略と社会党への長期加入戦術をわが同盟に強制しようとして失敗し、革共同第一次分裂(太田竜派=五八年)、第二次分裂(西京司派=五九年)をとおして同盟から分離していった二つの日和見主義グループを基礎としている。
 西派は五九年末には安保ブントに対抗する一定の政治勢力を有していたが、無条件擁護のスローガンに示される親スターリン主義的戦略、長期加入戦術に示される解党主義的路線、五九年十一月の国会突入闘争、六〇年一月の羽田闘争、六〇年六・一五闘争への右翼的反対、六〇年三月の全学連大会破壊のための日共全自連との共同闘争などに示される戦術右翼的傾向と既成左翼への依存主義的傾向があまねく暴露されることによって、急速な没落と分解が不可避となり、西派、青年インター派、労闘同に三分解したのであった。
 他方、太田派はICP(国際共産党)を結成し、精力的?な情宣活動をおこなったが、現実の階級闘争にはエピソード的な影響をつくりだすことさえできなかった。その後、西派と太田派は合同し、社会党への加入戦術を採用するが、独自活動と没入傾向の矛盾をめぐつて動揺と分散をくりかえし、没落の一途をたどった。ようやく六七年にいたって全国的政治指導部の一定の再建が太田、西を事実上排除するかたちでおこなわれ、こんにちにいたるのである(青年インター派はさらに三分解しこんにちでは雲散霧消。労闘同派は原則的討論にもとづいて六三年にわが同盟に結集)。
 以上の歴史からも明白のように第四インター日本支部の歴史は、スターリン主義の評価、長期加入戦術の是非をめぐる動揺と分解の歴史である。
 現在の日本支部の指導部は、第四インターの世界革命戦略の若干の修正、加入戦術の基本的放棄の基礎のうえに独自の党建設をめざすとともに、革命的共産主義者運動と協力して大衆闘争の戦闘的高揚に可能なかぎり参加する努力をはらっているかのようである。しかし、六〇年安保闘争における右翼的・親スターリン主義的傾向、たびかさなる日共以下の裏切り的行動、六〇年代における社民的、解党主義的傾向にたいする総括はまったくあいまいなまま放置されており、その動揺つねなき御都合主義はいささかも変っていない。それゆえわれわれは、第四インター日本支部のこんにちの一応の左翼化と共同闘争の展開があくまで経験主義的直感性を基礎としたものであり、いくたの内部傾向の不安定なバランスのうえに維持されていることについて、正しく確認しておかなくてはならない。
 われわれは、信義と節度をかたくまもって第四インター日本支部との共同闘争を推進するとともに、同時に、第四インター=トロツキー主義の日和見主義的性格、その革命戦略のスターリン主義依存的な性格、メンシェヴィキ的組織路線、戦術右翼的傾向などにたいし革命的批判を正しく提起し、かれらの随伴者主義的態度にたいしては断固とした革命的態度をもって対処しなくてはならない。第四インターの親スターリン主義とメンシェヴィキ的解党主義の傾向、客観主義の傾向にたいする原則的態度を堅持することによって、革命的共産主義者と第四インターの共同闘争も安定した性格をもつようになるのであり、正しい方向にみちびくことができるのである。また、そうしてこそ第四インターを中間主義的随伴者の位置から解放し、革命的共産主義の立場にたかめる道も示されることになるのである。
 
 第二章 第四インターの歴史的破産――その戦略論的、組織論的、戦術論的な根拠について
 
 前章においてわれわれは、日本における革命的共産主義運動の歴史的特質の検討をとおして第四インター日本支部の随伴者的性格を解明したので、本章では、第四インターおよび第四インター日本文部の政治的、組織的路線そのものを険討することによって、第四インター日本支部の随伴者的性格がけっして偶然的なものではなく、第四インターの基本路線の必然的帰結であることをあきらかにするとしよう。
 
 1) 破産と無為の四〇年
 
 第四インターの歴史的破産を特徴づける第一の要因は、三〇年代とその後の国際階級闘争の歴史的実践において、第四インターが世界革命党としての役割をはたす決意も能力ももちあわせていないことがあまりにも明白である、という事実そのものにある。
 そもそも第四インターは、レーニンによって創設された第三インターのスターリン主義的変質に抗して、レーニンの世界革命路線を継承し発展させようとした革命的共産主義の国際的な闘争を歴史的基礎として、三〇年代の後半にトロツキーによって組織された。それは、ソ連と第三インターのスターリン主義的変質を弾劾して、世界革命の基本原則をスターリンの一国社会主義理論と平和共存政策に対置し、国際階級闘争の社会ファシズム論的、人民戦線戦術的、二段階戦略的歪曲を批判して、第四インターの建設をスターリン主義者党に対置したそのかぎりにおいて、一定の前進的役割をはたした。
 しかし、三〇年代以来の第四インターの半世紀にわたる実践は、(1)かれらがスターリン主義にたいする批判的対立物としての役割にとどまり、独自の革命党として階級闘争の勝利的前進をきりひらき、それをとおして第四インターの正当性と発展性を証明するというレーニン的方法をとることができなかったこと、そればかりか、(2)こんにちではスターリン主義者党の指導する闘争に戦略的に依拠し、それに「革命的意義」を付与する、という世界革命党としての存立根拠をみずから放棄するところまで無能力化し、自己不信化する現状を生みだすにいたっていること、の二点において完全に歴史的破産を示している。
 
 2) 日和見主義の体系
 
 第四インターの歴史的破産を特徴づける第二の要因は、第四インターの立脚点をなすトロツキー主義の戦略的=組織的路線上の日和見主義が、半世紀にわたる歴史的実践によって明白になっていることである。
 
 A 独裁論の客観主義化
 
 第一の問題点は、トロツキー主義の独裁論の客観主義的性格である。
 一般的にはトロツキーの独裁論は、永続革命論の名によって知られており、その決定的な弱点が、プロレタリア革命における農民問題の戦略的重要性を十分に理解しえなかったところにあることは、周知のとおりである。しかし、同時にわれわれは、トロツキーの永続革命論の弱点が、トロツキーの独裁論の客観主義的性格に根拠を有していることについて正しく確認しておかなくてはならない。
 すなわち、トロツキーは、ロシア・ブルジョアジーの変革能力の不在性と農民権力確立の不可避性の確認にもとづいて、民主主義革命のプロレタリア的発展の必然性(ブルジョア革命の力学がプロレタリア独裁にみちびく)という結論を直接にひきだしたのであったが、われわれは、プロレタリア革命党のもとに農民を獲得し、プロレタリア権力の道を強化するのか、それとも、反動的、ブルジョア的、小ブル的諸政党の支配のもとに農民を放置し、プロレタリア権力の道を崩壊させるのか、という実践的観点から農民問題の戦略的接近をはかったレーニンの主体的態度(労農同盟の立場)を確固として支持しなくてはならない。このようなレーニンとトロツキーの独裁論の相違は、プロ独裁について後者が客観的過程として考察したのにたいし、前者が党の指導、階級の独裁という実践的過程において考察している点にある。
 なお、日本のプレハーノフ・黒田は、レーニンの独裁論の決定的優位性を形式論理上の批判をもって清算するとともに、トロツキーの永続革命論を権力機能的側面と世界革命の歴史過程的側面に分類し、前者を捨象した後者をもって現代革命の独裁論の本質的構造を示すものと断定している(『現代における平和と革命』)。しかしこのような転倒した観念的方法によっては 「現代革命の本質はプロ独裁である」というそれじたいとしては正しい結論をくりかえすことはできても、いかにプロレタリア独裁を達成するのかという戦略上の課題は放棄されるということになる。
 黒田的転倒を粉砕し、レーニン独裁論の実践的構造に立脚するとき、トロツキー永続革命論の弱点は真に克服されるのである。黒田のトロツキー批判なるものは、権力機能的側面なるものの形式論理的な捨象という方法をとおして、独裁論の核心的問題との対決を徹頭徹尾、回避しようとした点に度しがたい誤りがあるのである。
 
 B 段階論なき世界認識
 
 第二の問題点は、トロツキー主義の情勢論における帝国主義段階論の欠如である。トロツキーのいわゆる永続革命論は、もともと革命の商人パルヴスの理論をロシア革命に適用したものであり、資本主義の世界史的発展の特殊段階的規定性の認識をまったく欠落しているところに本質的な弱点を有しているのである。
 もとよりトロツキーは、先進資本主義国と後進資本主義国の関係、資本主義国と後進国・植民地の関係をたんなる量的関係に単純化する傾向、後進国・植民地革命をプロレタリア革命から機械的に切断する傾向を排除しようと努力し、いわゆる複合的発展の理論のもとに世界を統一的に把握する見地を提出するのである。しかし、トロツキーのいわゆる複合的発展の理論は、レーニンによって基本的に確立された帝国主義段階論とはまったく論理的構造を異とするものであり、先進資本主義義国と後進資本主義国の関係、資本主義国と後進国・植民地の関係を資本蓄積の段階論的な認識を基礎として統一的に把握するのではなく、世界プロレタリア革命のパトスにおいて恣意的に統一せんとするものにすぎなかったのである。
 それゆえ、トロツキー主義の永続革命論は、帝国主義段階の世界情勢の特殊性の認識と、それにもとづく世界革命戦略の前進という決定的任務においていくたの混乱を生みださずにはおかないのである。
 すなわち、第一には、帝国主義段階における世界戦争の革命戦略上の位置にかんする致命的な混乱である。その負の結晶こそ、トロツキーの「ヨーロッパ合衆国」のスローガンであり、「勝利でもなく敗北でもなく」という祖国敗北主義否定の立場であった。まさにこの点においては、トロツキーは最悪の日和見主義の一形態であった。往々にして具体的な権力問題(自国政府の打倒)を捨象して一般的な世界革命論の確認に傾斜するところにトロツキー主義者の特徴が見られるが、その根拠をなすものは、トロツキーの段階論なき平板な世界認識にあるのである。
 第二には、帝国主義本国の革命と後進国.植民地の革命の区別性とその統一性の構造的認識にかんする完全な混乱である。トロツキー主義においては、主観的にはともかく、その戦略論上の本質においては帝国主義本国と後進国・植民地の関係は、「複合的発展」の名のもとに平板化されてしまっているのである。そのため、ロシア革命が後進的な帝国主義国でおこったプロレタリア革命であるという本質があいまいとなり、その結果、ロシア革命の経験(しかも永続革命論的に歪曲されたそれ)を機械的に後進国・半植民地の革命である中国革命に適用する重大な誤りを必然化するのである。
 トロツキーは、スターリンによる世界革命論の一国社会主義論=平和共存政策への歪曲、世界革命の根拠地ソ連の変質に抗し、世界革命の旗をまもりつづけたその一点において解放闘争史上に巨大な世界史的功績を刻みつけている。しかし、同時にわれわれは、トロツキーの世界革命論がパルヴス流のものであり、段階論なき世界情勢論に立脚した素朴かつ平板な性格を有するものである点については容赦なく確認しておくことが必要であろう。
 トロツキー永続革命論にかんする黒田の解釈なるものは、トロツキーの弱点をただただ拡大するものであり、ほかならぬ黒田じしんの世界認識の平板性と無内容性を暴露する標柱としての意義をもつだけのものにすぎないのである。
 
 C 社民的組織論
 
 第三の問題点は、トロッキー主義の組織論のメンシェヴィキ的性格である。
 もともとトロツキーは、ボルシェヴィキとメンシュヴィキの分裂のもつ革命的意義を理解できず、分派反対の名分のもとにメンシェヴィキの一グループとして活動していたのであったが、一七年の革命の進行過程のなかでようやくボルシェヴィキと合流したのであった。われわれは、トロツキーのメンシェヴィキ時代の活動の誤りを明確に批判するとともに、権力奪取・内戦期におけるトロッキーの活動の積極的役割についてはレーニンとともにたかく評価する。また、スターリン主義にたいする左翼反対派としてのトロツキーの活動について一定の前進的役割を評価する。
 しかし、同時にわれわれは、ロシア革命におけるトロツキーの活躍が、レーニンを先頭とするボルシェヴィキ党建設を組織的与件としてはじめて可能であったこと、換言するならば、トロツキーのメンシュヴィキ的組織論が事実の問題としてかたづけられることによって、トロツキーの歴史的役割がはじめて与えられたことをいささかも過小評価すべきではないのである。ロシア革命と第三インターのスターリン主義的変質にたいする国際的左翼反対派の活動と、そこにおけるトロツキーのいっかんした組織的日和見主義の問題は、ボルシェヴィキへの参加にもかかわらず、トロツキーの組織路線上の日和見主義が本質的には克服されていなかったことを意味している。
 結論的にいうならば、トロツキーとその追唱着たちには、階級闘争の白熱した歴史的転換が党と党との全面的な対決として展開されること、それゆえ、自己の党に徹底して依拠し、その発展にいっさいの局面打開の能力を確信できるものだけが歴史の勝利者たりうることが、基本的に理解されていないのである。トロツキーの組織論上の日和見主義は、本質的にはトロツキーの独裁論の客観主義的性格の結果であって、その逆ではない。
 
 D 戦術右翼主義
 
 第四の問題点は、トロツキー主義の戦術論の他者依存主義的性格、戦術上の決定的な右翼日和見主義である。
 トロツキーが第三インターと最終的に決別し、第四インター建設を訴えたのは、ドイツにおいて反ナチス闘争が完全に敗北し、ヨーロッパ労働者階級の精華であるドイツ・プロレタリアートの政治的陣地が血の海に沈められてからであった。いわばトロツキーは、三〇年代階級闘争の決定的分岐点をなしたドイツの革命と反革命にたいし、テールマンのドイツ共産党の指導の誤りと、その敗北の展望をはっきりと確信しながらも、なおかつドイツ・プロレタリアートをドイツ共産党の指導にゆだね、大衆によって党の指導が修正されることを期待したのである(大衆に指導される党とは水によって熱せられる火のようなものだ!)。
 しかしドイツをはじめとする三〇年代の国際階級闘争におけるトロツキーの日和見主義は、組織論上の問題につきるものではなかった。すなわち、いわゆるヨーロッパ問題にかんしてトロツキーは、社会ファシズム論にたいしては社共の統一戦線を対置し、人民戦線戦術にたいしては革命的統一戦線戦術なるものを対置したのであるが、しかし、その決定的な日和見主義は、革命と反革命の内乱的な対峙とその永続的激突の問題、そこにおける革命勢力の武装自衛の強化の問題、蜂起にむかっての党独自の準備の問題、総じていうならば、権力と反革命勢力の予防反革命にたいし内乱的反撃を敢行しうる独自の革命勢力の建設とその闘争の問題を前衛党の責任のもとに物質化することを回避し、スターリン主義者党や社民党の指導下のプロレタリアート人民の自動的な革命化を期待する戦術上の大衆依存主義、右翼的待機主義司にあった。また、中国、ベトナム問題にかんしては、農民の武装闘争や抗日闘争のもつ戦略的意義を過小評価し、スターリン主義党との党派闘争において壊滅的な敗北を喫したのであった。〔注〕
 結論的にいうならば、トロツキー主義と第四インターは、スターリン主義とともに三〇年代の敗北の責任を共有しているのであり、その後、四〇年間にわたって国際階級闘争の決戦的局面には一度として革命的勇姿を登場させたことがないのである。
 第四インターが戦術上で左翼的言辞をろうするのは、つねに他者の闘争を支持したり、それに「意義付与」をおこなうときである。
 フランス「五月革命」においてドゴールの反革命的恫喝に武装蜂起をもって応えることができず、たたかわざる敗北というフランス・プロレタリアートの屈辱の歴史を経験したのであるが、この政治的責任がまずもって第四インター・フランス支部の問題として積極的にうけとめられないとすれば、そんな「世界革命党」はいったいなんのために存在しているのだろうか。それこそ「官僚の政治学」いがいのなにものでもないではないか。
〔注〕 こんにち、第四インターの諸君は、破廉恥にも「ベトナム革命勝利」のスローガンをかかげ、あたかもそれで革命的立場を獲得したかのような自己暗示にかかっている。しかし、もしも第四インターが一個の世界革命党であるとするならば、ベトナムにおける第四インターの活動の全面的な総括に立脚して、ベトナム革命の方針を提起することは当然の手続きというものであろう。三〇年代――四〇年代においてスターリン主義者より優勢な党勢力を維持していた第四インターのベトナム支部が抗日、抗仏、抗米の三つの(民族解放・革命戦争)の過程をとおしてつぎつぎと没落し、無残な解体状況をみるにいたったのはなぜなのか。この戦略論上、組織論上の問題になにひとつ解答を与えずにベトナム革命勝利を絶叫するほど滑稽なことがあろうか。
 
 3) スターリン主義への屈服
 
 第四インターの歴史的破産を特徴づける第三の要因は、第四インターの無残な敗北の結果、トロツキー主義の親スターリン主義的性格が全面的に露呈しはじめていることである。
 ソ連無条件擁護のスローガン、「ソ連=堕落した労働者国家」説に見られるように、トロッキーと第四インターは、その創設当時より親(プロ)スターリン主義的な傾向を濃厚にもっていたのであった。スターリン主義と革命的共産主義の分裂にかんするトロツキーの日和見主義と中間主義的態度は、二〇年代のロシア左翼反対派の党的結集にたいし深刻な困難をもたらし、第四インターの敗北的出発を規定したのであるが、このような党の日和見主義的体質は、フィンランド問題や第二次世界大戦の評価、フルシチョフの「非スターリン化」の評価などをめぐつてその後も第四インターの分裂と低迷を運命づけたのであった。
 トロツキーと第四インターは、スターリン主義の成立の歴史的条件(世界革命の過渡期の開始とその一国社会主義的孤立)とスターリン主義の本質(一国社会主義理論と平和共存政策にもとづく国際共産主義運動の反動的疎外形態)を混同し、後者のイデオロギー的な独自性、その物質的根拠の国家的独自性を過小評価するため、後者の問題性を前者から派生する相対的な誤謬のようなものにすりかえていったのである。
 まさに、それは、スターリン主義の問題のかかえる深刻性を直視し、どんな困難をのりこえてもそれを突破しようとする革命的党派性の欠如、自分の党の建設とその戦略的前進のなかに帝国主義を打倒し、スターリン主義を打倒する勝利の道を確信しえない日和見主義に存在理由があったのである。
 したがって、第二次大戦後、帝国主義の世界史的危機のふかまりとそれをのりきるための体制的攻撃の激化、世界革命の過渡期としての現代世界の根底的性格の全面化と、その平和共存的変容へのスターリン主義的圧力の強化、という戦後的な困難のなかで、世界革命党としての独自の戦略的展望も組織的基礎も完全に喪失した第四インターは、党建設の問題をいわゆる書記局活動の自立的展開に矮小化し、スターリン主義者党や社民党の指導下のプロレタリア人民の闘争にたいし「外在的に」革命的意義を付与する活動をもって世界革命党の任務とするような滑稽な状態を積極的に位置づける傾向をいっそう強くするのである。
 第四インターの世界党建設の無残な敗北と、それを基礎とした第四インターの書記局主義に完全に照応するものこそ、労働者国家無条件擁護、植民地革命無条件擁護、労働組合無条件擁護、中ソは団結せよ! 社共支持をさらにおしすすめよ! などのスローガンに示される親スターリン主義、他者依存・自己不在の戦略であり、社共への長期的加入戦術に示される親スターリン主義、待機主義と他者埋没・自己喪失の組織路線である。スターリン主義党や社民党を否定して独自の党建設を提起したはずの第四インターが、なんとスターリン主義党や社民党の指導のもとで革命勝利を達成しようというのである。
 もちろん、こんにちでは第四インターは、日本支部をふくめて多くの支部が社民党への長期的加入戦術を清算し、六〇年代の後半になって独自の党的結集を強化する傾向を示しはじめている。これは「一歩前進」である。
 しかし、われわれは、第四インターの解党主義的な長期的加入戦術が、トロツキー主義=第四インターの革命路線の客観主義的、親スターリン主義的性格、その組織路線のメンシェヴィキ的、他者依存・自己不信的な性格、その戦術路線の待機主義的、大衆追従主義的傾向の必然的産物であったことを率直に指摘し、長期的加入戦術の清算にとどまることなく、その戦略的、組織的総括の深化にむかうよう忠告しておかなくてはならない。
 第四インターの諸君は、スターリン主義運動の戦略的随伴者の道をあゆみながら、歴史的に破産した「世界革命党」をもって百回も「正しい敗北」をくりかえすのか、それとも、反帝国主義・反スターリン主義世界革命の勝利の基本戦略を立脚点として新しい世界革命の党を建設していくのか、この歴史的分岐に正しく答えるべき任務をひとしく有しているのである。
 
 第三章 第四インター日本支部の主張点の主要な誤りについて
 以上の検討によって日本における(1)革命的共産主義運動の歴史的特質と、そこにおける第四インター日本支部の随伴者的性格、(2)トロツキー主義=第四インターの歴史的破産と、その根拠をなす戦略論、組織論の日和見主義的本質の二点が基本的に明白となったので、つぎに、第四インター日本支部の最近の主張点について検討し、その主要な誤りを批判的に解明するとしよう。
 
 l) 空論と日和見主義のアジア戦略
 
 第四インター日本支部の主張点の第一の問題点は、極東革命勝利=アジア社会主義合衆国の樹立のスローガンである。
 もともとアジア社会主義合衆国のスローガンが日本階級闘争史上に公然と提起されたのは、五八年秋の警職法闘争の最中に当時トロツキスト同志会を組織していた太田竜が「北京に首都をおくアジア社会主義合衆国を樹立せよ」という訴えを機関紙その他で主張したときであった。もとよりこのような漫画的な意見にたいしたたかうアジア人民が冷笑と黙殺をもって応えたことは当然であるが、当時まだ主要な部分が日共党内で革命的分派闘争を推進していた若き革命的左翼の内部にあっては、それは第四インター=トロツキー教条主義の日和見主義をもっとも雄弁にものがたるものとしてエピソード的な役割をもたらしたのであった。
 事実、当時まだわが同盟にあった西派の諸君は、太田派のあまりにも露骨な第四ぶりに消耗し、あれこれとつじつまのあわぬ理由をもうけて反対したりし、責任逃れにやっきとなったのである。
 それゆえ、こんにち、第四インター日本支部の諸君が激動するアジア情勢にたいする空論的綱領として極東解放革命勝利=アジア社会主義合衆国のスローガンをかかげだしたことは、第四インター日本支部の戦略的後退を鋭く照らしだすものとして重視されなくてはならないであろう。このスローガンは、第四インター=トロツキー主義の空論性、他者依存・自己不信の没主体性、日和見主義的本質をみごとに暴露しているのである。
 第一の誤りは、現代世界のトータルな観点、つまり帝国主義戦後世界体制を発展基軸とする戦後世界体制の崩壊的危機のふかまりと、その世界革命への転化という観点から、アジアの情勢をとらえるマルクス主義的方法を徹底して回避しているところにある。
 もとよりわれわれは、アジア人民の闘争のきりひらいた主体的局面、戦後世界体制の革命的転複を実現していく過程におけるアジア人民の闘争、とりわけ(民族解放・革命戦争)の戦略的重要性について積極的にうけとめる立場にたっている。しかし、われわれは、第四インターのように、帝国主義本国におけるプロレタリア革命の戦略的任務、後進国・半植民地人民の解放闘争の完全勝利の条件としての帝国主義世界支配の根底的打倒の立場を放棄し、後進国・半植民地人民の闘争の発展に世界革命のいっさいの課題を強制しようとする日和見主義の立場にたつことはできない。第四インターのスローガンは、アジア情勢にたいする客観主義的追認と空論主義的意義付与の理論にすぎない。
 米帝と日帝の絶望的なベトナム共同侵略に示される帝国主義戦後世界体制の崩壊的危機のふかまりと、そこから必然化する時間かせぎの政策をからませた凶暴な破壊的攻撃にたいし、これを反帝国主義・反スターリン主義の世界革命に転化していく戦略的展望を断固としてうちかためることが、いまや焦眉の課題でなくてはならない。
 第二の誤りは、スターリン主義の問題との対決を徹底して回避しようとするところにある。
 米中会談、米ソ会談に見られるように、ベトナム人民の民族解放闘争にたいする国際スターリン主義陣営の反動的圧力は、帝国主義の凶暴な攻撃とあいまって日に日に強まっている。第四インターの期待とは正反対に、中ソの「団結」した「援助」は、ベトナム人民への反動的制動を強める役割しかはたしえないであろう。ベトナム人民の闘争の世界史的前進のためには、アメリカ帝国主義にたいする(民族解放・革命戦争)を確固として発展させつつ、同時に、スターリン主義の打倒という極度に困難な課題との対決を不可避とさせているのである。われわれ革命的共産主義者は、アジア人民の歴史的な解放闘争にふかく学び、たたかいをとおして真の連帯の道を模索しながらも、アジア人民の解放闘争の主要な部分がスターリン主義の指導下にあるという深刻な事態をけっして見失ってはならず、どんなに困難であろうともその克服のための理論的、現実的条件をきずくために前進しなくてはならないのである。
 第四インターの諸君は、中国やベトナムにおける自己の破産と壊滅の歴史をなにひとつ真剣に総括しようとせず、あいもかわらず「アジア・ビューロー」(それは実践の司令部ではなく気象観測と空論的声明のサロンにすぎない!)の建設を無意味に確認し、その破産の裏返しとしてスターリン主義指導下の闘争に「革命的意義」を付与することに熱中しているのである。
 第三の誤りは、アジア人民の現在的にかかえている戦略的任務である(民族解放・革命戦争)について完全に無理解であるところにある。
 周知のように(民族解放・革命戦争)という後進国・半植民地人民の革命闘争の現実形態は、ロシア革命を突破口とする世界史的過渡期(帝国主義と社会主義の分裂とその内乱的死闘の時代)の到来と、国際共産主義運動のスターリン主義的変質にもとづく世界史的過渡期の平和共存形態的な変容という困難な世界情勢を世界史的な前提として毛沢東――ホー・チ・ミンという指導の系統性において登場したのである。われわれ革命的共産主義者は、中国・ベトナムにおける(民族解放・革命戦争)の発展を現実的基礎として、(民族解放・革命戦争)の普遍的本質形態と歪曲的現実形態を分析し、後進国・半植民地人民の革命闘争の正しい発展方向、帝国主義本国のプロレタリアート人民の革命闘争との正しい連帯の発展方向を戦略的に確定していかなくてはならない。
 ところが、第四インターの諸君にあっては、(民族解放・革命戦争)という後進国・半植民人民の革命形態のもつ戦略的意義がまったく理解できず、それゆえ(民族解放・革命戦争)と帝国主義本国のプロレタリア革命との区別と関連性、〈民族解放・革命戦争〉の普遍的本質形態とスターリン主義的現実形態の区別性と関連性を統一的に把握する観点をもつことができず、その結果、スターリン主義やカクマル反革命主義者の対極的誤謬とまったく同様に、(民族解放・革命戦争)とスターリン主義的な後進国・半植民地革命論とを同一視する誤謬が不可避となるのである。
 第四の誤りは、日帝打倒という日本プロレタリアート人民の直接の戦略的第一任務との対決を徹底して回避しようとするところにある。
 もともと第四インターの傾向的問題性は、国家権力の問題を十分に掘りさげずに、革命の国際主義的性格なるものにコスモポリタン的に傾斜していくところにあるが、日本革命の戦略問題においてもどうやら腐った根性はなおっていないようにみえる。
 革命の一国的貫徹と国際的本質の矛盾は、前者の課題との徹底的なとりくみなしには解決の前提をもちえないのであり、第四インターのようにスローガンの手品で解決しうるものではない。したがって、われわれは、日帝のアジア侵略を内乱に転化していくというプロレタリア的責任を真に担いきることをとおして、アジア人民の解放闘争に応えていく道にたたなくてはならないのである。アジアを反帝国主義・反スターリン主義の世界革命の根拠地に転化する世界史的任務は、かくして決定的局面において重要な主体的条件を成熟せしめるのである。
 付言するならば、アジア合衆国というスローガンが、日本においては容易にアジア侵略のスローガンに転化しうる危険性をもっていることについてまったく無自覚なところにある。このような誤りは、もともとアジア人民の現在的にかかえている戦略的任務(民族解放・革命戦争)にかんする無理解という点でおよそアジア革命を云々する資格を疑わしめるものがあるが、同時にそれは、日帝のアジア再侵略の開始というアジア情勢の決定的現実にたいする感覚が完全に失われていることを示しているという一点においても、第四インターの危機的本質を先鋭に照らしだしているといえよう。
 
 2) 日帝打倒を回避した沖縄闘争方針
 
 第四インター日本支部の主張点の第二の問題点は、沖縄労農自治政府のスローガンである。
 この第一の誤りは、日帝の沖縄政策、「七二年沖縄返還」政策との革命的対決を徹底して回避しているところにある。
日帝の沖縄政策の反人民的性格、沖縄県民の復帰の要求をとりこむようなかたちで、侵略基地としての沖縄の現状をいっそう反人民的な方向で再編・固定化し、沖縄=本土のプロレタリアート人民をアジア侵略に総動員しようとする日帝の七二年沖縄返還政策にたいし、その根底的な否定をめざして沖縄奪還(本土復帰・基地撤去、永久核基地化阻止)闘争の永続的爆発をかちとる革命的観点にたつのではなく、第四インターの諸君は、労農自治政府なる改良主義的方策に沖縄闘争の戦略的環を見いだす日和見主義におちいっているのである。
 第二の誤りは、沖縄と沖縄闘争を、日帝打倒・日本革命の永続的な火薬庫にする革命的任務を徹底して回避しているところにある。かれらは、沖縄闘争を日帝打倒の戦略的観点からとらえかえし、日帝の沖縄政策、七二年返還政策にたいする沖縄=本土の闘争を日本革命の永続的な火薬庫に戦略配置する革命的任務を回避した地点で、なにか沖縄闘争なるものが成立するかのように幻想しているのである。
 第三の誤りは、労農自治政府のスローガンが、屋良県政にたいする県民の幻想に「革命的意義」を付与しようとする改良主義の政策いがいのなにものでもないというところにある。沖縄闘争の核心問題は、日帝の沖縄政策に対決し、その根底的否定=日帝打倒にむかって沖縄奪還の永続化むかちとることにあるが、第四インターの諸君は、自治政府という改良主義的目標にそれをすりかえる役割をはたしているのである。
 第四の誤りは、解放論、反復帰論、併合粉砕・自立支持論、独立論など種々の色合いの日和見主義的諸傾向との対決(本土復帰闘争の革命的貫徹)を、徹底して回避しようとするところにある。反復帰論をはじめとするいっさいの日和見主義的傾向は、沖縄本土復帰にかかわる問題を真剣に検討しようとせず、沖縄問題の内包する問題性を直接的次元に固定し、それに文学的幻想を付与する点に共通の誤りがあるが、第四インターの主張は、片足をこういう誤りと結びつけて成立しているのである。
 
 3) 蜂起の観点を欠如した戦術
 
 第四インター日本支部の主張点の第三の問題点は、内乱の戦略的総路線、蜂起の準備の観点を完全に欠如していることの必然的帰結として、戦術的諸政策がたえず日和見主義の傾向をもって提起されることである。
 第一の誤りは、労働運動にかんする方針が、民同的組合主義の左翼としての限界にとどまっているところにある。かれらの七二年春闘方針は、経済闘争の激化→国家の強権的介入→経済主義の限界の露呈→強権的介入に対抗する思想性の確立、という構造をなしているが、その特徴とするところは組合主義、経済主義の延長線上に「革命的闘争」を想定するものであり、いわば組合主義、経済主義に第四インターの「政治」をつぎ木しようとするものである。
 しかし、組合主義、経済主義のいっさいの指導原則を粉砕し、内乱の戦略的総路線にたった政治経済ストの指導原則と、その指導系統を確立することなしには、賃金闘争・反合闘争の戦闘的貫徹が不可能であることをまざまざと示したものこそ、全軍労ストにおけるカクマルの裏切りであり、動労反合闘争における賃上げバーターの闘争中断であった。もとより民同諸潮流と「戦闘性」を競いあうといったカクマル型労働組合主義に満足するならともかく、内乱と蜂起を準備する革命的観点にたつならば、われわれは組合主義、経済主義の原則と規範なるものから決定的に分離した革命的原則をもって労働運動の革命的再編をなしとげなくてはならないのである。
 内外する緊迫した情勢のなかで日本労働運動があらたな激発の傾向を示しはじめているこんにち、六九年十一月決戦と七一年大暴動闘争をかちとったプロレタリア的な革命性と組織性、英雄主義と戦闘的気質を確固としてプロレタリアート・大衆にもちこみ、各産別労働者の深部に党と革命勢力を強大に建設する条件は、いまや成熟しはじめている。第二協会派、民同の反革命的補完物として腐敗をふかめているカクマルとの内乱的対峙を徹底的に強化し、プロレタリア運動の革命的高揚を準備するたたかいは、四・二八――五・一五に結集した革命的労働者の強力な戦列のなかに基礎を有している。この確信を堅持しうるかどうか、ただこの一点に革命と日和見主義の分岐が存在する。
 第二の誤りは、武装闘争の位置づけがあくまでも自衛武装の水準におしとどめられ、蜂起の準備の問題が完全に欠如しているところにある。
 内乱と武装にかんする今日的情勢の特徴は、大衆闘争の革命的、内乱的、武装的発展とゲリラ的・パルチザン的武装闘争の発展とが、党の計画的・系統的指導を基礎として蜂起の準備過程としての性格をはっきりもちはじめてきたことである。大衆闘争の総力戦的な高揚と党・政治勢力・武装勢力の建設とは、当面する戦略的大前進運動の両輪である。K=K連合とカクマル反革命にたいする武装自衛の闘争は、党と革命勢力の建設、党と革命勢力の武装の精練過程である。ところが、第四インターの諸君は、大衆闘争の貫徹にかかわる武装の問題、国家権力と反革命勢力の襲撃にたいする武装の問題は、あくまでも受動的・消極的な闘争形態として許容されるだけであって、蜂起を準備する観点から積極的に位置づける戦略的方法論がまったく欠如しているのである。
 第三の誤りは、反軍闘争の指導方針が民主主義的要求の次元に限定されており、自衛隊の政治的包囲・革命的解体・兵士の獲得の任務が蜂起の準備の問題、その指導的前衛としての党の建設の問題と機械的に切断された地点で問題にされているところにある。
 もとよりわれわれは、政治活動の自由、兵士委員会の団結権、待遇の改善など、自衛隊兵士の民主主義的要求を断固として支持し、その実現のためにたたかう。しかし、同時にわれわれは、自衛隊の解体と兵士獲得の闘争を「侵略を内乱へ」の戦略的総路線の物質化の過程として、それゆえまた、党の指導のもとでの蜂起の計画的・系統的な準備過程としてたたかいぬかなければならないのである。
 したがって、第四インターの諸君のように、兵士の民主主義的要求を固定的にあつかって、内乱の戦略的総路線、全人民の総武装と蜂起の準備の問題、兵士の内部での共産主義的宣伝、党兵士細胞の建設、恒常的な革命武装勢力の建設(人民革命軍・武装遊撃隊の建設)の問題などとの積極的結合を回避することは、メンシュヴィキ的な日和見主義というほかはないのである。反軍闘争の問題が、すぐれて権力の問題であり、蜂起の問題なのであることを忘れるものは、マルクス主義の基本原則にたいする背教である。
 
 4) KK連合粉砕闘争からの逃亡
 
 第四インター日本支部の主張点の第四の問題点は、K=K連合、カクマル反革命にたいする党と革命勢力の内乱的対峙の現実を「内ゲバ」と規定し、その革命的展望から日和見主義的な逃亡をはかっていることである。
 第一の誤りは、K=K連合の現実、カクマル反革命の現実をはっきり直視しようとしない認識上の日和見主義である。われわれがこの問題を検討する場合にまず最初に立脚しなければならないマルクス主義的原則は、カクマルの革共同――中核派襲撃によって誰が利益を得ているのか、という点である。この明確な階級的問題設定に第四インターの諸君ははっきり回答しなくてはならない。
 革共同――中核派にたいするカクマルの殺人的武装襲撃によって利益をうるのは帝国主義者なのか、プロレタリアート人民なのか、侵略主義者なのか、革命的祖国敗北主義者なのか。沖縄返還協定を推進した勢力なのか、協定粉砕の大闘争を血を流してたたかいぬいたものなのか。答えは明白ではないか。
 つぎに立脚しなくてはならない原則は、敵権力がどのような態度をとっているのか、という点である。敵権力がカクマルを擁護し、そそのかし、いくたの便宜を与えていること、敵権力がわれわれを敵視し、暴虐な組織破壊的な弾圧をくわえ、ありとあらゆる困難を強制していることは、こんにちでは政治的常識をもっているものなら誰でも知っていることではなかろうか。敵権力は破防法でわれわれの首ねっこを押さえておいて、そのかんにカクマルにわれわれの急所を攻撃させようとしたのである。
 さらに立脚しなくてはならない原則は、カクマルはどのような目的でわれわれを襲ってきたのか、という点である。われわれが反革命だからか。われわれが協定粉砕闘争を日和ったからか。そうではない。われわれが羽田以来の五年間の闘争で敵権力を震撼させる激闘をたたかいぬいてきたからである。権力との革命闘争をいどめば敗北し、壊滅するはずなのに、われわれが闘争と弾圧のなかで強大な党・革命勢力の建設をかちとってきたからである。
 最後に立脚しなくてはならない原則は、敵権力のわれわれにたいする敵意と弾圧、カクマルにたいする好意と援助にたいし、カクマルがどういう態度をとっているかという点である。
 敵権力のわれわれにたいする破防法的弾圧にたいし、カクマルが「ともに革命をめざす勢力」として一度でも反対したことがあるか。それどころか、黒田は反革命通信『解放』(一月一五日号)の木曾論文で「権力は首ねっこを押えているだけだが、われわれは下の急所を握っている」とK=K連合の現実を堂々と誇示しているではないか。第四インターの諸君、これでもカクマルは「日和見主義でセクト的な政治傾向」というのか。諸君の好きなトロツキーのことばを拝借すると、こういうのを「ダチョウの政策」というのである。
 第二の誤りは、現代の革命のありかたをはっきりとつかむことのできない革命戦略上の日和見主義である。
 もとより現代の反革命の基軸をなすものが、帝国主義とその権力機構(行政的・警察的・軍事的官僚機構)であり、独占資本の巨大な支配力であることは明白である。しかし、帝国主義の危機の時代、革命と反革命の恒常的対峙を特徴とする過渡期の時代においては、革命と反革命の構造が、権力対人民の垂直的関係とならんで、革命的人民対反革命的人民の水平的関係が面化するかちたを普遍的にとってくることについて、われわれは明瞭な認識をもたなくてはならない。
 そのひとつの傾向は、明確な反動的表現をもった種々の民間右翼勢力の登場であり、権力によるそれらの育成である。もうひとつの傾向は、労働者運動内部の日和見主義を反革命に育てあげ、「革命的」見せかけのもとで革命党と革命勢力を破壊しようとするものである。われわれがいっさいの反革命という場合、敵権力はもちろん、民間的形態の二つの傾向を積極的にふくめるのは、現代の革命が、権力と対峙するのみならず、ファシスト・ボナパルテイスト・スターリニスト・カクマルなどのいっさいの反革命との内乱的対峙に勝利することなしには前進しえない、という世界史的真理を確固として堅持しているからである。
 第三の誤りは、反革命勢力との党派的な対峙を恐怖する組織路線上の日和見主義である。
 すでにいくども指摘してきたように、第四インター=トロツキー主義の組織路線上の日和見主義は、革命論とりわけ独裁論の客観主義的性格に本質的根拠を有するのであるが、その直接のあらわれ方としては、反革命や日和見主義の諸勢力にたいする党派的対峙を回避する傾向、歴史的試練のいっさいを党の責任のもとにうけとめ勝利の道を自力できりひらくことを恐怖し、「すべてを大衆依存で解決しようとする傾向として現象するのであそる。したがって、かれらは革命と反革命の非妥協的対立が、まずもって党派間の内乱的対峙の発展(打倒するか打倒されるかの死闘原則の全面化)として問題化することについて真剣にとりくもうとせず、党の当然の敗北と壊滅を情勢や大衆や他派の「官僚の政治学」の責任に帰して平然としていることができるのである。
 われわれは、K=K連合とカクマル反革命に内乱的に対峙するという党的任務がどんなに困難なものであったとしても、別に第四インターの諸君の力を借りようなどとは寸分も考えてはいない。われわれは、羽田以来のいっさいの闘争、六九年十一月決戦と七一年大暴動闘争を頂点とする歴史的勝利のたたかいを自力で責任を担い、自力で闘争を貫徹し、自力で組織を強化してきたのである。K=K連合とカクマル反革命との闘争においても、われわれは、自力でかならず勝利の現実をつくりだしてみせるであろう。
 いまや、われわれにとって、K=K連合とカクマル反革命にたいする政治的・軍事的・党的な対峙の現実は、われわれの革命的前進にとって一個の有利な条件、われわれの弱点を決定的に克服し、われわれの長所を徹底的に強化する恒常的な精練過程の役割をはたしはじめている。党派闘争の激化は党と革命勢力の建設のための促進過程であり、プロレタリアート人民を党のまわりにかたく結束するための凝結過程である。武力のない党派には発言することも、活動することも、生きることもできない内乱の時代を鋭くこんにちに先どりしたものとして、K=K連合粉砕・カクマル反革命せん滅の闘争を積極的に位置づけること――この一点に革命勝利の道がある。
 われわれは、誠意と確信をもって第四インター日本支部との共同闘争を維持してきたし、かれらが希望するそのかぎりにおいて今後もそうするであろう。しかし、それは革命に勝利するためであって「正しい敗北」を共有するためではない。われわれは、革命の勝利をかならずなしとげるために、そして第四インター日本支部の諸君にも勝利の経験を共有してもらうために、自分の力でしっかりとたちつづけることがたいせつであり、同伴者の誤った傾向にたいしては威信と節度をもって臨むことがたいせつである。以上は、そのための原則的確認である。(六月一二日)
       (『前進』五九〇号、五九一号 一九七二年七月三日、一〇日 に掲載)