三 暴力の復権のために
 
 本論文は、『破防法研究』三号――九六九年十一月―に発表された。暴力の社会史的本質にかんする創造的な究明を基礎に、暴力革命論の復権を強烈におしだした論文である。
 
 
 もしも、ある社会の根底に非和解的な階級対立や社会矛盾が存在しているにもかかわらず、なおそれらの対立や矛盾が暴力的衝突として発現していないとするならば、このような事態はいったい肯定さるべきことなのであろうか。もちろん、人間史の究極において見るならば、階級対立や社会矛盾の止揚そのものが問題となることはいうまでもなかろう。だが、人間はいかにしてその止揚をなしとげるのだろうか。いや、そもそもいかにして問題の所在をつかみとるのであろうか。
 いくつかの例をあげて見ることにしよう。
 アメリカにおける黒人問題はどうであろうか。アンクル・トムやブラック・ジョニーが神を信じ、奴隷としての平和を愛していたとき、だれが黒人の解放を本気で考えたであろうか。そこに抑圧が存在しなかったわけではないことはいうまでもない。だが、白人ばかりではなく、黒人までもが、黒人の奴隷的秩序を運命のごとくうけいれ、その秩序が動揺して運命の怒りにふれるのをおそれていたのだ。イエス・キリストのまえの平等だけが、黒人の唯一の救いであったのだ。もう我慢できない――こう叫んで、黒人の青年たちが白人専用のバスやレストランや学校にのりこんだとき、そしてまた白人の過敏なまでの差別的激情を挑発し、警官やK・K・Kの襲撃に銃をもって返答をしたとき、はじめて奇跡がおこったのだ。黒人は、自分たちの奴隷的差別をなくすためにはまず行動すべきことを知ったのであり、また、白人のなかにも黒人の奴隷的抑圧こそ、自分たちの抑圧を運命づけているものだということを知るものがあらわれたのである。二世紀にわたる黒人解放の説得にもかかわらず、運命のごとく北米大陸を支配してきた色の論理は、もう一つの色の論理によっていまや崩壊の端緒に直面しているのだ。
 ベトナム問題はどうであろうか。南部ベトナム解放民族戦線は、パリの変形デスクのまえに着席し、アメリカ帝国主義やそのカイライ政権と対峙して、「平和交渉」をつづけている。アメリカ本国ではベトナムにおける自国の敗北を求める声と運動が日に日にたかまっている。だが、最初からこうだったのだろうか。六〇年暮、山岳地帯で、水田地帯で、南部解放の武装闘争が開始されたとき、解放戦線にいかなる合法性が保障されていたというのであろうか。五四年のジュネーブ会談によって帝国主義支配のもとにとり残された南部ベトナムの民衆は、アメリカ帝国主義とそのカイライ政権の陰惨きわまる抑圧、ベトミン狩りと秘しておこなわれた不服従分子の処刑、そして部落の戦略的封鎖のなかで、しかも、ホー・チ・ミン政権の北部支配権を代償に帝国主義の南部支配を承認した中、ソ共産党の裏切りのなかで、無一物の武装解放闘争を開始したのである。カイライ軍を追いつめ、米侵略軍を山地やデルタにふかくひきこみ、その戦線を分断し、孤立させ、壊滅させ、さらに都市部を逆包囲し、都市住民の深部に不抜の革命のとりでをきずきあげたとき、はじめてアメリカ帝国主義はベトナム侵略戦争政策の再検討を余儀なくされたのであり、アメリカ本国の民衆も真剣にベトナム反戦にとりくみ、政府の欺瞞的な「撤退」政策を根底から揺がしはじめたのである。
 「平和交渉」なるものは、ベトナム人民の武装解放闘争に追いつめられたアメリカ帝国主義が、それに合法的地位を与え、体制内的に包摂していこうとする攻撃であり、当然ベトナム人民はこうした帝国主義の苦しまざれの野望にたいし幻想をふきとばして前進しているが、しかし、ともあれ、この程度の譲歩すら、非合法的な武装闘争がなかったなら問題たりえなかったであろう。
 では、帝国主義本国におけるプロレタリアートの抑圧と反乱の問題はどうなのであろうか。周知のように、アメリカ、西欧、日本などの帝国主義本国にあっては、第二次大戦直後の前革命的情勢が体制内的に収拾されてから約二〇年にわたって階級闘争の城内平和が存続してきたのであった。いわゆる第三世界における革命の永続的な波から画然と区別された別天地のように、ここでは、階級闘争の暴力性は姿を消し、かわって政治闘争=経済闘争を議会的=組合的に合法化し、帝国主義的秩序のうちに体制内的に包摂する機構がつぎつぎと形成されていったのであった。それは、まさに、ロシア革命を突破口とする帝国主義と社会主義(それへの過渡期社会)との世界史的分裂が帝国主義とスターリン主義の平和共存的変容形態として現象している、という現代世界の問題性の国内階級闘争の反映いがいのなにものでもなかった。だが、帝国主義本国におけるスターリン主義運動のとどまることを知らぬ腐敗は、このような階級闘争の城内平和的な体制内化をスターリン主義革命戦略の破産として主体的にうけとめることすらできず、逆に、それを「労働者運動」の高揚として美化し、「議会をつうじての革命の平和的な道」や「構造改革にもとづく社会主義への平和移行」として、いっそう右翼的に戦略化していくこととなった。他方、プロレタリアート前衛のスターリン主義的=体制内政党的変質を重要な契機とした階級闘争の城内平和的な事態のふかまりのなかで、帝国主義国家は外見的には「福祉国家=大衆社会」として現象していったのであったが、それは、同時に、帝国主義本国における革命の必然性=プロレタリアートの革命的能力への絶望をかたる右から左までの各種の結論を生みだしたのであった。
 まさに、帝国主義本国における階級闘争の体制的秩序への包摂にたいし根底的批判を実践的につきつけたものこそ、フランスにおける「五月革命」であり、アメリカにおける黒人闘争、反戦闘争のたかまりであり、日本における十・八以来の階級闘争の発展であった。だが、この点を指摘するだけならばさして困難は生じないであろう。こんにちでは、もっとも保守的な思想家でさえ、既成左翼の体制内化にたいし新しい革命的左翼が全世界的に形成されつつあることをしぶしぶ認めはじめているのだ。むしろ問題は、帝国主義本国における階級闘争の革命的激化が、社会民主主義者やスターリン主義者の設定した議会主義的、組合主義的な水路をとらず、これらの水路をあふれだし、うちこわしていく方向で発展し、そのなかで暴力の復権が公然と宣言されはじめたのは、いったいなぜなのか、という点にある。だが、こうした設問の方法そのものが、プロレタリア階級闘争の本質にかかわるものとしていうならば逆転しているのであり、その解答は、積極的には、なぜいままで暴力が抑圧されてきたのか、という問題として与えられるべきなのである。なぜならば、ある特定の社会に非和解的な階級対立や社会矛盾が存在していながら、なおそれらが暴力的衝突として発現していないとするならば、それは、抑圧され支配され搾取されている階級が自己を表現する能力を放棄するか、喪失してしまっている結果なのだからである。現代帝国主義におけるプロレタリア階級闘争の暴力性の喪失は、一方における暴力の極度の国家的独占の進行と、他方における左翼公認指導部の暴力の放棄=合法主義への順応、そして、その結果としてのプロレタリアートの士気沮喪に直接的な根拠を有するものであり、プロレタリアートの階級的共同性の自己解体の表現いがいのなにものでもないのである。現代社会の労働者は、生産過程と生活過程の機械的転倒をとおして自己の類的生活の喪失をたえず再生産しているのであるが、その自己喪失への怒りを暴力として積極的に表現していく方向が社会主義の名において統制されるならば、かれらが、社会主義を帝国主義的秩序のうちに体制内化しようとする議会主義者や組合主義者の愚劣な努力を横目で見ながら、崖っぷちのマイホーム主義にしばしの休息を求めていくとしても、いったいだれがそれを批判しうるであろうか。レーニンは『プロレタリア革命の軍事綱領』において、「武器の使い方を習得し、武器の使い方に習熟し、武器をもとうとつとめないような被抑圧階級は、抑圧され、虐待され、奴隷としてあつかわれても仕方がない。ブルジョア平和主義者や日和見主義者になりさがらないかぎり、われわれは、自分が階級社会に生活していること、そして階級闘争によらずに、この社会から救われることはありえないし、考えられないことを忘れてはならない」と、軍縮のスローガンを唱える小ブル平和主義者にたいし辛辣(しんらつ)な批判をくわえているが、このことばは、なによりもまず、階級闘争の前衛指導部の責任を問うものといわねばならないであろう。階級闘争の城内平和的時代から動乱的時代への転換は、議会主義、組合主義、合法主義を拒否し、階級闘争の暴力性をとりかえすたたかいからはじまるのであり、したがってまた、それは、社会的にも個人的にも極度に飛躍的で爆発的な形態をとる必然性をもつのである。
 秩序を愛する良識派はこう疑問をなげかけるかもしれない――諸君の主張には耳をかたむけるべきものが多い。それを法秩序を順守した話し合いの方法で実現することはできないか、と。だが、こういう問題のたてかたそのものが、じつは現代帝国主義の支配の論理なのだ、ということを直視しなくてはならないのだ。こういう白い手をした狼の論理にたいして、われわれは、それでは諸君は帝国主義国家の独占するブルジョア暴力をまず解体してからやってきて欲しい、とひとまず答えるほかはないのである。事実、一見すると寛容なこの論理は、その背後に法=暴力の威嚇を秘めた抑圧の論理いがいのなにものでもないのであり、だからこそ、それは、民衆の側の拒否にあうや、暴力的抑圧の徹底した推進力に転化していくのである。もとより階級闘争が、抽象的に想定された思弁的世界から出発するものではなく、現実の生きた資本主義的諸関係を現実的に否定する過程を飛躍台とするものであるいじょう、われわれは帝国主義的諸矛盾の激化で危機的均衡がはちきれるばかりの帝国主義的支配秩序、暴力の極度の国家的独占と、社会主義勢力の体制内的包摂によってかろうじて階級均衡を維持している戦後民主主義の政治経済の現実から出発することはいうまでもないのである。だが、それは、既成左翼勢力にかわって現代帝国主義の危機にたつ政治秩序を回復し、その改良をはかるためではなく、帝国主義的秩序の革命的解体をとおしてプロレタリアートの暴力性を復権し、未来にむかっての飛躍を準備するためである。理念的にいうならば、戦後民主主義が形式的に保障する思想の自由にたいし、その権利の形式的拡大を賛美することに意味があるのではなく、また、その虚妄性を袖象的に指弾することに意義があるのでもなく、まさに戦後民主主義の許容する権利をも徹底的に駆使しながら、帝国主義打倒=共産主義革命という具体的な思想の自由の実現にかかわるものとして実践的にその虚構性をあばきだし、突破していくことが必要なのである。一方では思想の自由を認めるという法規範形式をとりながら、他方では、思想の実践的実現を法の名のもとに禁圧する、という矛盾した法論理は、もともとブルジョア法体系、に固有な矛盾なのであるが、こうした矛盾は、ブルジョア法イデオロギーにあっても、階級独裁という超法律的論理を導入するいがいに解決されえないところのものなのである。したがって、プロレタリア階級闘争にとっては、現代帝国主義の法秩序が、プロレタリアートの暴力性に追認的な適法性を与えるか、それとも法の名のもとに権力の論理を刑罰的に強制するかは、さしあたって第二義的な意味しかもちえないのである。
 また、議会主義の尻尾をつけた左翼は、つぎのような疑問をなげかけるかもしれない。――本当は議会的コースをとって合法的に革命が達成されるのが望ましいのだが、国家暴力が不法にもその道をとざしたからやむをえず暴力革命という非常な手段をとるのだ、と考えた方がよいのではなかろうか、と。この疑問は、考慮すべきいくつかの問題をもっていることはいうまでもない。トロッキーもいうように、軍事問題は大衆獲得の論理としては防衛的に提起されるという政治科学的法則性をわれわれは徹底的に重視しなければならない。また、防御優位の軍事科学的教訓を無視するならば、われわれはしかるべき制裁をうけることになろう。だが、階級闘争の基本理念にかんするかぎり、われわれは同時に、革命がその内的性格に規定されたものとして、暴力として表現されることを公然と宣言しなくてはならないのである。もともと共産主義とは、プロレタリアートによる資本の積極的止揚として実現されるものであり、それゆえ、それは、法理念的にはブルジョア的私有財産への専制的侵害を前提とせざるをえないのである。たしかに、プロレタリア階級闘争は、究極的には暴力の止揚をめざすものであることはいうまでもないが、しかし、同時に、善意や宣言によって暴力は克服されうるわけのものでもないことを直視しなくてはならない。いなむしろ、非和解的な階級対立や社会矛盾の存在にもかかわらず、暴力の排除を論ずるものは、客観的にも主観的にも支配階級の暴力性を擁護するものなのである。なぜならば、それは、けっして国家によるブルジョア暴力を排除するものではないからである。階級闘争の外見的な平和性は、ただ国家暴力の圧倒的優位性に保障されたものなのである。したがって、被支配階級は、暴力として自己を表現することをとおして国家暴力に対抗していくことができるのであり、積極的に自己の意志を結集させていくことが可能となるのである。プロレタリアートの暴力は、帝国主義国家の独占的暴力に対抗し、それを解体し、プロレタリアートの自己解放を達成していくための手段であるばかりではなく、プロレタリアートの階級としての自己形成のための積極的な表現として評価されなくてはならないのである。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、
  「革命は、支配階級を打倒するには他のどんな方法によってもなしえないという理由から必要であるばかりではなく、さらに打倒する階級は革命においてのみいっさいの古い汚物をはらいのけ、新しい社会建設の能力を付与されるにいたりうるという理由からいっても必要なのである」と指摘しているが、これは暴力論においても真理であることを自覚しなくてはならないであろう。暴力ということばを聞いて眉をひそめてみせる小ブル的な感傷趣味は、帝国主義国家権力の御用的思想家たちの礼儀作法にすぎない。プロレタリアートは、暴力の噴出する血叫びのなかに、人間の解放のための営為の端緒を喜びと躍動感をもって見いだしていくのである。
 周知のように、暴力の形而上学者と呼ばれるジョルジュ・ソレルは『暴力論』で、いわゆる暴力を「公権力の強力」と、総罷業をイマージュとする暴力とに論理的に分割し、後者のうちにプロレタリアートの神話の復活を要求したのであった。それは、ドイツ社会民主党を中心とする第二インター総体の修正主義化にたいするアナルコ・サンジカリズム的批判の極点をなすものであったといってよいが、だが、このような形而上学的な暴力の区分法によっては、なぜ暴力が国家権力の暴力(法的強制力)という形態をとって完成するのかという秘密をときあかすことはできないのである。ブルジョア国家がどうして民衆の暴力――それが政治的形態をとったものであれ、非政治的形態をとったものであれ――を禁圧し、解体し、国家的独占に集中する傾向をもつのか、という問題は、暴力そのものの本質にかかわるものとして解明されねばならないのである。
 では、いったい暴力とはなんなのであろうか。暴力とは、じつは、共同性の対立的表現、いいかえるならば、他者への対立を媒介として表現されたところの共同性とみなすことができるであろう。本質的に人間の類的生活を他者(他共同体)との関係において極限的に表現するものであるからして、暴力は組織的な有機性として究極的な表現様式をもつわけなのである。一匹狼なぞという暴力の美学的な形象は、暴力が支配者の独占的表現となり、抑圧と収奪の武器となり、民衆が自己の暴力性を喪失した状況のなかで生ずる暴力の観念的転倒いがいのなにものでもないのである。暴力は、人間の類的性格に根底的に基礎づけられたものとしてのみ暴力たりうるのである。もちろん、人間の人間としての類的生活は、人間生活の社会的生産(それは、労働における自己の生活の生産と、生殖における他人の生活の生産を二契機とする)を根拠として積極的に実現されることはいうまでもない。悠久の昔から、人間は個に死して類に生きる自己の本質を、社会として実現することをとおして大地の酷薄な試練に耐え、他の動物群との生存競争に勝ちぬいてきたのであったが、生産力の飢餓的な水準に規定された原始共産制の時代にあっては、他の共同体にたいするものとしてはその社会的生産力が暴力として発現したであろうことは否定すべくもないのである。暴力は人間共同体=類的生活の歴史的な分裂に根拠を有するものであり、それゆえ、その止揚はその人間史的分裂の止揚を意識的に推進する過程をとおして実現されねばならないのである。だが、人間社会がその分裂を止揚しえていないかぎりにあっては、他者との対立という粗野な契機のもとでではあれ、暴力が共同体を内的に規制し、その英雄主義を鼓吹する人間的表現であったことを見おとしてはならないのである。人間が人間を搾取し、人間が人間を抑圧する疎外された現代文明の階級的暴力と比較するならば、原始人たちの戦争と略奪を主要な形態とする共同体間の交通様式の方がはるかに人間的だともいいうるのではなかろうか。
 社会的生産力の発展は、地勢的条件によって制限されていた人間の交通様式をいっきょに拡大するとともに、人間共同体のせまくるしい地方的分裂を克服し、暴力として表現される粗野な共同性を止揚する人間史的前提を成熟させたのであるが、にもかかわらず、こうした前提条件の発展は、暴力の本質的止揚にむかってではなく、社会の階級社会への転化と、それにもとづく暴力の国家的独占をもたらしたのであった。すなわち、社会が階級社会に転化するとともに共同体の幻想的形態としての国家が形成され、それが共同性を表現するがごとく機能するようになったのであるが、それは同時に、共同性の対立的表現としての暴力が、自己を喪失し、自己に敵対する外的な暴力に疎外していく過程を示すものであった。ところで、このような暴力の分解、いいかえるならば、生産者からますますはなれ、かれらにたいする支配力として、かれらの剰余労働を略取する強制力として外化していく暴力と、支配階級にたいする抵抗と反乱をとおして自己表現を回復していく暴力との分解のなかで、前者のヘゲモニーのもとに後者を擬制的に包摂していく規範的役割をはたすものが、いうまでもなく法の社会的性格であった。もともと、法現象は、国家権力を実体的基礎として統治形態を規範化していく過程であるが、それは、人間史的に再構成するならば、歴史形成の根源的契機としての人間の社会的行動様式を、行動主体の自由な意志にもとづくものから、超人間的で外的な運命力――それは、支配階級の階級意志として現象するのであるが――に規定されたものへと疎外する過程いがいのなにものでもないのである。ところが、このような人間的暴力の疎外された規範化でありながら、あたかも人間行動を超人間的に規制する運命力のごとく現象し、階級利害を貫徹していく法現象にたいして、共同性の対立的表現としての暴力を歴史推転の根源的力として積極的に復権し、宿命的な法規範から目的意識的な人間実践を解放していくという立場と展望にたつのではなく、法を事実追認的に整合化し、その適正な運用によって人間社会の抑圧的秩序を永遠化しようとしているのが、法イデオロギーの転倒した構造なのである。
 現代社会の基底をなす、近代市民社会と、その上部構造としての政治的国家は、このような国家と法との関係を完成させたものといってよいのである。周知のように近代ブルジョア社会は、封建制社会の政治的解体、いいかえるならば、諸個人を身分的秩序から政治的に解放することをとおして実現したものであるが、それは、共同体の幻想的形態としての国家を完成した姿において形成させたのである。すなわち、ここにあっては、諸個人は宗教、私有財産の相違にもかかわらず、法規範的には平等の人格として国家に参加しうるのであり、そうした意味では、諸個人の人格が国家的、身分的に隷属する従来の支配、被支配の構造にくらべ決定的な変化を示したのであった。だが、マルクスが『ユダヤ人問題について』のなかで皮肉まじりに批判しているように、近代革命は、精神的市民=国家公民という側面においてのみ人間を宗教、私有財産から解放したのであって、現実に生活している物質的市民という側面においてはいささかも宗教、私有財産から解放したわけではなく、それどころか、諸個人を商品=貨幣の物神的支配力のまえにわかちがたく結びつけてしまったのであった。マルクス経済学の理解するところによれば、近代市民社会の物質的基礎過程をなす資本家的商品経済は、直接的生産者と客体的自然条件(土地と生産手段)の分離を前提に、労働力の商品化の矛盾の展開をとおして社会的総労働の比例的配分という経済原則を実現していくところに、その特殊歴史的な性格があるのである。いいかえるならば、資本制社会における支配階級による被支配階級への支配と搾取は、奴隷制社会や封建制社会のそれのように直接的な形態をとらず、蓄積された過去の労働としての資本家的私有財産(資本)による、生きた労働(その源泉としての労働力なる商品)の支配、という商品形態をもって媒介的におこなわれるのであり、資本家と労働者の敵対的な階級関係は、資本家の貨幣と労働者のうちなる労働力商品の自由平等な等価の交換という外見をとっておこなわれるのである。したがってまた、政治的国家は、被支配階級としての労働者階級=人民大衆にたいして直接的な支配力として現象せずに、外敵ならびに内敵=法秩序破壊者による私有財産制度の侵害から国民総体を防衛するという法的仮象を媒介として、資本家と労働者の敵対的な階級関係の資本家的再生産を維持する強制力として機能するのである。まさに、法的規範のもとにあっては、労働者の所有する生活手段としてのテレビや洗濯機も、資本家の所有する価値増殖の手段(資本)としての工場や機械も、私有財産として等しき意義をもつものなのであるが、市民社会の上部構造としての政治的国家は、国民の生命財産の安全を保障するという機能を基礎として、国家という虚偽の共同性を精神的に構築することをとおして、そのもとに労働者人民の現実的利害を抽象的に統一し、また、国家という虚偽の共同性にむかって労働者人民を精神的=政治的に組織することをとおして、労働者人民の現実的利害からますますはなれ、それと非和解的に対立する暴力をつくりだし、資本制的な搾取と抑圧を維持する機構として自己を完成していくのである。
 なお、近代ブルジョア社会にあっては、暴力は、政治と軍事という分極した両側面をとおして現象するのであり、前者は内治として、後者は外敵への対抗手段として機能的に分化しているのである。しかも、このような暴力の分極化は、政治、過程的には、独裁(本質)と政府(現象)との分離、政治的党派(実体)間の政争をとおしてのその担い手の確定という経過と手続をとり、官僚・警察・軍隊など国家の諸実体をなす機構は、外見的には政治的党派間の政争には関与せず、その勝利者の意向のままに機能するかのような役割をはたすものとして現象するのである。そのため、政党は非暴力的過程を、警察・軍隊は軍事的=暴力的過程を担当する仮象が生じ、政治は、政府担当者を決定するための政治的党派間の政争の自由な選択のうちに実現され、軍事(その実体的諸機関としての警察・軍隊)はその政治過程の外的条件を防衛するものとして問題化するかのように錯覚するのである。もちろん、ブルジョア政治の内在的論理としては、このような錯覚は、現実を反映したものであり、なんの不都合もないのであるが、しかし、階級支配という視点からこれを検討するならば、警察・軍隊の汎政党的な仮象は、政党と国家との階級的一致を前提としてはじめて成立するのであり、場合によっては、こうした階級的一致のうえでも支配階級の政治意志の分裂を基礎として暴力的衝突がおこることすらあるのである。ともあれ、暴力の政治と軍事のブルジョア的分離とそれへの改良主義的幻想は、ブルジョア支配の危機の表現としての内乱においては、崩壊せざるをえないのであるが、プロレタリア政治は、この究極的事実から現実の過程にむかうのである。
 したがって、労働者階級が、賃労働者としての自己を解放し、人間の全人類的生活の回復をかちとっていくためには、生産手段の資本家的所有=労働力の商品化という資本主義の基本矛盾を解決し、生産と分配にかんする目的意識的な交通形態を建設し、その基礎のうえに人間性の全面的な開花をかちとっていくことが必要なのであることはいうまでもないのであるが、そのためには、まずもってプロレタリアートが資本家との闘争をとおして自己の喪失した暴力性をとりかえし、共同体の幻想的形態としての政治的国家を粉砕し、プロレタリアートの暴力を国家として完成させねばならないのである。考えてみると、奴隷制社会や封建制社会にあっては、対立的に表現された共同性としての暴力は、奴隷や農奴にたいする支配階級の武装として直接的に実現されたのであったが、資本制社会にあっては、プロレタリアート人民の国家=法規範を媒介とした精神的疎外を基礎として国家の武装は保障されているのであり、まさにこの点にブルジョア国家の強みも弱みも秘められているのである。それゆえ、プロレタリアートは、資本家と労働者の敵対的な階級関係を転覆し、その矛盾を解決していくためには、ただたんにストライキ・工場占拠として自己の暴力性を部分的に示すだけではなく、それをもふくめて暴力性の全面的な発展をかちとっていくために、自己の疎外された労働の産物であり、また、自己に敵対する外的運命力として現象する現代文明とその法秩序にたいする物神崇拝を根底的にぶちこわしてしまう必要があるのである。それは、現代世界とその社会構造のもとにあっては修正されるどころかいっそう真理となるのである。
 帝国主義のイデオロギー擁護者たちは、現代帝国主義と、そのもとでの大衆社会状況の現出とをもって帝国主義的矛盾の終末をかたり、階級闘争の変貌を結論づけようとしており、他方、スターリン主義者たちは、議会主義、組合主義の水路にそって「社会主義」を帝国主義的支配秩序のうちに構造化しようとする傾向と、いわゆる第三世界とアメリカ帝国主義との闘争のうちに「世界革命」の基本構造を設定する周辺革命論の傾向とに分化しながら、総体としては、帝国主義本国におけるプロレタリアートの革命的反乱の道をとざす役割をはたしているのであるが、われわれは、現代社会の大衆社会状況を脱階級社会への傾向とみなす帝国主義者や、大衆社会状況に脱階級的にのめりこんでいく右翼スターリン主義者や、そしてまた帝国主義本国の階級闘争を「愛国主義」という反階級的視点からしか評価しえないエセ革命主義者のこころみにたいし、帝国主義本国におけるプロレタリアートの革命的反乱をもって現代世界の根底的変革をかちとっていく展望をもって、帝国主義のアジア半植民地後進国支配体制の崩壊的危機を日本革命――北米革命に積極的に転化していかねばならない。こうした視点にたって見た場合、現代帝国主義とそのもとでの大衆社会的状況は、労働者階級と資本家階級との敵対的な階級対立の消滅の結果としてもたらされたものではなく、逆に危機にたつ帝国主義の抑圧の全体化と、その一定の成功として具体的にとらえかえすことが必要であろう。資本制社会に特有な階級支配の構造は、諸個人にたいする直接の抑圧の形態をとらず、国家が市民の生命・財産の安全を保障し、それを侵害するものを法の名のもとに制圧し、刑罰するという媒介的な方法をとっておこなわれる点にあるのであるが(もちろん、こうした外見性のもとで植民地への残忍きわまる収奪と、労働者へのあくことなき搾取がおこなわれたのであることはいうまでもないが)、資本主義の帝国主義段階への世界史的推転にもとづく諸矛盾の激化、すなわち、不況からの脱出過程の長期化にもとづく労資の階級的対立の深刻化、農業問題や物価問題の構造化、植民地再分割戦と植民地革命の高揚、世界戦争と戦後革命の危機という帝国主義的諸矛盾の激化は、資本主義の自由主義段階に典型とされた夜警国家的な支配構造を破綻せしめるとともに、帝国主義支配の体制的危機を政治的=経済的に制圧するための前線司令部として国家を前面化させることとなったのである。ロシア革命を突破口とする帝国主義から社会主義への世界史的過渡期の開始とそのもとでの各国階級闘争の革命的高揚は、プロレタリアートの暴力性を回復させ、武装したブルジョアジーの国家との革命か反革命かの対決を全世界的におしひろげたのであった。
 プロレタリアートの暴力とブルジョアジーの暴力とが相手のせん滅を求めて真正面から対決し、その決着を争う時代に突入したのであった。もちろん、自由主義段階にあっても政治的国家はいわゆる夜警国家的構造を傾向的に示したにすぎず、警察・軍隊・官僚制度など国家の実体的な支配機構が民衆の反乱にたいして日夜かわらぬ監視をつづけていたばかりではなく、人類最初の労働者国家であるパリ・コンミューンにたいしては、文字どおりパリを血の海に沈めて皆殺し的弾圧をくわえたのであった。にもかかわらず、自由主義段階にあっては、政治的国家のブルジョア的暴力性は、治安維持のための例外的措置のごとき仮象をとって現象したのであった。だが、いまや、プロレタリアートの暴力の噴出をもってする世界革命の時代の到来をまえにして、帝国主義は、国家のブルジョア的暴力性を全面化し、反革命の前線司令部としての国家の役割を積極的にうちだしたのであった。すでにブルジョア政治的国家は、資本主義の帝国主義段階への推転とともに、強大かつ恒常的な軍事機構をもち、尨大な国家財政を管理する行政機構に肥大化していたのであったが、帝国主義ブルジョアジーは、このような国家とそのもとでの巨大な官僚的、軍事的装置の飛躍的な強化を基礎に、一方では、直接的にプロレタリアートの暴力性に対抗し、それを鎮圧、解体するための軍事的強権として国家を再編成するとともに、他方では、階級闘争の激化の条件をなす不況の脱出過程の長期化を経済政策的に補完するための機関としての役割を国家に課したのであった。しかも、重要な事態として注目すべきことは、ロシア革命を突破口とする革命と反革命の対決の開始を転機として、革命的危機を社会改良的に収拾する攻撃が、帝国主義の側から積極的にうちだされてきた、という点であろう。それは、一方では、不況脱出のための経済政策と関連して立案され、機構化していった失業保障制度などの確立としておこなわれるとともに、他方では、政党や労働組合など労働者階級の諸組織を議会や労資協讃機関などの合法主義的紛争処理機関のうちに包摂し、その暴力性を解体してしまう攻撃として積極化したのであった。ワイマール時代からニューディール政策にかけて一般化する、いわゆる社会立法政策は、階級闘争の激化の改良的副産物であるとともに、革命と反革命の赤裸々な対決を回避し、プロレタリアートの暴力性を帝国主義的秩序機構のうちに包摂・解体していく具体的な反革命であったのである。したがって、帝国主義は、諸矛盾のけいれん的爆発のまえに、もはやこのような階級闘争の合法主義的秩序によっては革命に対抗し、自己の延命をはかることが困難と判断した場合には、もちろん公然たる予防反革命としてのファシズムの道を選ぶことになんのちゅうちょも示さなかったのであり、また、プロレタリアートの暴力性の衰退によって階級闘争が平和化しつつあった場合にあっても、国家の反革命的軍事機構をいぜんとして強化しながら、労働者階級のいっそうの屈服と体制内化を強要し、人民にたいする政治的=経済的支配をますます構造化していったのである。国際共産主義運動のスターリン主義的変質、すなわち、一国社会主義と平和共存政策、二段階戦略と人民戦線戦術にもとづく労働者解放闘争の歪曲は、国際的には、帝国主義と社会主義(そこにむかっての過渡期社会=労働者国家)の世界史的分裂を帝国主義とスターリン主義(過渡期の一国社会主義的疎外形態)の平和共存的関係に変容させ、後者を前者の世界体制のうちに包摂(ヤルタ体制=ジュネーブ体制)していくことになるとともに、各国階級闘争の内部にあっても、帝国主義的支配秩序への階級闘争の社民的屈服を左から補完し、ときには社民をもこえていっそう体制内化する「前衛」的役割をはたさせるにいたったのである。それは、また一方では、いわゆる第三世界における革命闘争を民族主義=自力更生論的にとじこめるとともに、帝国主義本国と第三世界の革命との有機的な結合を切断し、帝国主義本国における労働者階級をいっそう排外主義の側におしやったのである。帝国主義本国における階級闘争の平和的発展を根底的に基礎づけているところのものは、プロレタリアート前衛の裏切りを決定的な一契機とするプロレタリアートの暴力性の帝国主義的秩序への包摂・解体であり、帝国主義国家の史上類例を見ないほどの強大化とその支配の全面性にあるのである。
 だが、現代帝国主義のプロレタリアート支配のこのような方法は、けっして不敗のものでも完全なものでもなく、きわめて危機的性格をもったものなのである。なぜならば、現代帝国主義と、そのもとでの階級闘争の平和的発展は、帝国主義段階における諸矛盾の激化、ならびに、帝国主義から社会主義への世界史的過渡期の開始という現代世界の基本的危機性を根本的に解決したものではなくして、このような危機性のうえに擬制的に形成された外見性にすぎないからである。アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義の戦後世界体制は、周知のように、世界の過渡期的分裂のヤルタ体制=ジュネーブ体制的な分割支配の固定化を前提として、ドル・ポンド国際通貨制度といわゆる集団安全保障体制とを両軸に形成し、しかも、その戦後体制のもとにスターリン主義圏を圧倒していったのであるが、しかしながら、それは、米帝の圧倒的な生産力と富をもって世界経済のブロック的解体を擬制的に統一し、かつまた、帝国主義の体制的危機にたいし米帝の巨大の軍事力をもって全世界的な暴力的装置に代行し、プロレタリア革命に対抗しようとしたものであった。核兵器に象徴される巨大な破壊兵器と、膨大化した軍事組織をもってプロレタリアートの暴力を制圧し、その士気沮喪をはかりながら、同時に、階級闘争の体制内的包摂をもって帝国主義的矛盾の革命への転化を阻止するというのが、帝国主義本国の戦後いっかんした支配政策であった。またスターリン主義陣営は、帝国主義の核脅迫の政策にたいし、一方では、核兵器の開発をもって核恐怖の均衡をつくりだすことで対抗するとともに、他方では、議会をつうじての革命の平和的な道や、構造改革にもとづく社会主義への平和移行などをうちだして、帝国主義の巨大な軍事支配機構のまえに屈服していったのであった。それは、一見するとまったく矛盾した対応のように見えるが、暴力というものをプロレタリアートの共同性の表現としてとらえず、ブルジョア政治学の立場と同様に、人間性の外部に存在し、人間がそれを自由にあやつりうるところの超社会的=階級的な力であるかのように考えている点において、いささかも矛盾するものではないのである。エスカレーション理論の創設者のひとりハーマン・カーンは、核戦争について、
 「最初と最後の発射の間には、たぶん徴兵、戦時動員、国債発行、投票といったようなものは何もなかろう。こうした戦争は、相対的にいって大いに技術的なものになるだろうし、政府当局者と技術者によっておこなわれるであろう。また、市民の支持とか士気とかいう、さしせまった問題にはほとんど注意がはらわれないか、あるいは、全く注意がはらわれないだろう。
 戦争は比較的冷静に戦われるであろうし、また、国家的利害を考慮してすすめられるだろう。
 しかし、宣伝や民衆の感情によっては殆んど影響されないだろう」(『エスカレーション論』)
という不遜なことばをのべているが、帝国主義は、超人間的ともいうべきブルジョア軍事技術を現代文明に構築したのである。だが、このような巨大な死の破壊力に対抗し、これを解体し、また、このような破壊力を生むにいたった現代文明とその生産力を人間解放の主体的契機に転化していく道は、断じて核開発による恐怖の均衡をつくりだすことでも、また、革命の平和的コースにかんする不毛な討論にあけくれることでもなく、それは、ただ帝国主義本国においてプロレタリアートの暴力性を革命的反乱として回復していく道いがいにないのである。
 もともと、戦後の軍事戦略は、圧倒的な核戦力=近代戦力をもって相手国の戦意を沮喪させることで政治的優位性を確保する構造をとってきた。アメリカ帝国主義は、核戦力とそれを頂点とする巨大な軍事機構をもって、ソ連=中国圏を脅迫し、その無力性をあばきだしながら、西欧――日本の帝国主義との同盟政策を維持し、第三世界の革命闘争に対抗し、本国プロレタリアートを威圧してきた。それゆえ、ソ連の核開発にもとづく核恐怖にたいしては、その最初の相互攻撃に耐えて、さらに相手の生きのびた能力を全滅させるにたる第二撃能力の構築という、途方もない破壊的方法を生みだしていったのであった。こうしたなかで、アメリカ帝国主義はその核戦略において勝利をしめたかに見えたのであった。フランスの核武装、ドイツ、日本の核開発への模索が、いわゆる自主防衛への志向もふくめて、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺のふかまりにたいする帝国主義の防衛的対応として提起されたものであり、核武装することによって多極化する国際政治への発言力の強化を狙ったものであることはいうまでもないが、それは同時に、米ソの核対抗を基軸とする戦後軍事戦略への二流帝国主義諸国の追従的な加担を意味しているのである。だが、核兵器を主軸とする帝国主義の伝統的な軍事戦略は、いわゆる核独占か核分散(核独占の打破)か、という権力政治的な発想とはまったく別の分野でも大きな挑戦をうけ、根底的な動揺に直面するにいたっているのである。それはいうまでもなくベトナムを頂点とする第三世界における、いわゆる非通常型限定戦争(=ゲリラ戦争)の発展であり、それにもとづく帝国主義の半植民地・高深刻支配体制の破綻の進展である。第三世界における農民を主勢力とするゲリラ戦争は、ハーマン・カーンのような軍事技術者ののぼせあがった構想にたいし決定的打撃をくわえ、その弱点をあばきだすとともに、人間解放の事業における暴力の積極的意義をあらためて照らしだしたのであった。まさに暴力は、帝国主義を打倒し、民族解放をかちとるために必要とされたばかりではなく、植民地後進国人民の喪失していた人間的尊厳をとりもどし、新しい社会を建設するための共同性を生みだしていくための不可欠の表現であることをうちけしがたい力をもって証明したのである。
 では、それは、第三世界の人民にのみ与えられた暴力の特殊なあり方なのであろうか。じつにこの点に、帝国主義本国における革命の基本的方向が問われているといわねばならないのである。
たとえば、帝国主義本国におけるプロレタリアートやインテリゲンチャが、第三世界におけるゲリラ戦争にたいし肯定的評価をもつことは、帝国主義的な排外主義に対抗するものとして一定の意味をもっている。だが、それが、たんなる外的認識にとどまっているとするならば、やはり究極において排外主義に包摂されざるをえないことをはっきりと直視しなくてはならない。第三世界のゲリラ戦争によって敗北し、崩壊させられつつあるものは、ただたんに帝国主義の植民地後進国支配だけでもなく、また、植民地後進国支配への民衆の加担だけではなく、まさに、帝国主義の支配のまえに自分の暴力性を解体してきたプロレタリアートのあり方そのものであるといわなくてはならない。ベトナムにおける帝国主義の敗北は、同時に、帝国主義本国におけるプロレタリア階級闘争の議会主義的、組合主義的、合法主義的な腐敗を告発しているのである。この点まで内的にベトナム問題をうけとめないとするならば、新しいベトナム問題の発生を阻止することはできないであろう。帝国主義本国におけるプロレタリアートとその前衛としての革命的共産主義者は、第三世界の革命的闘争に思想的にも政治的にも軍事的にもふかく学びながら、ロシア革命を今日的に継承していく方向でプロレタリアートの暴力の復権に真剣にとりくんでいかねばならないのである。もちろん、帝国主義本国における現代革命は、第三世界におけるゲリラ戦争の形態を機械的に移植するものではなく、ロシア革命における武装蜂起=ソビエト権力樹立を現代的に貫徹していくものとして、一〇年型の動乱において革命と反革命が勝敗を争う壮絶な世界史的過程となるであろう。したがって、それは、合法的なものと非合法的なもの、平和的なものと軍事的なもの、議会的なものと非議会的なもの、公然的なものと非公然的なもの、などのありとあらゆる闘争形態の間断なき連続をとおして工場占拠、街頭制圧、武装蜂起=プロレタリア権力の樹立を準備していくたたかいとなるであろう。プロレタリアートの暴力は、ブルジョア政治過程における政治と軍事の分離を革命的に止揚するものであって、暴力を政治から分離し、単純に軍事問題に一元化するような理解は誤りというほかないのである。したがって、それは大衆との根ぶかい結びつきのなかに不敗のゆらぐことなき根拠をもってブルジョア権力に対抗しうるのである。まさに、そうであるからこそ、このようなプロレタリアートの暴力の復権の過程は、同時にまた帝国主義の核兵器を頂点とする超人間的な軍事機構を解体していく唯一の道ともなるのである。事実、マクナマラの軍事参事官であったダイチマンは、内戦型の非通常型制限戦争を「抑止を効果あるものにするのは非常に難しい」と慨嘆しているばかりか、都市部における「間接侵略」には従来の核戦略では同盟国を核攻撃することになり、じつさいにはそれが無力であることをしぶしぶと認めざるをえないのである。抑圧の暴力的秩序と、解放の暴力的秩序との永続的な対決の時代がいまはじまろうとしているのである。アメリカにおける黒人闘争、反戦闘争のたかまり、フランスにおける「五月革命」、日本における十・八羽田以来の階級闘争の発展は、こうした意味で、階級闘争を帝国主義支配秩序のもとに包摂する議会主義的、組合主義的、合法主義的水路をあふれ、うちこわすものとして発展しており、いわば帝国主義本国におけるプロレタリアートの暴力の復権の有効性と不可避性を萌芽的に示したものといえるであろう。帝国主義戦後世界体制の根底的動揺のふかまりのなかで、第三世界のたたかいにつづいて、いまや、帝国主義本国における革命的内乱が、帝国主義の武装平和の虚妄をうちくだこうとしているのである。もちろん、それは、まだ萌芽であって、政治的にも軍事的にも稚拙なものというほかはない。だがプロレタリアートの偉大な創造力は、死を賭した決戦と、その敗北の血のにじむ総括をとおして、その稚拙を過去のものとしていくであろう。困難を解決すべき困難としてうけとめたとき、解決への道はなかばひらかれているのである。
 最後に確認しておかなくてはならない点は、このようなプロレタリアートの暴力の復権が、小ブル的日常生活のなかに首までひたりながら、革命実践にかんする礼儀作法を説教している左翼知識人の望んでいるような優雅な過程をとるものとは考えられないということである。いわんや、それが独占資本体の情報機構のうえに花咲く、ノンセクト・ラジカル論的な虚妄を容赦なくうちこわしながら進展するであろうことは疑う余地もないのである。まずもって、プロレタリアートの暴力性は、帝国主義国家権力のブルジョア的暴力に真向うから対決し、それを解体していく過程をとおしてのみ自己を認識しうるのであり、またプロレタリアートの独裁国家を樹立し、たえずそこに住民を組織していくたたかいをとおしてのみ自己の止揚をかたりうるのであるが、それは同時に、プロレタリアートの内外で活動するいっさいの政治的党派間の熾烈きわまる思想的、政治的、組織的対立をとおして具体的な表現を見いだしていくのである。もともと政治とは、独裁=政府をめぐる党派間の争闘を実体的基礎とするのであり、階級独裁もまた、抽象的な階級意志の実現としてあらわれるものではなく、特定の党派ないし特定の党派の連合を政治的実体として実現していくのである。だからこそ、政治的党派の対立と、その対立の止揚の過程は、たとえ権力が掌握される以前にあっても深刻な様相をおびざるをえないのである。したがって、権力闘争を論じながら、その権力闘争を担うにたる質をもった政治的党派の問題にまでその内容を具体化しえないとするならば、それは、木に縁って魚を求めるようなものであろう。いわゆる内ゲバといえども、そこにはかならず二つの政治的志向の激突が存在しているのであって、このような政治的な内容から機械的に分離した地点でその善悪を論じたとしても、それは帝国主義間の軍縮協定よりもはるかに愚劣な退廃をもたらすだけなのである。こんにちでは日本階級闘争の激動の出発点としてだれもが承認する十・八羽田闘争は、日本帝国主義国家権力にたいするプロレタリアートの暴力性を復権するたたかいの突破口をきりひらくものであったことはいうまでもないが、しかしながら、同時にそれが、革命的左翼戦線内部における日和見主義的翼とのドラスチックな分裂と対決をかけてかちとられたものであったことを明確にしておくことも無意味ではないであろう。このような二つの翼のあいだにおける闘争は、佐世保、三里塚、王子から六・一五をへて、新宿騒乱闘争として左翼のヘゲモニーのもとに勝利的に集約され、六九年階級闘争の激動に継承され、発展していったのであるが、それはいわゆる内ゲバという現象、プロレタリア革命の路線をめぐる日和見主義的翼と左翼との妥協することの許されぬ闘争と鋭く結びついておこっていること、したがって、それらを階級闘争総体のうちに正しく位置づけることによってはじめて、その具体的な批判も前進しうることを直視しなくてはならないであろう。したがって、革命的共産主義者は、革命的左翼戦線の内外で生起する日和見主義的翼の反動的襲撃にたいし、これに絶対に敗北しない強固な戦列を構築することをもってはねかえし、国家権力にたいするプロレタリア階級闘争と、そこにおける革命的統一戦線戦術の積極的な展開をとおして、日和見主義的翼のたくらみの反階級性を暴露し、孤立させ、解体し、さらには、その翼下の大衆を正しい戦列にひきこむたたかいとして応えていくこととなるであろう。事実、羽田以来の二ヵ年の激動は、帝国主義国家権力との血みどろの死闘であり、既成左翼指導部の反階級的対応との非妥協的な対決であったが、だが、同時に、それは、カクマル、解放派という具体的党派の形態をとって革命的左翼戦線の内外に生起した右翼メンシェヴィキ的=左翼社民的潮流との党派闘争の連続であったのである。もし右翼ブロックのヘゲモニーが勝利していたならば、だれがこんにちの階級闘争の発展を想起することができるであろうか。おもうに、ロシア革命のような巨大な歴史過程にあっても、ブルジョア国家権力打倒・ソビエト(労農兵士評議会)権力樹立のたたかいは、統一戦線の最高形態としてのソビエト内部でのメンシエヴィキ、エス・エル右派との熾烈な党派闘争のみならず、革命党としてのボルシェヴィキ内部の日和見主義との党内闘争をとおしてかちとられていったのである。われわれは、この厳然たる事実から断じて目をそらしてはならないのである。革命もまた政治過程であるかぎりでは、プロレタリアートのイデオロギー的危機や思想的動揺は、党派闘争として、また、党内闘争として表現されるのであり、したがってまた、プロレタリアートの政治的危機は、革命的党派、また、革命的党派連合の勝利として解決されていくのである。
 プロレタリアートの暴力性にかんする自覚もまた、けっして自然発生的に形成されていくのではなく、革命的前衛の組織的実践を媒介としてはじめて形成されていくのであり、しかも、それは、革命的前衛を中核とするプロレタリアートの暴力性の組織化と、それの政治的勝利を主導力として実現されていくのである。革命的共産主義者の党は、プロレタリア解放の鼓吹者であるばかりでなく、その組織的実践のうちにプロレタリアートの暴力性を先行的に表現していく戦闘者集団でなくてはならないであろう。まさに、武装された伝道者として党が大地に確固としてたちあがったとき、はじめてそれは、政治と軍事との機械的分離をプロレタリアートの暴力の復権として統一していくことができるのであり、前衛指導部として歴史の試練に耐えうる根拠を形成したことを意味するのである。まさに、プロレタリアートの暴力こそは、破壊のための情熱のおたけびであり、建設のための理性のめざめであり、自由のための連帯のあかしである。人間社会に階級対立や社会矛盾のあるかぎり、プロレタリアートの暴力は、エジプトを脱出した荒野のモーゼのように、人類解放の炬火に焼かれながら休息することなくたたかいつづけるだろう。革命詩人ハイネによれば、知恵の女神は、オリンポスの山で、男女の神々が裸で酒や食物を酔いくらって楽しんでいたとき、こうした喜びのさなかにあっても、よろいをまとい、かぶとをかぶり、槍を手から離さなかったそうである。ギリシャ神話の知恵の女神が身をもって示した知性の暴力性を、現代の革命的前衛が自己の組織的実践としてうけとめるかどうか――七〇年代における革命の時代の到来は、このようなものとして準備されているのである。