二 『戦争と革命の基本問題』の学び方について
 
 本稿は、前章『戦争と革命の基本問題』にたいする自注ともいうべき未完の遺稿である。
 
(一)たたかいつつ学ぶことの意義/(二)『基本問題』の目的と 構成/(三)どこから研究すべきか
 
 
 一 たたかいつつ学ぶことの意義
 
 偉大な闘争のたかまりの時代は、確実な足どりをもって開始された。
 戦後世界体制の崩壊的危機のとどまることなきふかまりは、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命戦略の正当性とその現実的切迫性をますます要求しはじめている。ベトナム危機を導火線とする帝国主義のアジア後進国・半植民地体制の全面的崩壊の危機は、米帝の暴虐な侵略性をむきだしにするとともに、スターリン主義陣営の反動的対応、ベトナム人民への許しがたい裏切りの姿勢をあばきだしている。アメリカ帝国主義と日本帝国主義の共同のベトナム侵略に根底的に対峙し、それを帝国主義政府の敗北、プロレタリアート人民の内乱に転化していくたたかい、ソ連と中国のスターリン主義権力の反動的制動を確固として拒否し、あらゆる困難を突破してベトナム人民の(民族解放・革命戦争)を完遂するたたかいは、反帝・反スタ世界革命の当面する任務の両側面をなしている。
 米帝と日帝のベトナム共同侵略に断固として反対し、侵略→内乱の戦略的総路線、蜂起の準備、蜂起への一階梯としての総力戦を死力をかけてたたかいぬくことは、反帝・反スタ世界革命にむかっての日本プロレタリアート人民の重大な戦略的任務である。日帝国家権力のむきだしの破防法攻撃(公安調査庁はすでに年内の組織破防法の適用を公然とうちだしてきている)、K=K連合とカクマル反革命の執拗な襲撃は、偉大な闘争のたかまりの時代にたいする反革命勢力の底知れぬ不安と絶望のあらわれであり、内乱と蜂起の準備を全人民のまえに公然と提起し、その革命的中核としての責任の完遂にむかって着々と自己の強化をすすめている革命党と革命勢力にたいする反革命勢力のいやしがたい恐怖と憎悪のあらわれである。
 革命と反革命の永続的な内乱的対峙は、緊迫した闘争の連続した日々であり、それゆえ、一日として安息を許されぬ死闘の日々である。われわれは、内乱的対峙の永続的過程をわれわれの闘争によってきりひらかれた戦略的到達点として喜びをもってうけとめるとともに、内乱的対峙の永続的過程を文字どおり勝利することによって革命の条件を一つひとつたぐりよせていくのである。(1)正しい路線の堅持、(2)それに立脚した強大な勢力、政治的力量の建設、(3)路線の質にふさわしい闘争の展開、という総力戦の三つの任務(質・量・形)は、同時にまた、偉大な闘争のたかまりの時代をつらぬくわれわれの永続的な課題でなくてはならない。
 革命の課題にふさわしい革命の理論を鍛えあげる任務、革命の課題にふさわしい革命の理論で革命的前衛党を武装する任務は、侵略→内乱の戦略的総路線が階級闘争の現実の分岐点として登場し、蜂起の準備が計画的・系統的な課題として提起される革命闘争の時代においてこそ、重大なたたかいとなるのである。革命党の理論闘争が、いわゆる平時においてではなく、革命の現実性が切迫し、それとの緊張した関係において「革命党」が革命と反革命に分岐していく情勢において、もっとも鋭い展開を示すことは、階級闘争のいっさいの歴史がはっきりと教えているところである。帝国主義国家権力への投降者集団・カクマル反革命とわれわれとの党派闘争の内乱的発展の基礎には、マルクス、レーニンの革命理論を内乱・内戦――蜂起の準備をつらぬく革命的実践の理論として発展させるのか、それとも、マルクス、レーニンの革命理論を内乱・内戦――蜂起の準備を妨害する反革命的実践の「理論」として歪曲するのか、という鮮明な理論的対立がよこたわっているのである。
 闘争のなかで革命の理論を鍛えあげ、闘争のなかで革命の理論を学ぶ任務は、党建設・党派闘争の遂行上の重大な構成要素である。マルクス、レーニンの基本文献を学習し、それを実践的な革命理論に鍛えあげ、わが同盟の革命理論(世界革命戦略、戦略的総路線、武装と蜂起の理論、戦術的指導原則、党建設=党派闘争の理論など)をいっそう深化していくたたかいは、まさに内乱的死闘期の積極的な組織任務である。【同志諸君の理論学習の基本は、あくまでもマルクス、レーニンの基本文献、同盟の基本文献の独習、共同学習におくべきであり、いわゆる新左翼文化人の著作や「雑誌」にかんしては批判の対象として積極的にとりくむ場合を除いては、不用意に購読することは避けるべきである。なお、いわゆる新左翼を読者対象とする商業雑誌について付言すると、それらのほとんどは「正体不明」の人物が経営しており、個々の編集者や執筆者の私観的意図はともかく、全体としてはいわゆる新左翼を正しい戦略路線、正しい組織路線からひきはなし、虚偽の「極点」に関心を集中する謀略的機能の側面をもっている点について正しい警戒心をもつ必要がある。】
 
 二 『基本問題』の目的と構成
 
 『基本問題』の主要な実践的目標は、マルクス主義的な軍事思想を構築する立場から、(1)戦争と革命の関連性とその相互転化の構造、(2)戦争と革命の軍事的な法則性とその合法則的な指導原則の二点について、一般理論として構成しようとしたところにある。
 それゆえ、戦争とその指導理論の特殊歴史的な性格と形態にかんしては、基本的には論及されていない。具体的にいうならば、(1)資本主義社会における戦争と革命の問題、(2)資本主義の帝国主義段階における戦争と革命の問題、(3)世界史的過渡期における戦争と革命の問題、(4)変容・再編・危機を特徴とする現代における戦争と革命の問題の四点にかんする特殊歴史的な規定性については、積極的な検討の対象とはなっていない。現代帝国主義の軍事思想、スターリン主義の軍事思想の解明と批判については、(3)、(4)において積極的に展開される。同志諸君が『基本問題』を検討される場合、いささかも混乱することのないよう、以上の構成についてとくに留意されることを希望する。
 もちろん『基本問題』が軍事思想の一般理論をめざすものであるいじょう、その根底に現代帝国主義の軍事思想、スターリン主義の軍事思想にたいする批判が実践的出発点として存在し、それが全体の主張を根底的に規定していることは、いうまでもないところである。また、そのかぎりにおいて『基本問題』は、現代の軍事思想※への批判をなしているといえよう。
 ※新左翼諸潮流のそれへの批判。
 
 ただここであらかじめ確認しておくと、現代の軍事思想の批判、現代プロレタリア革命の軍事思想の構築の作業は、あくまでも反帝国主義・反スターリン主義の世界革命戦略を達成していくプロレタリア階級闘争を基本的基礎とし、その他の手段をもってする継続としておこなわれなくてはならない、ということである。三〇年代の危機を基礎とした中国革命の(民族解放・革命戦争)の発展は、われわれに二重の作業を要求している。ひとつは、三〇年代以後の国際階級闘争の内乱的発展、それを基礎としたプロレタリア革命の軍事綱領の問題について、ドイツ、フランス、スペインの「敗北」の経験、中国、ユーゴスラヴィアの「勝利」の経験を基礎として総括することである。もとよりわれわれは、本国革命と植民地革命の相違を捨象し、機械的に一元化するいっさいの傾向から自己を峻別しなくてはならない。しかし、同時に注意しなくてはならない点は、前者の経験から平和革命を、後者の経験から人民戦争を結論する安易な傾向を批判しなくてはならないということである。両者(スターリン主義の二傾向)に共通する誤りは、政治とその継続としての軍事を統一的に把握するマルクス主義的暴力論の欠如である。換言するならば、政治的目的とその実現の手段としての軍事の統一性を切断し、手段的過程を戦略化する傾向におちいっているのである。したがって、一方では、帝国主義本国における暴力革命論の復権、内乱・内戦――蜂起の準備にかんする戦略路線の探求、他方では、後進国・半植民地における(民族解放・革命戦争)を世界革命戦略のもとに正しく位置づけることである。
 もうひとつは、後進国・半植民地諸国における(民族解放・革命戦争)を後進国革命の主要な闘争形態として積極的に位置づけるとともに、そのスターリン主義的歪曲を正しく解明し、そこからの脱出の道を追求することである。(民族解放・革命戦争)の理論的解明の困難さは、それが通常のように本質的形態(近似的形態)とそのスターリン主義的歪曲形態という構造をもって登場せず、当初よりスターリン主義的歪曲をからませながら登場し発展してきたという経過にある。それゆえ、それをスターリン主義と二重写しし、賛否を論ずる二つの誤った傾向を生みださざるをえない(中国派とカクマル)。われわれは毛沢東の指導のもとに形成された中国の(民族解放・革命戦争)、そのベトナム的な発展を現実的基礎として、そこから(民族解放・革命戦争)のマルクス主義的本質形態とそのスターリン主義的変容形態の二側面を論理的に抽象し、その理論的構築物をもって中国、ベトナムのそれの問題性を突破するという方法論的な手続きをとらなくてはならないのである。もちろん、このような過程は、現実には、国際的局面においても個々の国ぐににおいてもいちじるしい困難をわれわれに強制するであろうし、また、きわめて深刻な党派的闘争への発展を要求されるであろう。しかし、このような課題に正しく勝利することなしには、反帝・反スタ世界革命とその軍事綱領のための闘争は、完全勝利の道をつきすすむことはできないのである。
 
 三 どこから研究すべきか
 
 すでにのべたように『基本問題』の主要な目的は、反帝・反スタのプロレタリア革命の軍事思想の基礎を解明することにある。しかし、同志諸君が『基本問題』を研究する方法としては、全体の通読にふまえたうえで、まずもって「第三章 (1)暴力革命論の基礎」をしっかりと確認し、それを理論的に深化する作業からはじめることが有効であると考える。「第二章 暴力の構造――戦争と社会」は、このような見地からは補論としての意義をもつものとなる。つぎはそのための若干の研究上の手引きである。
 研究上の前提についてまず確認するとしよう。
 第一には、暴力革命論は、プロレタリア革命の本質論をなすものである、という点である。スターリン主義者の種々の平和革命論、カクマルの「一定の段階」論や「敵が身の程を知らずに反撃してきた場合」論などは、プロレタリア革命の本質論を現象論の次元にすりかえるものであり、革命の本質的内容を破壊するものである。もとより暴力革命の思想は、本質的規定性を示す概念であり、革命がどの程度の軍事性をもつか、という現実論上の問題を直接にあつかうものではない。しかし、プロレタリア革命が真の勝利を達成するためには、それがどの程度の軍事的過程を経験するか、という問題にかかわらず、本質的に暴力革命であることを要求されるのであり、全人民の総武装、党の指導のもとでの蜂起の準備と貫徹という課題が現実に遂行されなくてはならないのである。
 第二には、戦争と革命の関連性、その相互の転化の問題、政治と軍事の指導原則の問題について、それを統一的に把握する論理は暴力革命論にある、という点である。帝国主義の戦争、スターリン主義の戦争をプロレタリア世界革命のための革命戦争に転化する闘争の原理的基礎をなすものは、マルクスの暴力革命論である。
 
       【未完――編集部注】