解 題
(1)本書第一巻は、本多書記長が、一九五九年革共同全国委員会の創設者として、『前進』創刊号に歴史的な「創立宣言」を発表して以来、一九七三年初頭に発表した巻頭論文「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」にいたるまでの一四篇の声明・論文を収録している。なかでも巻頭論文は、二重対峙・対カクマル戦争の突入のまっただなかで執筆され、カクマルの小ブル自由主義、経済主義の立場からするレーニン主義の反革命的解体を、あますところなく批判しつくすことをとおして、レーニン主義を現代革命の綱領として全面的に復権したわれわれの綱領的基本文献の意味を持つものである。最高の理論的到達水準を示すものとして、他の論文もこの地点から再度とらえ返されるべき基準としての意義を持つと言えるのである。
最初に各論文のけいさい紙誌、日付をかかげる。
T レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か(『前進』六〇〇号、六〇一号、一九七二年九月一一日、一八日、大巾加筆『共産主義者』二四号、一九七三年一月)
U 革共同全国委員会に結集せよ
1 反帝・反スターリン主義の旗のもと革共同全国委員会に結集せよ(『前進』創刊号、一九五九年九月二〇日)
2 反スターリニズムのたたかい〔田宮テーゼ〕(一九五九年八月)
3 六・四ストとわが同盟のたたかい(一九六〇年七月)
4 共産主義者同盟の破算は何を意味するか(『前進』一五号、一九六〇年九月一五日)
5 すべての革命的共産主義者は革共同全国委員会に結集せよ(『前進』二六号、一九六一年三月二五日)
V 三全総の旗のもとに
1 三全総政治局報告ならびに宣言(『共産主義者』八号、一九六三年六月)
2 三全総と革命的共産主義運動の現段階(『前進』一二〇号、一二一号、一二一号、一九六三年二月四日、二月一一日、二月一八日)
W 中国文化大革命批判
1 毛沢東の過渡期社会論批判(『前進』三三六号、一九六七年六月一二日)
2 中国の危機と日本左翼の危機(『前進』二八九号、二九〇号、二九一号、一九六六年六月二〇日、六月二七日、七月四日)
3 紅衛兵運動のさらけだしたもの(『前進』三〇〇号、一九六六年九月一二日)
4 深刻化する中国社会の危機(『前進』三一六号、一九六七年一月九日)
X 十・八羽田闘争から七〇年代激動へ
1 勝利にむかっての試練――革命的共産主義運動の一〇年とわが同盟のすすむべき道――(『前進』三六五号、一九六八年一月一日)
2 羽田闘争の意義とたたかいの展望(『前進』三五七号、三五九号、一九六七年十月三〇日、十一月一三時)
3 七〇年への道(『共産主義者』一八号一九六八年四月)
4 歴史の分岐点としての六九年(『前進』四一六号、一九六九年一月一日)
(2) 第T部「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」は、レーニン主義を革命の現実性を基軸として、全面的に復権し、カクマルのペテン的解体の論理を完膚なきまでに批判しつくした、著者の代表的労作のひとつである。
かれは、レーニン主義をいかに復権し、いかに革命的にうけつごうとしたのか。
第一には、「レーニン主義革命論を『帝国主義段階におけるプロレタリア革命の普遍的本質論』、いいかえるなら、プロレタリア革命論の特殊段階的な一般理論を確立したものとししてうけとめ、その現代的な発展を追求うるという実践的な立場を徹底的に」(本書七ページ)発展させる立場からであり、第二に、「帝国主義段階論の確立以後、飛躍的に発展したレーニン主義革命論を核心的につかみとり、それをもって以前の理論の実践的問題意識をうけとめ、限界を克服し、その内容豊かな発展を追求する実践的立場を徹底的に」(同八ページ)発展させる立場からであり、第三には、「レーニン主義革命論の決定的核心をなす帝国主義段階論を『資本主義の帝国主義段階におけるプロレタリア革命論の特殊段階的な一般理論』を基礎づけたもの、戦争と革命の時代に生きるプロレタリアートの基本的な時代認識を基礎づけるものとして、現代的内容においてうけとめる実践的立場を徹底的に」(同)発展させる立場からであり、第四に、「レーニン主義革命論を現代革命の基本戦略としての『反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略』、七〇年代革命の戦略的総路線としての『戦後世界体制の危機を反帝・反スタ世界革命へ!』『アジアを反帝・反スタ世界革命の根拠地に!』『沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒!』『たたかうアジア人民と連帯し日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ!』を根底的に基礎づけるものとして発展させる実践的立場を徹底的に」(同九ページ)つらぬく立場からにほかならない。
カクマル反革命は、七二年に刊行された『批判の武器』第二集において、レーニン主義の反革命的改作のための醜悪な努力を集中的におこなった。その反革命的改作の第一の基軸は、レーニン主義革命論の「帝国主義段階におけるプロレタリア革命の特殊段階的な一般理論」としての意義をまっ殺し、レーニン主義革命論をカクマル式「後進国革命論」なるものに歪曲しようとするところにある。反革命的改作の第二の基軸は、レーニンの帝国主義段階論を「戦争と革命の時代」の基本的時代認識としてとらえかえすことを拒否し、カウツキー流の政策的追求の傾向のようなものに歪曲しようとするところにある。反革命的改作の第三の基軸は、プロレタリア独裁論の解体であり、小ブル自由主義の綱領へのすりかえである。反革命的改作の第四の基軸は、レーニンの革命的前衛党組織論を、共産主義を立脚点としたプロレタリアートの指導的革命組織論として理解することを拒否し、共産主義的窮極目標と、その過程的結節環をなすプロレタリア独裁の問題と機械的に切断された合法主義、経済主義の党組織論にレーニンのそれを歪曲しようとするところにある。
著者は、この反革命的改作の基軸の一つひとつの論点にたいして、それぞれ一章をあて、全面的にそのペテン的論理を批判しつくしているのである。しかも重要なことは、その論旨の展開が、積極的にみずからの体系を構築する作業となって実を結んでいることであり、カクマルの卑劣にして、支離滅裂、シドロモドロの反革命的改作のみすぼらしさに比して、著者の論旨の雄大にして壮大な体系、力強さは、読む者をして圧倒せずにはおかないのである。
(3) Uは、一九五九年九月の革共同全国委員会創立宣言にはじまって、一九六一年三月の六〇年ブントの革命的部分との革命的統一にいたる、文字どおり創成期の文書である。創立宣言は、わが国における真の革命党の創立宣言として、簡潔ななかにじつに力強いひびきを発している。2田宮テーゼ(田宮健二は当時の本多書記長の組織名)は、当時の関西派(第四インターナショナル)指導部にたいする反帝・反スターリン主義派の綱領的立脚点をあらわしたテーゼであり、このたたかいが組織的に実を結んで、一九五九年八月三〇日、革共同全国委員会が結成され、1の宣言が発表されたのである。
.黒田寛一は、この過程でなんら指導的役割を果たしえていない。
第一に、一九五九年夏にいたる関西派との分派闘争において、黒田が綱領的立脚点を形成すべく執筆した「革共同――M綱領草案」(Mとは当時の黒田の組織名緑川俊成の頭文字)は、日本帝国主義の評価において日共以下的民族的従属論の立場をとり、日帝打倒を完全に欠如したものであり、トロッキー教条主義、左翼スターリン主義とのたたかいに困難をもたらすいがいの何ものでもない、という本多書記長の批判によって粉砕され、討議資料としての価値もいっさい無し、ということを黒田をふくめて確認し、以後同盟内の記録、資料から排除するという政治的措置がとられたのである。
第二に、太田竜(栗原登一)のわが同盟からの逃亡=一九五八年秋の革共同第一次分裂以降、書記局・編集局を掌握した黒田の、無責任きわまる戦線逃亡、書記局活動の解体である。当時探究派と称した反帝・反スターリン主義派の組織活動の決定的弱さは、全学連の五八年転換を、共産主義者同盟(六〇年ブント、田宮テーゼではCLと呼称)という左翼スターリン主義的、中間主義的段階に固定することを許し、これとの組織的たたかいをおしすすめることを決定的に敗北せしめるとともに、関西派との分派闘争に決定的な困難をもたらしたのである。ちなみに黒田が組織活動から逃亡し、小ブル的生活を送っているあいだに執筆したのが、Tで批判の対象となっている「レーニン『国家と革命』への疑問」にほかならない。
第三に、一九五九年夏の関西派との分裂(革共同第二次分裂)において、反帝・反スターリン主義派の独自の組織的創成を賭けて、大会において理論闘争をたたかいぬき、トロッキー教条主義者との決別をかちとったのは、本多書記長、山村克以下計七名の代議員であり、この七名のなかには、黒田はおろか、こんにち反革命カクマルに籍をおくものは、一名もみあたらない、というのが歴史の真実である。黒田は、O問題(埼玉のスパイOと合作してスターリン主義者の情報を警察に売りこもうとした未遂事件)の政治責任を、当時の関西派指導部西、岡谷、大原=星宮らに追及され、大会の出席権すら奪われ、府中の親の家に庇護を求めて蟄居している、という世にも哀れなありさまであったのであり、黒田は、革共同全国委員会創設の場に招かれて、ただクビをちぢめて片すみに坐っていたにすぎない。そして、全国委員会創設の会議においてなおも、O問題の責任の明確化、卒直な自己批判の要求にたいして、なおも言を左右にしておのれの責任をあいまいにするに終始するという、度しがたい小ブル的倣慢さを示したにとどまっていたのである。
かかる小ブル的随伴者、黒田にたいして、本多書記長こそが、革共同全国委員会の創設者、一貫せる最高指導者として、反帝・反スターリン主義のたたかいをおしすすめ、第二次分裂以降一年にして関西派との力関係を逆転するところにまで、組織を飛躍せしめ、さらに六〇年ブントとの革命的統一を六一年になしとげるにいたるのである。
3、4、5は六〇年ブントの批判、革命的統一のための文書である。六〇年ブントのたたかいの意義は、第一に安保闘争の革命的高揚をきりひらいたこと、第二に反帝・反スターリン主義世界革命の現実性を客観的につきだしたこと、第三に日共党物神の崩壊を最後的につきだしたことにある。だが同時に六〇年ブントは決定的な弱さ、崩壊の必然性をその栄光のうちに内包していた。第一にスターリン主義からの分裂、断絶の自覚のあいまいさ、第二に明確な綱領的立脚点の欠落、綱領的思想的同一性のない「戦略・戦術の党」としての固定化は、戦術左翼への傾向を生みだし、第三に組織論と組織戦術(個々の大衆闘争を組織建設に結びつけていく独自のたたかい)の欠落は、反代々木連合化をもたらし、分解を必然化したのである。
3、4、5は、それぞれの歴史的時点において、鋭く六〇年ブントの革命的批判を展開し、革命的統一への道を力強くおしすすめていった、天才的オルガナイザーとしての本多書記長の面目躍如たる足跡にはかならない。
(4) Vは、ブントとの革命的統一以降、約一年にして、画期的な第三回拡大全国委員総会が開かれた六二年秋の最重要文書である。三全総は、(1)戦闘的労働運動の防衛と創造、(2)地区党組織の建設、(3)統一戦線戦術の強化、(4)以上の任務を遂行するための同盟の革命的飛躍にふさわしい宣伝・煽動の方法の大胆な改作、『前進』『最前線』の質的・量的向上、の四点を提起し、黒田をふくむ満場一致で同盟の決定となったのである。
ところが黒田は、いったん賛成し、閉会の辞においては全面的に賞讃しながらも、しばらくの孤疑遽巡ののち、三全総の全面的否定、非組織的分裂活動を開始し(革共同第三次分裂)、わが同盟からの全面的戦線逃亡をおこない、こんにちのカクマル反革命への転落の道をあゆむにいたるのである。
本多書記長の偉大な歴史的功績は、この第三次分裂に際して、黒田の非革命性――反革命性を鋭く喝破した偉大な決断、黒田=カクマル一派との組織的決別をかけて、革命的共産主義、その党と運動とをうち清め、真に日本革命運動を創造したことにある。
黒田=カクマルの逃亡の本質はなにか。第一に三全総報告に明確に決意されている帝国主義国家権力との革命的対決にたいする恐怖、右翼日和見主義であり、第二に労働戦線における資本、民同との戦闘的・大衆的対決からの逃亡、民同的組合主義への屈服であり、第三に階級闘争のただなかで革命路線を貫徹することの否定であり、第四に党内闘争への恐怖、小陰謀家的、非組織的、サークル主義的な「分派闘争」の組織であり、第五にそれらの結果としてのサークル主義、組合主義的産別党路線である。これらの総体の結果として、こんにち「二つの十一月」に敵対する武装反革命、白色テロリスト、ファシストとしてのカクマルがあるのである。
黒田とその信徒たちが、かかる本質をおしかくすために、いかに歴史を偽造しようとも、歴史の真実がいずれの側にあるか、本書をひもといた人にはあまりにもあきらかであろう。
(5) W中国文化大革命批判は、文化大革命の批判という形をとって、毛沢東思想の歴史的破産を鋭くつきだした一連の論文の集約である。
本多書記長の中国関係の論文の特徴は、第一に徹底したプロレタリア国際主義の視点から問題がたてられており、毛沢東のあらたな装いをこらした一国社会主義理論と平和共存政策にもとづく「世界戦略」、およびそれによる中国社会の危機を、日本帝国主義打倒という日本プロレタリア人民の責務と結合しつつ、批判を展開する、という一貫した実践的観点がつらぬかれていること、第二に中国社会、中国史にかんするふかい造詣と透徹した史観を背景として問題が論じられているがゆえに、論旨がきわめて具体的で、つよい説得力を持っていること、にある。
ML派をはじめとするわが国における毛沢東主義者の没落は、あまりにも急速であったが、ここで展開されている視点は、過渡期政策論、中国社会論をふかめてゆくうえで、こんにちでもきわめて深遠な意義を持っていることは、あきらかである。
中国革命論をさらにふかめたのが「民族解放・革命戦争」の論理であり、これは冒頭のT論文を参照されたい。
なお著者は、カクマルの、過渡期社会をなにか法則的に究明しうるかのような誤まった見解にたいし、意識的に「過渡期政策」という用語を近年使用していた。「社会主義社会論・過渡期政策論」というのがもっとも正確な用語であろう。
(6)X十・八羽田闘争から七〇年代激動へ、は六六年革共同第三回大会を経て、六七年十・八羽田弁天橋のたたかいが、わが同盟中核派の輝かしい歴史をきりひらき、本多書記長を先頭に七〇年安保闘争の偉大な勝利をきりひらいた時期の歴史的文書、指導論文である。
2は十・八羽田闘争の直後の総括と展望をうちだした文章であり、1は羽田闘争にはじまる「激動の七ヶ月」のまっただなか、「第三の羽田」としての佐世保闘争を準備するさなか、一九六八年の新年において、革命的共産主義運動の十年を総括し、日本革命の勝利への跳躍台として七〇年闘争を位置づけた力強い論文である。3は、七〇年闘争の課題を「激動の七ヶ月」の総括のうえにたって全面的に論じつくした力作であり、沖縄奪還闘争の綱領的諸問題がはじめて提起され、まさに本論文によって七〇年闘争を安保=沖縄闘争としてたたかうわが同盟と先進的労働者人民の姿勢がきずかれていったのである。4は六九年の新年にあたって、東大・日大闘争の偉大な革命的高揚、四・二八沖縄奪還闘争の大爆発、第一の十一月を準備した歴史的論文である。周知のとおり、このたたかいの先頭にたった本多書記長は、六九年四月二七日、破防法第四〇条を適用されて逮捕投獄され、わが同盟は、破防法攻撃下におかれ、日本帝国主義国家権力との内乱的対峙の段階に突入したのである。そしてさらにこの激動下において、カクマル反革命は、完全な白色テロリストとしての姿をあらわすにいたるのである。この二重対峙・対カクマル戦争の時期の論文は第二巻に収録される。
いまわれわれが「七・七にうらうちされた七〇年代の十・八」をたたかいとらんとしているとき、本多書記長のこれらの論文は、いまなお新しい生命力をもってわれわれに迫ってくる。本多精神はわれわれの魂である。
一九七五年十一月 前進社出版部