四 歴史の分岐点としての六九年
     革命的共産主義運動のあらたなる飛躍をかけて
 
 歴史的な東大・日大闘争、四・二八沖縄奪還大闘争を前にして、日帝国家権力の弾圧体制強化、カクマルとのきびしいたたかいをつうじて、七〇年闘争の歴史的分岐点としての六九年の指針をうちだした『前進』新年号論文である.
 
 
 一 試練に耐えた六八年―騒乱罪攻撃下における日本階級闘争の永続的高揚―
 
 破防法攻撃のもとで「羽田から佐世保へ」の歴史的展開を準備する、という異常な情勢のなかで新年を迎えた六八年日本階級闘争は、新宿を基軸とした十・二一闘争の大爆発と、これにたいする日本帝国主義国家権力の騒乱罪適用をもってする大弾圧という新段階を生みだしながら、これに一歩もひるむことなく、基地・大学・沖縄闘争の高揚をきりひらくなかで、その幕を閉じた。きたるべき六九年日本階級闘争は、基地・大学・春闘などの諸闘争の永続的発展をおしすすめつつ、その力を総結集して四・二八沖縄闘争、九月佐藤訪米阻止闘争の大爆発をかちとり、七〇年安保闘争にむかっての歴史的分岐点をつくりだすものとなろう。
 六八年日本階級闘争の第一期は、いうまでもなく、羽田をひきついで佐世保・三里塚・王子と文字どおり息もつかせずに展開された「激動の七ヵ月」であった。
 周知のように、日本革命的共産主義運動は、六七年秋二つの羽田を満身の力をこめてたたかいぬくことによって、破防法攻撃をもってする敵権力の赤裸々な弾圧に直面した。後退するのか、それとも不屈のたたかいをもって弾圧をはねかえすのか――問題は厳然としてこうたてられなければならなかった。一五年前、日本共産党は、朝鮮戦争の激化という深刻な情勢のなかで、破防法・騒乱罪の攻撃に直面して後退して以後、一貫して日本帝国主義への屈服の道をあゆみつづけてきたが、この敗北と屈服の道をいままた日本革命的共産主義運動はくりかえすべきなのであろうか。
 回答は明白であった。われわれは、最悪の事態に備えて非合法態勢への準備を開始するとともに大衆闘争の革命的展開をもって日本帝国主義の反動的襲撃をはねかえすことを決意したのであった。もとより、そのことは、五二年当時の日本共産党の大衆不在の民族主義的軍事方針の再現を意味するものではなく、逆に「孤立を恐れぬ断固とした行動の展開をとおして幾百万大衆の獲得」(六七年『前進』新年号)を実現していくものでなければならなかったし、また事実、こうした大衆の化学変化を生みだす客観条件は、国際的にも、国内的にも成熟しはじめていたのであった。
 勝利にむかっての最初の試練は、戒厳令的な弾圧態勢を突破して展開された佐世保エンタープライズ闘争であった。飯田橋――博多――九大――佐世保の道は、異常に長くきびしいものであった。だがこの道を真正面からすすんだ全学連と、これと対応し、これを包んで佐世保闘争の大衆的高揚を準備した反戦青年委員会、労働組合の戦闘的労働者、そして佐世保市民との共同のたたかいは、帝国主義国家権力の恐怖と憎悪にみちた弾圧を無力化するとともに、日本帝国主義の参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化の道に巨大な戦闘的反撃をくわえるものとなったのである。三里塚・王子と息もつかせず展開された全学連・反戦青年委員会を中核とする大衆闘争の戦闘的爆発は七〇年にむかっての日本帝国主義の反動と侵略の道に抵抗する巨大な人民的戦闘性が、日本労働者階級=人民大衆のなかに広く存在していることを経験的に証明したのであった。
 「激動の七ヵ月」を血みどろのたたかいをもってつくりだし、日本階級闘争の質的転換をかちとった決定的契機は、なんぴとも承認するとおり、わが同盟と、それを前衛とする日本革命的共産主義運動であった。社会党=総評、日本共産党を指導部とする既成左翼の反労働者的制動や、構改派、カクマル、解放派、ブントなどの右翼的動揺をのりこえて「激動の七ヵ月」をになった主体的保証こそ、いうまでもなく、わが日本革命的共産主義運動の綱領的立場と政治方針の正しさであり、その指導的中核部隊の軍団としての組織性の強固さにあったのである。
 だが、日本革命的共産主義運動は、単独の力をもって「激動の七ヵ月」の最前線をにないぬくことをとおして、六八年四、五月段階において、二つの側面において重大かつ深刻な困難に直面したのであった。その一つは、長期かつ広範囲にわたる弾圧犠牲者の続出と、それにもとづく学生組織における指導性の弱体化であった。その二つは、「激動の七ヵ月」をとおして労働者階級=人民大衆の大きな層を日本革命的共産主義運動の周囲に結集することに成功しながらも、とくに学生戦線においてその指導性の弱体化も主体的契機としてからむことによって、こうした後方にむかっての政治的影響力の拡大を闘争の中核的部隊にむかっての組織化として十分に集約しきれないという問題であった。
 したがってわが同盟と、それを前衛とする日本革命的共産主義運動は、客観的情勢の永続的高揚とこうした主体的情勢の困難との矛盾を短期的に解決するために、一定の戦術的調整にはいったのであった。すなわち、一方では、「激動の七ヵ月」をかちぬいた革命的管制高地とその思想的正当性を断固として擁護しながら、他方では闘争形態の一定の後退と闘争課題の攻撃的拡大をもって対権力闘争を継続しながら同盟組織の徹底的な再武装と、戦闘的青年労働者、学生の中核的部隊への積極的組織化とをもって再度の戦闘的爆発を準備する任務であった。だが「四月調整」とでもいうべき、このたたかいはけっして容易なものではなかった。それは、一方では、内にむかって「激動の七ヵ月」にたいする右翼的動揺と、その裏返しとしての「四月調整」への「極左」的反発を克服しつつ、同盟指導の弱点の抜本的解決をはかろうとするものであり、他方では、国家権力の大弾圧および日共スターリン主義者の反動的襲撃、そして社民の官僚的しめつけとの闘争はもとより、反戦青年委員会・全学連の内外に形成された右翼ブロックと熾烈なたたかいを展開するなかで達成せねばならなかったところのものであり、まさに二重にして一個のたたかいであった。六・一五、九・一〇、九・二二問題として現象した右翼ブロックによる「革命的左翼と社民翼下の労働者の統一行動」の分断策動とのたたかい、法政、立命館、東大問題などとして緊迫化した日共の暴力的襲撃とのたたかいこそ、四月から九月におよぶ六八年日本階級闘争の第二期の内包する困難のもっとも鋭い表現であったといえよう。
 だが、「四月調整」から「九月の試練」にいたる六ヵ月のたたかいは、「激動の七ヵ月」に優るとも劣らない、別の質をもった試練として、わが同盟とそれを前衛とする日本革命的共産主義運動の強靭な思想的組織的資質を形成する過程となったのである。われわれは、このたたかいのなかで・一方では、板付・北九州山田・呉・美保・三軒屋・伊丹・小牧・小松・北富士・長沼・立川・新宿などをはじめとする安保同盟の諸実体にたいする攻撃的闘争の激発、沖縄渡航制限撤廃闘争のたかまりなど、「激動の七ヵ月」の平準的拡大を基礎として、「安保粉砕・日帝打倒」のスローガンを七〇年にむかっての基本路線として確立し、「基地撤去・軍需輸送阻止・沖純奪還」のたたかいを七〇年にむかっての積極的環として位置づけることに成功するとともに、他方では「革命的左翼と社民との統一戦線戦術」を断固として堅持しつつ、カクマルをも包摂した戦闘的左翼の大統一行動の方向を大胆に提起することによって、右翼ブロックの反労働者的分断策動を階級的に突破する実践的バネをかちとり、秋の大爆発の勝利的基礎をうちかためたのであった。
 六八年日本階級闘争の第三期は、十月における新宿を基軸とした大闘争の爆発であった。
 九月二二日、日本帝国主義国家権力の「羽田以来」といわれた警備を突破してたたかわれた立川基地突入闘争は、カクマルのきわめて凶暴な右翼的分断策動の破産を根底的にあばきだすとともに、十月闘争の戦闘的序曲をたからかにひびかせたのであった。十月八日、同志山崎博昭追悼・羽田闘争一周年・米タン阻止・安保粉砕の旗のもとに日比谷に結集した一万三〇〇〇の青年労働者・学生・農民・市民は中核旗を先頭に大挙して新宿にのりこみ、機動隊の暴力的弾圧を実力をもって粉砕し、六・二六にひきつづいて新宿駅頭を完全に制圧したのであった。こうした新宿米タン闘争の高揚に恐慌した日本帝国主義国家権力は、十・二一新宿闘争の大爆発を未然に弾圧するために、全学連・反戦青年委員会にたいするけたたましい非難を開始するとともに、新宿西口公園(総評)、明治公園(全学連)、日比谷野外音楽堂(反戦青年委員会)の三集会を禁止し、「一般市民」にむかって新宿駅付近に近よらぬよう特別声明を発表し、新宿駅を文字どおり鉄壁をもって防衛する非常処置をとったのである。他方十・八日比谷集会にたいして分裂して破産をあらわにしはじめた右翼ブロックは、カクマル――フロントと解放派に分解しながらも、ともに十・二一新宿闘争を小ブル急進主義と非難し戦列からの脱落をいちじるしくしたのであった。また十・八闘争をともにたたかった戦闘的翼のなかにも新宿闘争への動揺が生まれれはじめた。だが、革命的共産主義運動を中核とする青年労働者、学生は、断固として新宿米タン闘争の革命的路線を堅持し、脱落と動揺をのりこえながら、これらを有機的に吸入するたたかいを推進したのであった。かくして十月二一日、新宿駅構内が機動隊によって制圧される、という文字どおりの戒厳令状態にたいし、全学連、反戦青年委員会・労働組合・市民の一〇万の部隊は一体となって反撃を展開し、逆に、新宿駅構内を完全制圧する大闘争として爆発することをもって、全都・全国を揺がす反戦・反安保のたたかいの頂点をつくりだし、十・八羽田闘争以来の日本階級闘争の新段階を画するものとしたのである。
 もちろん、日本帝国主義国家権力は新宿を頂点として全都全国を揺がした十・二一闘争の大爆発にたいし、一方では、騒乱罪適用をもって大々的な階級的報復をくわえ十・二。闘争の主導的中核となった全学連(秋山勝行委員長)の指導部の徹底的な壊滅をはかりながら、他方では、ブルジョア情報機関を総動員して革命闘争への誹謗中傷の製造を開始し、大衆内部の小ブル的反発を組織せんとする野望を強めはじめているのである。だが、日本帝国主義国家権力がいかにもがこうとも、すでに七〇年安保闘争の大爆発にむかっての歴史的地殻変動ははじまっているのである。まさに、新宿闘争にたいする騒乱罪適用の攻撃は、十・八羽田以来の弾圧にもかかわらず、騒乱罪を適用することなしには鎮圧しえぬ段階にまでたたかいが発展してきてしまったことを権力みずからが承認せざるをえなかったということを意味するものであるが、それは同時に、十一月闘争の永続的高揚に示されるように騒乱罪攻撃によっても日本労働者階級=人民大衆の七〇年にむかってのたかまりを押えつけることができないことを立証せざるをえないものとなっているのである。
 
 六八年日本階級闘争の第四期は、騒乱罪攻撃という異常な情勢のもとで、日本階級闘争の永続的発展をかちとっていった十一月――十二月のたたかいである。まさに、この第四期の諸特徴は、第三期的情勢を前提としつつ六九年日本階級闘争の基本的動向を鋭く予知させるものとなっているのである。その特徴の第一は、十一・七、十一・二八、十二・一三と連締約にたたかいぬかれたところの沖縄奪還闘争の本格的開始である。十一・七首相官邸デモを火柱としてはじまった沖縄奪還闘争は、十一・二八B52墜落抗議デモ、十二・一三沖縄ゼネスト連帯デモとしてうけつがれていったが、それは同時に、社共はもちろんいっさいの戦闘的左翼が沈黙し闘争放棄するという深刻な主体的危機をのりこえるものとして展開されるとともに、B52墜落に沈黙と闘争放棄をもってしかこたええぬいっさいの左翼の沖縄闘争論の破産を四・二八沖縄奪還闘争の爆発にむかって止揚するものとしてたたかいぬかれたのである。
 第二の特徴は、日大、東大を先頭とする大学闘争の永続的発展の開始である。「古田と古田体制の徹底的破壊」をめざす日大闘争の永続的発展は、帝国主義との真向うからの対決をせまるものとして大学闘争の新段階をきりひらいたのである。大学における諸矛盾の解決は、「学生参加」「××路線粉砕」という改良主義的収拾のうちにではなく、労働者階級を革命的主力とする「安保粉砕・日帝打倒」の水路のうちに大学闘争を永続的に発展させることのうちに存在しているのであるが・まさにこうした立場を貫徹しうるかどうか、という問題として日大・東大を先頭とする大学闘争の分岐は設定されようとしているのである。
 第三の特徴は、十一・二二東大・日大支援集会、十一・二四三里塚集会としてかちとられた戦闘的左翼の大統一行動の発展であり、六・一五問題に関連した右翼ブロックの解体と、カクマルの右翼的分断策動の明白なる破産である。こんにち、カクマルによって全国的におこなわれている解放派への暴力的襲撃は、右翼ブロック解体の副産物であるが、それは同時に、カタマルの東大における孤立と凋落、それと軌を一にした右翼的分断策動の破産という二重の危機のすりかえ的対象化いがいのなにものでもないのである。秋山勝行委員長を先頭として羽田以来の苦闘を血みどろとなってになってきた全学連が幾重もの困難な条件のもとで全学連大会の勝利的開催をかちとり、秋の大闘争の教訓をくみつくし、七〇年にむかって金山克巳新委員長を中心とする新指導体制を確立しあらたな前進を開始したことと対比するならば、カクマルの依拠しようとしたものがいかに外在的で脆弱なものであったか、あまりにもあきらかである。
 第四の特徴は、反戦青年委員会を解体せんとする日共、協会太田派の策動の失敗であり、反戦青年委員会の内部における最大の困難をなしていた右翼ブロックの解体にもとづく、反戦青年委員会の戦闘的強化のための努力の多面的な前進である。もちろん、反戦青年委員会にたいする攻撃は、いぜんとして執拗にくりかえされるであろうことはあきらかであるが、十・八以来のたたかいのなかで「反戦派」として結集し、各種の試練に耐えて成長してきた青年労働者は日共スターリン主義者と、これに呼応した右翼社民の「反戦解体」の策動にたいし、いっさいの力を結集して反戦青年・委員会をまもりぬくとともに、羽田以来の反戦青年委員会の苦闘の教訓に積極的にふまえ、その「民同的体制内化」の策動をも克服するたたかいとしてあらたな前進を開始しようとしている。春闘にむかって、四・二八沖縄奪還闘争にむかって、九月佐藤訪米阻止闘争にむかって、したがってまた、七〇年安保闘争にむかって、日本労働者階級の精華である「反戦派」青年労働者の巨大な進撃が、いまや鋼鉄の力をもってはじまろうとしているのである。
 
 二 世界危機の結節点としての七〇年安保闘争
 
 ベトナムにおけるアメリカ帝国主義の軍事的=政治的敗勢は、いまや、なんぴとにとっても疑う余地のないものとなった。世界の専制君主としてアジアに君臨してきたアメリカ帝国主義は、ベトナム人民の英雄的抵抗闘争と、全世界人民の反戦闘争のたかまりのまえに史上最初の敗北の危機に直面しているのである。
 すでに六八年三月二二日のジョンソン声明をもってベトナム侵略戦争の行きづまりを自己暴露したアメリカ帝国主義は、北爆の欺瞞的中止を代償として、北ベトナムを和平交渉のテーブルにひきだし、再度のジュネーブ会談的解決をもって南ベトナムにおける帝国主義的権益を死守せんとする野望を示したのであるが、四月以来の九ヵ月間におよぶ情勢の推移はベトナム全域からのアメリカ帝国主義の敗退という深刻な事態すら具体的日程表にのぼりはじめるところまですすんでしまったのである。しかもアメリカ帝国主義のベトナム支配の動揺は、南朝鮮、タイ、台湾などのベトナム参戦諸国の国内的動揺の深刻化として波及するばかりか、アジアにおける帝国主義支配秩序の全面的な崩壊の危機すら醸成しはじめているのである。
 すでにいくたびとなく主張してきたように、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争は、まずもって、アジアにおける半植民地=後進国支配体制の崩壊的危機にたいする帝国主義戦後世界体制の命運をかけた侵略戦争であるが、それは同時に、(1)ベトナム侵略戦争をテコとしてアメリカ帝国主義の専制的地位を他の帝国主義列強に強制し、(2)中ソをはじめとするスターリン主義陣営の対応の無力さをあばきだし、(3)かくして、ベトナム参戦同化を基軸にアジア半植民地=後進国体制の暴力的再編成を達成し、インド・中近東・中南米における巨大な植民地主義的収奪の権益を維持しようとするものであった。だが、ベトナムにおけるアメリカ帝国主義の敗退的危機の深刻化は、ベトナム侵略戦争を特徴づけていた諸条件そのものの喪失を意味せざるをえないのである。したがって、いまや、ベトナム侵略戦争は、帝国主義戦後世界体制の矛盾の爆発点であるとともに、より破局的な矛盾の爆発にむかっての導火線としての性格をますます色濃くしはじめているのである。
 ニクソン新政権の成立は、まさに、ドル危機とベトナム敗勢、黒人・反戦・大学問題の深刻化、消費者物価上昇と国際収支不安、民主党の分解として現象した三〇年代以来の伝統的内外政策の破産への反発を基礎とするものであり、当然その抜本的解決を任務としなければならないのであるが、にもかかわらず、帝国主義の戦後的規定性に制約されて、その政策的選択の余地はきわめてせばめられており、ジョンソン政権の遺産は、危機にたつアメリカ帝国主義と不可分の歴史的遺産としてニクソン新政権のうえに加重されざるをえないのである。
 もちろん、純抽象的に問題を設定するならば、アメリカ帝国主義は、(1)ドルの平価切下げ=金価格の引上げをもって国際通貨の準備国としての矛盾の集中を回避し、(2)「世界の警察官」としての役割を棄権することの二処置をもって国内均衡をはかる、ということもまったく不可能であるとはいえないであろう。だが、こうした政策の採用は、不可避的に、帝国主義戦後世界体制の二つの柱をなしてきたドル通貨体制と集団安全保障体制の根底的崩壊という異常な事態の到来を覚悟したということを意味するのであり、容易にとりあげうるところのものではないのである。したがって、ニクソン新政権のまえには、現実的には、(1)国内政策的にはニュー・ディール以来のケインズ的財政政策の、びほう的手直しをもってアメリカ経済の矛盾の激発に対処しつつ、国対外政策的には、帝国主義戦後世界体制におけるアメリカの過重な負担を軽減すること、すなわち、ドルの位置にかんする解決困難な検討の開始と、いわゆる自主防衛をスローガンとした日独両国との同盟関係の再強化をもってする防衛負担の軽減という方向しか残されていないのである。
 周知のように、帝国主義の戦後世界体制は、アメリカ帝国主義の圧倒的な経済的=軍事的力量を基礎としたものであり、ドル・ポンド体制と、いわゆる集団安全保障体制を両軸として成立してきたものであった。だが、ドル危機、ベトナム敗勢をはじめとするアメリカ帝国主義の専制的地位の動揺はドル・ポンド通貨体制の根底的動揺を生みだしたばかりか、いわゆる集団安全保障体制そのものの根底的動揺を不可避ならしめているのである。アメリカ帝国主義の「世界の専制君主」としての地位の動揺にもかかわらず、アメリカ帝国主義にかわって「世界の警察官」としての役割を負担しうる帝国主義が存在しない、というジレンマこそ、戦後帝国主義の危機のきわめて異常な性格のあらわれであるといえよう。
 純抽象的な設定ならばともかく、具体的問題としてアメリカ帝国主義が「世界の警察官」としての役割を一方的に放棄してアメリカ大陸への「孤立主義」をとるような事態の出現は、帝国主義の世界支配の全面的な後退を意味しているのであり、それは早晩ラテン・アメリカの喪失にまで発展することは明白である。したがって、危機にたつアメリカ帝国主義にとって唯一可能な方策は、ヨーロッパにおいて西ドイツ帝国主義との同盟を基軸としてNATOの再編成を達成するとともに、アジアにあっては、ベトナム参戦諸国の反動的強化を維持しつつ、日米同盟の再強化を基軸として帝国主義支配秩序の再編成を達成しようとするものであり、まさに、それは、反動枢軸のより破局的な再現を示唆しているのである。
 アメリカ帝国主義は、アジア半植民地=後進国支配体制の要の部分において敗退の危機をふかめながら、日本帝国主義をアジア人民支配のより積極的で、より凶暴な同盟国にひきこむことをもってアジア半植民地=後進国支配体制の反動的再編成を達成し、あわせてアジア防衛の負担を軽減しようとしているのであるが、それは同時に、アジアにおける帝国主義支配秩序の全面的崩壊の危機の到来として結果せざるをえないことからして、たえず不徹底な収拾策の破産と、その結果としての軍事的制圧の絶望的試み→危機のより深刻な拡大のジグザグをくりかえすものとならざるをえないのである。
 このようなアジア帝国主義支配体制の異常な危機のふかまりのなかで、日本帝国主義は、七〇年における安保再検討期にたいし「自動延長の方向をもって対処」しようとする意図を強めているようである。すなわち、日本帝国主義と、その政治委員会としての佐藤政府は、日米同盟政策の堅持を日帝の延命の唯一無二の基本的世界政策として確認し、安保粉砕をめざす勢力にたいしては冷酷無比な鎮圧の態勢をかためながらも、危機にたつアジア情勢の反動的再編成の方向にかんしては、積極的な方策を何ひとつもちあわせていないのである。日本帝国主義の軍事力強化の問題にかんしても、アメリカ帝国主義の「自主防衛強化」の要請にどう対処するか、というきわめて防衛的な姿勢から出発しているのである。エコノミック・アニマルとして世界第三位の生産力を誇っているとはいえ、日米同盟政策の堅持という当然の確認を除くならば、世外政策どころかアジア政策についてすらなんの定見もないのである。まさに、アジアにおける帝国主義支配体制の脆弱性は、日本帝国主義のこのような政治と経済の不均衡的性格によって補足されているのである。
 だが、このことは、日本帝国主義が七〇年問題を主として国内世論との対応という消極的姿勢のみでのりきることを意味するであろうか。たしかに、国会対策という側面でみるならば、佐藤政府は反対勢力への緩衝策として「自動延長」という消極的方法をもって七〇年に対処する可能性はきわめて強い、といってよいであろう。しかしながら、世界情勢、とりわけ、アジアにおける帝国主義支配秩序の崩壊的危機のふかまりのなかで、アメリカ帝国主義が日米同盟の再強化=「アジアの自主防衛強化」という態様をもって日本帝国主義の積極的姿勢を要請してくるであろうこともまた、疑う余地はないのである。しかも、国内的には、七〇年にむかってたかまりくる安保粉砕のたたかいへの考慮から「自動延長」的方策を追求しなければならないのである。まさに、佐藤政府は、アメリカ帝国主義のアジア政策の破産と、それにたいするニクソン新政権の対応の不安定性のまえに度しがたい混乱をふかめながら、究極的には、アメリカ帝国主義のアジア支配の泥沼的ふかみにふみこんでいく、という破局的な対応を示すことになるであろう。
 もともと、日本帝国主義の現状は、けっして楽観的なものではないのである。たしかに、日本経済は六二年――六五年にわたる構造的不況を突破して再度の「高度成長期」に入ったかにみえている。だがその内実は、公債政策と対米輸出増大という他律的要因にもとづいたものであり、むしろ「成長」そのものが日本経済の赤信号を意味しているとさえいいうるものなのである。しかも、日本経済の景気が対米輸出に支えられているということは、アメリカ経済が「保護貿易主義=デフレ政策」を基調とする方向に転じた場合にはその影響が直接に日本経済に波及する構造になってしまっているといえるのである。日本帝国主義は、アメリカ帝国主義がドル平価再検討の方向を進もうと、あるいは、保護貿易主義=デフレ政策の方向にすすもうと、その影響をきわめて深刻にうけざるをえないのであり、この面からも、対米関係は矛盾の鋭い導火線となっているのである。
 まさに、七〇年問題として焦点化してきた日米安保同盟の再強化は、アジアにおける帝国主義の全面的な敗退の危機を、日米同盟を枢軸とした超反動的なまきかえしをもって軍事的=経済的に制圧しようとするものであり、まさに、帝国主義戦後世界体制の存亡をかけた攻撃なのである。したがって、アジア情勢の基本動向は、鋭く日本階級闘争のうえに決せられることとなるのである。佐藤三選内閣が、自民党の超反動的グループの素心会を中核として組織されたという事実は、七〇年安保に賭ける日本帝国主義の異常な決意を示すいがいの何ものでもないのである。
 すでにのべたように日本帝国主義にとって、危機にたつアジアの帝国主義支配秩序を抜本的に解決する積極的政策は何ひとつ存在していないのであるが、それゆえにこそ、日米安保同盟政策を堅持するという消極的姿勢は、絶対に妥協することの許されない不退転かつ唯一の積極的生命線となるのであり、国内政策的には日本帝国主義の体制的危機をかけた非妥協的対決に転化せざるをえないのである。そこには、中間的改良の余地は、いささかも存在しえないのである。
 このような内外する情勢の深刻化のなかで、素心会を中核とする佐藤政府を編成した日本帝国主義は、一方では、治安警備態勢の飛躍的な増強を推進するとともに、民社党=同盟系労組を、「安保防衛」の先兵として動員しはじめたばかりでなく、「安保の段階的解消」を唱える公明党をまで「安保粉砕」反対のもとに吸引しようと着々とした準備をすすめはじめている。
 他方、安保反対を主張する社会党=総評、日本共産党などの既成左翼指導部は、七〇年にむかう情勢の流れのなかで、「安保廃棄」(社会党)、「安保終了」(共産党)のスローガンをいちおう提起しているものの、現実には、日本帝国主義への綱領的屈服を日ましに強めており、安保改廃の問題をただただ議会内の手続きに矮小化してしまっているのである。日本帝国主義の平和的発展を存立条件として成育してきた既成左翼指導部には、七〇年安保闘争の基本的動向が、安保条約の再検討という議会的形式のうちにあるのではなく、日本帝国主義の日米安保同盟政策の存亡という現実のうちにあること、したがってまた、安保条約をめぐる国会内の論争が、院外における安保粉砕・日帝打倒のたたかいを促進し、それと結合することをとおしてのみ積極的たりうることがまったく理解しえないのである。まさに、世界危機の結節点としての七〇年安保闘争は安保反対勢力の主体的危機を媒介として、その危機的様相を未然のうちに収拾する可能性を残しているのである。
 だが、卒直にいって、七〇年安保闘争を自民党――民社党を基軸とする日本的保守勢力と、社会党――共産党を基軸とする日本的革新勢力との対決として想定する時代はすでに過去のものになろうとしている。六八年国際階級闘争を春の嵐のようにおそった既成左翼支配の崩壊=新しい革命的左翼の台頭はわが日本階級闘争のうちに最強の主体的根拠をみいだしているのである。わが同盟と、それを前衛とする革命的共産主義運動の一〇年をこえるたたかいは、学生戦線の最前線に不抜の戦闘的拠点を確立したばかりか、羽田以来の激動のなかで労働運動の中枢においても既成左翼指導部の伝統的支配をゆるがすたたかいを勝利的におしすすめたのである。
 民社党=同盟ならびにIMF・JC系労働組合の支配する民間産業の内部にあっても、三葛重工、電力、海員などにおける左派の進出にみられるように、民社=労働貴族の伝統的支配の亀裂化――空洞化にそって左にむかいはじめた労働者の戦闘的層は、既成左翼をとびこえて一挙に「反戦派」――革命的左翼への水路に流れこみはじめているのである。まさに、七〇年安保闘争は、六〇年において破産を示した日本的政治闘争をのりこえた地点において開始されているのである。
 佐藤政府の強さは、その政治的姿勢の非妥協性、その政治的路線の非選択性にあるのであり、それゆえその本質とするところのものは、日本帝国主義の体制的危機への階級的使命観であって、けつして、その逆ではないのである。したがって、日本帝国主義の日米同盟政策の存亡をめぐつて展開される七〇年の激突は、不可避的に、帝国主義体制の存亡をかけた対決に耐えうる両勢力のあいだで最後の決着をつけるところまで発展せざるをえないであろう。
 
 三 歴史の分岐点としての六九年
 
 七〇年安保闘争の規模と様相は、疑いもなく六九年日本階級闘争の動向によって決定されるであろう。七〇年安保闘争と、それを突破口とする日本階級闘争の「一〇年型動乱」期をきりひらく直接の階梯は、すでに、六九年春闘、三里塚、大学闘争→四月沖縄、九月訪米という具体的日程表をもって、日本労働者階級=人民大衆のまえに設定されている。わが同盟とそれを前衛とする革命的共産主義運動は、たかまりゆく労働者階級=人民大衆の最前線に断固としてたち、六九年日本階級闘争の具体的日程表を勝利的に一つひとつうちぬいていくことをとおして、七〇年安保闘争の勝利のための管制高地を築きあげていかねばならないのである。
 この政治的過程のなかでわれわれは、革命的共産主義運動の総力を傾注して個別闘争の血みどろの勝利をきりひらくとともに、逆に、こうした諸闘争をとおして革命的共産主義運動の主休的担い手を大量的につくりだし、大量的に鍛えあげ、革命党の決定的飛躍をかちとっていくことに成功しうるかどうか――という党創成の試練をも積極的に解決していかねばならないのである。
 日本帝国主義国家権力の「秩序か、混乱か」「祖国防衛か、亡国か」という体制的危機をかけた挑戦にたいし、日本労働者階級=人民大衆のたたかいの最前線に、いまこそ「安保粉砕・日帝打倒」の旗が高々とかかげられるべきときである。この革命的旗印に反対することは、安保を窮極において許すことを意味している。大衆運動と革命党の区別と連関なるものは、労働者階級=人民大衆と革命党との相互に媒介的な過程の組織的規定性を問題としたものであって、スローガンの思想的・綱領的・政治的水準の具体的区別を示すものではないのである。カクマルのように「革命主義反対」の名のもとに「安保粉砕・日帝打倒」のスローガンに反対することは、大衆と革命のあいだにい万里の長城を築くものであり、実践的には「日本の安全か、日本の亡国か」という帝国主義者の脅迫のまえに屈服せざるをえないところのものなのである。われわれは、三歳の童児を革命党の成員に組織しようとはしないが、三歳の童児にまで「安保粉砕・日帝打倒」のスローガンが浸透することをいささかも恐れる必要はないのである。
 おそらく六九年日本階級闘争は戦後日本階級闘争史上かつて例をみないようなきびしい反動的弾圧のなかで血みどろのたたかいを展開するものとなるであろう。敵権力は十・八羽田以来の激動のなかで、文字どおり権力者の立場から「恐るべき反逆者」と「恐るるにたらない反逆者」とを鋭敏に識別し、「恐るべき反逆者」のうえに憎悪にみちた弾圧を集中してきたのである。十・二一新宿米タン闘争、十一・七沖縄奪還闘争に関連して中核派の学生諸君のうえに集中した日本帝国主義国軍権力の報復は、まさに、敵階級の恐怖にみちた憎悪の正当きわまる表現というほかはないのである。だが、われわれは、支配階級から「恐るべき反逆者」として徹底的に憎悪されようとも、七〇年にむかっての前進を断じて回避することはないであろう。敵階級と同じく、労働者階級=人民大衆もまた、民衆の立場から「真の革命派」と「口舌の徒」とをきびしく見分け、「真の革命派」のあゆんだ道をより大胆に、より強力につきすすむであろう。
 六九年日本階級闘争は、帝国主義的秩序のうちに自己の勢力の増大と維持をはかろうとしてきた既成左翼指導部と、帝国主義的秩序の「破壊と混乱」のうちに自己の生命力の充足と飛躍をみいだす労働者階級=人民大衆とのあいだに、冷酷なる衝突と分裂とを全社会的にうみだしながら進展するであろう。
 歴史の深部において進行するこの衝突と分裂を自己の実践行為のうちに貫徹しうるものだけが、歴史的分岐点としての六九年日本階級闘争において真実の勝利を準備しうるのである。
 日本列島をゆるがす沖縄奪還の火柱をもって、安保粉砕・日帝打倒をめざす七〇年日本階級闘争の革命的発展の道を照らしだすこと――一九六九年の新年にあたって、われわれ共同の決意は鮮明である。
            (『前進』四一六号、六九年一月六日 に掲載)