三 七〇年への道
   激動の七ヵ月の教訓をふまえ、安保粉砕・日帝打倒へ闘いの戦列をうちかためよ
 
 激動の七ヵ月の教訓の全面的総括のうえにたって、安保粉砕・日帝打倒の戦略的総路線の提起と内容展開を全面的になしとげ、わが同盟の、そしてすべての先進的労働者人民の七〇年闘争への思想的武装に重大な寄与をなした綱領的文献である。とくに七〇年闘争の中軸的課題として沖縄奪還闘争の綱領的・戦略的提起をはじめておこなった点でも、重要である。
 
 
  はじめに
 
  第一章 激動の七ヵ月のきりひらいた地平とわが同盟のたたかい
 
 (一)七〇年闘争の革命的爆発への展望をきりひらく/(二)闘いは密集した反革命をうちたおしてはじめて前進した/(三)闘いはいっさいの日和見主義的翼との非妥協的な分裂をとおして進行した/(四)革命的労働者党のための闘いの前進
 
  第二章 世界危機の深化=戦後帝国主義世界体制の動揺――七〇年闘争の革命的爆発を規定する世界史的条件(1)
 (一)ベトナム侵略戦争の行きづまりとアメリカ帝国主義の絶望的な反動攻勢の激化/(二)スターリン主義の歴史的破産の深刻化/(三)帝国主義諸国における階級闘争の激動/(四)現代帝国主義の危機の異常な世界史的特質
 
 第三章 世界危機の焦点=アジアにおける半植民地・後進国支配体制の動揺とその反動的再編成――七〇年闘争の革命的爆発を規定する世界史的条件(2)
 (一)アジア半植民地・後進国支配体制の超軍事的性格とその破綻(@日帝の軍事的敗北と危機の焦点としてのアジア/Aアメリカ帝国主義のアジア支配の軍事的性格/Bベトナム侵略戦争の行きづまりとアジア太平洋諸国の反動的再編成)/(二)日米同盟の再強化を基軸とする日本帝国主義の反動的登場(@日本帝国主義の戦後的再建の特質/A日本帝国主義の構造的矛盾とその露呈/B対外膨脹と日米同盟)/(三)沖縄解放闘争の綱領的諸問題――沖縄の永久核基地化反対、本土復帰・基地撤去(@帝国主義戦争の歴史的産物/A日米同盟の矛盾と犠牲の集中点/B参戦国化と核武装の最前線/C沖縄の永久核基地化反対、本土復帰・基地撤去)
 
 第四章 日本帝国主義打倒・七〇年安保粉砕へのたたかいの戦列をうち固めよう
 
 
 はじめに
 
七〇年にむかっての巨大な歴史的うねりのたかまりのなかで、わが革命的共産主義運動は、労働者階級=人民大衆の主導的中核として羽田、佐世保、三里塚、王子、沖縄を基軸とする「激動の七ヵ月」をたたかい、まさに「勝利にむかっての試練」としてそれに耐えぬくことをとおして、七〇年安保闘争の革命的爆発と、それを前衛的にになうべき革命的労働者党の創成のための不抜の政治的管制高地を築きあげたのであった。
 こんにち、わが革命的共産主義運動と、それを主導的中核とする労働者階級=人民大衆は、激動の七ヵ月の経験と教訓をふみかため、さらに、あらたなる巨大な革命的激動にむかって、自己の戦列を強化し拡大していくために、激動の七ヵ月に優るとも劣らぬ決意をもって前進を開始した。血みどろのたたかいをとおしてかちとった政治的管制高地を積極的に擁護し発展させつつ、七〇年安保闘争の革命的爆発にむかってわが同盟と労働者階級=人民大衆との戦闘的きずなをいっそう強く、いっそう広くはりめぐらしていくこと――これこそ、日本革命的共産主義運動が当面する重大な政治的課題である。
 激動の七ヵ月の試練に耐ええず、そこから日和見主義的に逃亡していった諸潮流は、激動の七ヵ月の清算のうえに右翼的保全の道をたどるか(構改派、解放派、カクマル)、あるいは、激動の七ヵ月をたたかいえなかった引け目から「武装闘争」なるものの漫画的再現に腐心するか(関西ブント)して右往左往している。だが、こんにち、労働者階級=人民大衆の革命的前衛にとって切実な課題は、激動の七ヵ月の清算でも、その漫画的再現でもなく、まさに、激動の七ヵ月の経験と教訓を七〇年安保闘争の革命的爆発にむかって組織的に媒介していくことでなければならない。
 われわれ革命的共産主義者は、日本全土の侵略基地化の攻撃と、これにたいする階級的=全人民的反撃のたかまりのなかで、日米同盟の矛盾の集約点にたいし選好的な攻撃をくわえ、局地的、部分的に敵味方の力関係を逆転させ、諸闘争の激発をとおして闘争拠点の多面的構築と、同盟建設の飛躍的強化とを徹底的に達成させながら、安保粉砕・日本帝国主義打倒にむかって七〇年安保闘争の革命的爆発を具体的に準備していくのであるが、そのためにも、七〇年にむかってのわれわれの道をいっそう明確につかみとることが重要である。以下は、そのための準備的覚え書いがいのなにものでもない。
 
 第一章 激動の七ヵ月のきりひらいた地平とわが同盟の闘い
 
   七〇年闘争の革命的爆発への展望をきりひらく
 
 激動の七ヵ月をたたかいぬき、さらにあらたなる革命的激動にむかって巨大な前進を開始しつつあるこんにち、われわれがまず第一に確認しなければならない点は、十・八羽田闘争を転機とする日本階級闘争の血みどろの展開をとおして、参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化の攻撃にたいし階級的=全人民的反撃の痛打がくわえられたこと、かくして、七〇年にむかっての日本帝国主義の基本路線に決定的動揺をもたらし、日米安保同盟に特有な世界史的矛盾を鋭くあばきだしながら、七〇年安保再強化にたいする階級的・全人民的決起=七〇年闘争の革命的爆発の展望が確信もあらたにきりひらかれたことにある。
 昨年九月、佐藤政府が一連の外遊政策を実行にうつしはじめたとき、わが革命的共産主義運動は、回避することの許されぬ具体的な階級的選択に直面した。すなわち、日本帝国主義の参戦国化への攻撃・佐藤首相のベトナム訪問を実力で阻止するたたかいの道を選ぶのか、それとも、かけ声だけの反対運動でお茶をにごし事実上の屈服の道を歩むのか、と。われわれは、一瞬のとまどいもなく前者の道をとった。
 いうまでもなく、南ベトナム訪問を頂点とする佐藤首相のアジア太平洋諸国の歴訪は、ベトナム人民の英雄的抵抗闘争とドル危機のまえに窮地にたったアメリカ帝国主義および、それと同盟する日本帝国主義が、日米安保同盟を基軸として、アジアにおける半植民地=後進国支配体制の動揺を軍事的=暴力的に再編成するために、日本の参戦国化と核武装の道をいっそう強力に推進しようとしたものであり、したがってまた、戦争と侵略の道に照応した国内政治支配の反動化の道を凶暴に準備するものであった。
 だが、十月八日、羽田弁天橋を中核として展開された佐藤訪ベト実力阻止のたたかいは、参戦国化と核武装の道をあゆむ日本帝国主義の野望に決定的痛打を与えるとともに、安保敗北以後の日本階級闘争の重大なる転機をもたらすものとなった。全学連主流派の学生諸君は、武装警官隊の凶暴きわまる弾圧にたいし、プラカードと石をもって阻止線を実力で粉砕し、占拠した警備車を先頭に空港内への突入闘争を果敢にたたかいぬいた。
 青空に雷鳴がとどろいたような社会的衝撃のなかで、国家権力とブルジョア的報道機関は、全学連の「絶望的な暴力行為」にたいし弾圧と非難をくわえ、これに呼応して日本共産党が羽田闘争を「国家権力と反革命勢力との衝突」として誹謗をくりかえしたのみならず、「革命的左翼」を自称するカクマルの諸君までが「悪名高いブハーリンの電撃的攻勢論の再版」などという悪罵をなげかけて羽田の戦列から逃亡した。だが、国家権力やブルジョア的報道機関が、どのような弾圧や謀略をくわえようと、また、日共やカクマルが運動の背後からどのような誹謗や妨害をくりかえそうとも、幾百万の労働者階級=人民大衆は、その階級的深部において羽田の意味をしっかりとうけとめていった。
 きわめて困難な条件のもとで第一、第二の羽田をたたかいぬいた青年労働者たちは、全学連のたたかいと連帯して自己の戦列を飛躍的にうち固めるとともに、反戦闘争の成果を労働者階級の共同の課題に還流させ、労働組合内の官僚指導を下からゆるがせていった。また、砂川、三里塚・芝山、忍草、福島、沼田など、帝国主義の強制土地取上げ=生活破壊とたたかう農民たちは、日共の日和見主義をはねのけて羽田のたたかいとの結合を力強く追求していった。全学連の羽田のたたかいは、反戦青年委員会を中核とする労働者や、反対同盟に結集する農民を基軸に直接の組織的=政治的影響を拡大していったのみならず、国家権力とブルジョア報道機関の弾圧や謀略をこえて、その血みどろのたたかいをもって労働者階級=人民大衆のきわめて重層的な部分に深刻な影をなげかけていったのであった。
 エンタープライズ寄港に反対する佐世保のたたかいから三里塚、王子のたたかいにいたる六八年初頭の連続的な激動の過程こそ、幾百万の労働者階級=人民大衆の深部でおこっている多層的な変化をきわめて劇的に表現するものであった。佐世保、三里塚、王子の激動を主導的にきりひらいたものが、中核派を先頭とする全学連の学生たち、反戦青年委員会の旗のもとに結集した青年労働者、そして、地元反対同盟の農民、王子野戦病院に反対する地元住民のたたかいなどにあったことはいうまでもない。だが、同時に着目しなければならないことは、全学連や反戦青年委員会の血みどろの闘争が、地元の農民同盟や住民組織とのあいだに固い連帯をつくりだしただけではなく、それまで反対運動に参加してこなかった巨大な層の内部に一挙的な変化をもたらしたという点である。佐世保で現出した局地的な階級的=全人民的決起は、成田市民のあいだに根ぶかい反応をつくりだしながら、ついに、王子闘争の局地的爆発としてうけつがれた。佐世保で石を握りしめた「市民」は、王子では全学連に血の弾圧をくわえる武装警官隊にむかって石を投げる変化を示した。
 こんにち、参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化を阻止し、沖縄の永久核基地化反対、本土復帰・基地撤去を要求し、安保粉砕――日帝打倒をめざすたたかいの炎は全国にもえひろがりはじめた。嘉手納基地B52常駐とたたかう沖縄県民を先頭に、北九州市(山田弾薬庫)で、福岡市(板付飛行場)で、広島呉市(黄幡弾薬庫)で、大阪(伊丹飛行場)で、横須賀(軍港)で、相模原市、横浜市(電波規制)で、横田(米軍飛行場)で、朝霞(米軍基地)で、北富士(演習場)で新島(試射場)で、そして、横田基地から東海道線――山陽線を経て北九州にいたる各線(米軍兵姑輸送)で、いまや、日本全土の基地化を阻止するたたかいが、中核旗を先頭につぎつぎとまきおこりはじめたのである。また、日本労働運動の中核をなす国鉄労働者は、このような反戦・反基地闘争の全日本的なたかまりのなかで、米タン阻止の実力闘争にたちあがり、七〇年闘争の重大な階級的橋頭堡を築きあげていったのである。
 こうした政治的変化のなかで、日本帝国主義の政治委員会の主流をなす佐藤――福田体制は、昨年来の政治プランの全面的な渋滞と動揺にみまわれており、日米安保同盟に特有な矛盾のけいれん的な爆発の不安のまえに、「安保自動延長」論など一定の政治的後退を示しながら、つぎの攻撃の機をねらうことを余儀なくされたのである。まさに、羽田、佐世保、三里塚、王子、沖縄を基軸とする激動の七ヵ月は、全土基地化阻止――安保粉砕のたたかいの激発として深刻な政治的動揺をもたらしはじめているが、それは、日米安保同盟にたいする幾百万の日本労働者階級=人民大衆の根ぶかい反撃の契機を示す氷山の一角であり、それゆえにこそ、その個別的な闘争の一つひとつが統一されたものとして全国の労働者人民のこころのうちに強烈な感動をもってうけとめられていくことが可能となるのである。
 
  二 闘いは密集した反革命をうちたおしてはじめて前進した
 
 激動の七ヵ月をたたかいぬき、さらにあらたなる革命的激動にむかって巨大な前進を開始しつつあるこんにち、われわれが第二に確認しなければならない点は、十・八羽田闘争以来の日本階級闘争の激動的展開と、幾百万の労働者階級=人民大衆の七〇年闘争にむかっての階級的=全人民的決起の展望とが、まさに、密集した強力な反革命を生みだし、その敵をうちたおすことをとおしてはじめてきりひらかれたことである。
 すでにみたように、全学連と反戦青年委員会の中核部隊は、日本帝国主義の参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化の攻撃にたいし決定的痛打をくわえ、七〇年にむかっての日本帝国主義の基本政策にたいし深刻な動揺を与えたのみならず、このたたかいをとおして、幾百万の労働者階級=人民大衆を七〇年安保闘争の革命的爆発=日本帝国主義打倒の展望にむかって大きく方向転位させた。いうまでもなく、幾百万の労働者階級=人民大衆が全学連のたたかいに熱狂的な支持を与え、武装警官隊の凶暴な弾圧に激しい非難をくわえはじめるという重大な政治的変化の根底には、日本帝国主義の搾取と収奪、侵略と反動の攻撃の耐えがたいまでの強まりにたいする不満と怒りの累積がよこたわっている。日本帝国主義の体制的危機のふかまりは、ベトナム侵略戦争を爆発点とし導火線とする戦後帝国主義世界体制の根底的動揺のふかまりと結合しつつ、日米安保同盟の強盗的再編成をめぐつて解決しがたい矛盾を成熟させている。沖縄の永久核基地化=日本全土基地化の攻撃と、これにたいする労働者階級=人民大衆の不満と抵抗の増大は、日米同盟に特有な矛盾の一端を、したがってまた、日本帝国主義の基本的世界政策のもつ構造的脆弱性を鋭くあばきだしながら、安保同盟粉砕・日本帝国主義打倒にむかって労働者階級=人民大衆の政治的自覚をいちじるしい速度で強めている。
 だが、労働者階級=人民大衆のあいだにどんなに反撃の契機が累積していようと、また、帝国主義の攻撃がどんなに耐えがたいものであろうと、それだけではただちに闘争の大爆発に転化しうるものではない。王子闘争の過程がはっきり示しているように、矛盾がより深刻であればあるほど解決の道はより根底的でなければならないのであり、したがってまた、改良主義的方法(たとえば移転闘争)では、巨大な国家権力の反動のまえにかえって無力感と敗北主義を増大させざるをえないのであり、当然それは、地域住民の基本をなす労働者階級=人民大衆を根底から決起させていくことはできない。ただ、安保同盟の革命的粉砕=日本帝国主義打倒の立場にたった基地撤去の非妥協的闘争のみが、そして、国家権力の凶暴な弾圧と反動攻撃に屈せぬ血みどろのたたかいのみが、参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化の攻撃にたいし苦闘する先進的部分にかぎりない激励を与え、前進の条件をもたらしたのみならず、いまだ闘争の水路に包摂されていない巨万の地域住民に電撃的な政治的変化を与え、闘争の階級的=全人民的爆発を根底的に準備するものとなったのである。王子、北九州、福岡、呉、新宿、伊丹と連続的に爆発した全土基地化とのたたかいの発展は、まずもって、その個別の闘争において全学連、反戦青年委員会を中核とする先進的部隊が弾圧をも恐れず断固として闘争に決起したことを起爆力としているのであり、しかも、その根底には、十・八羽田を転機とする日本階級闘争の激動の七ヵ月と、それによって形成された労働者階級=人民大衆の重大な政治的変化、そして、全学連、反戦青年委員会のたたかいをとおして電撃的に思想化された安保粉砕・日帝打倒の展望が、個々の闘争の一つひとつを統一的に結びつけ、相互に強めあうものとして展開されているのである。
 したがって、国家権力の弾圧と政治反動が全学連、反戦青年委員会を中核とする先進部隊と、その前衛としての革命的共産主義運動のうえに集中的にくわえられたことは、まったく当然というほかはない。国家権力は羽田、佐世保、三里塚、王子、沖縄の激動の七ヵ月にたいし山崎博昭同志虐殺をはじめ流血の弾圧をほしいままにしたばかりでなく、二〇〇〇名をこえる逮捕、一五〇〇万円におよぶ保釈金、数かぎりない負傷者、テレビ、新聞などブルジョア報道機関を利用した思想謀略と非難煽動などをもって運動の壊滅的鎮圧をはかり、ついには、破防法・騒乱罪の適用をもって組織的中枢の一挙的壊滅をすら狙ってきたのである。だが、わが同盟と、それを革命的前衛とする労働者、学生、農民は、一方では、きたるべき破防法攻撃にたいしいっさいの組織的準備を進行させるとともに、他方では、佐世保、三里塚、王子、沖縄の激闘を非妥協的にたたかいぬき、逆に、日本帝国主義の七〇年にむかっての基本路線に決定的動揺を与え、そのことをとおして、破防法・騒乱罪攻撃をひとまず押しかえすことに勝利したのである。事実、今年の四、五月段階にあっては、全学連主流派は、秋山委員長をはじめ二〇〇名をこえる先進的活動家を牢獄にうばわれながら、しかも、騒乱罪攻撃のなかで過重な階級的試練に耐えて、五・一七、五・三〇ゼネスト、六・一五、六・二六新宿、六・三〇三里塚と、あらたな飛躍をかちとっていったのである。十・八羽田以来の権力とわれわれとの攻防の息づまるような展開のなかで、わが同盟と、それを前衛とする労働者、学生、農民が体験をとおして学びとったもの――それは、権力との対決を避け、激動の七ヵ月から 逃亡した地点で、革命を語り、暴力を論ずる優雅な闘士諸君とは、永遠に交叉することがないであろうほど重要な教訓として、われわれの運動のうちに定着しているのである。
 きたるべき七〇年のたたかいが、参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化の道を実力で阻止し、世界反動の決定的支柱としての日米安保同盟を革命的に粉砕し、日本帝国主義打倒にむかって一大進撃を開始すべき出発点に発展せざるをえない以上、七〇年安保闘争の革命的爆発は、アメリカ帝国主義のアジア半植民地=後進国支配体制の動揺への決定的な打撃と、日本帝国主義の基本的世界政策の破局とを一挙にもたらさざるをえないことは、まったく明白である。したがって日本帝国主義とその暴力装置が、帝国主義としての自己の命運をかけた凶暴きわまる弾圧をもって七〇年安保闘争にのぞんでくるであろうことはまったく疑う余地もないのである。だが、十・八羽田以来の日本階級闘争の激動的過程がはっきりと示したように、国家権力の弾圧や、ブルジョア報道機関の反動宣伝では、断じて革命的共産主義運動を鎮圧し、壊滅させることはできない。激動の七ヵ月と、それをうけついで展開されつつあるあらたなる巨大な革命的激動のなかに晴れやかなる勝利の大道を確信もってみいだす不屈の革命的闘士のまえには、弾圧も反動も無力であった。十・八羽田を転機とする革命的共産主義運動の飛躍的な政治的・組織的前進は、この事実を寸分の疑いもなく証明している。
 
 三 闘いはいっさいの日和見主義的翼との非妥協的な分裂をとおして進行した
 
 激動の七ヵ月をたたかいぬき、あらたなる革命的激動にむかって巨大な前進を開始しつつあるこんにち、われわれが第三に確認しなければならない点は、十・八羽田を転機とする日本階級闘争の激動的展開と、その血みどろの前進は、日本共産党の恥ずべき反労働者的策動を粉砕し、社会党のふかまりゆく動揺と混乱をのりこえて達成されていったのであるが、それは同時に、戦闘的諸潮流内部における日和見主義的翼と革命的左翼との非妥協的な分裂を不可避として進行したということである。
 周知のとおり、日本共産党は十月八日、佐藤訪ベトの日に羽田から八〇キロもはなれた多摩湖畔で赤旗祭りなるものを開いて羽田闘争から逃亡したばかりか、全学連、反戦青年委員会の血みどろのたたかいにたいし、「国家権力と反革命勢力との衝突」などという反労働者的誹謗をくわえ、以後、激動の七ヵ月のあいだ、国家権力と相呼応して背後から妨害しつづけたのである。われわれは、国家権力との熾烈な対決を勝利的にうちぬくためには、同時に、日共スターリン主義者の反労働者的制動装置の背後からの襲撃に耐えぬくことが必要であった。革命か、反革命か、帝国主薬か帝国主義打倒かの二者択一は、同時に革命的共産主義かスターリン主義かの分岐を不可避としたのである。だが、安保敗北以後八年、六〇年安保闘争の教訓にふまえた革命的共産主義運動の苦闘にみちた前進のなかで、われわれは、全学連を反帝国主義・反スターリン主義のとりでとして強化したのみならず、労働者階級=人民大衆の深部に革命的労働者党のための実体的基礎を根ぶかく創成してきたのである。もはや、日本労働者階級=人民大衆は日本共産党の「前衛神話」のいいなりになるほど素朴ではなくなっている。六〇年安保から四・一七スト、原潜をへて日韓闘争を経験するなかで、労働者階級=人民大衆の最良の部分は、日本共産党の官僚的規範から自立し、自分の頭で革命的左翼のたたかいと日共の反労働者的策動とを検討するところまで成長してきた。したがって、羽田、佐世保、三里塚、王子、沖縄を基軸とする激動の七ヵ月から北九州、福岡、呉、伊丹、北富士、新宿、朝霞などの基地闘争の激発にいたる十・八羽田以後の日本階級闘争の歴史は、まさに、帝国主義国家権力の反動攻撃が決定的反撃をこうむり、七〇年にむかっての基本路線を動揺させる過程であったが、それは同時に、国家権力と相呼応して革命的左翼のたたかいを背後から攻撃し、労働者階級=人民大衆の戦闘的前進に一貫して妨害をくわえた日本共産党の反労働者的制動装置のあまりにもみじめな破産の過程であったということができよう。
 われわれは、日本共産党の反労働者的策動と、そのみじめな破産を、宮本指導部のたんなる偶然的事態としてとらえるのではなく、逆に、共産主義運動のスターリン主義的歪曲の必然的産物として綱領的=組織論的にとらえかえし、日本共産党の反労働者的策動にたいする怒りと、それにたいする反撃のたたかいを、反帝国主義・反スターリン主義の革命的労働者党を創成する組織的たたかいへとたかめていくために、いまいっそうの努力をはらわねばならない。共産主義の名において共産主義を裏切り、革命の名において革命に敵対する日本共産党の反労働者的策動を徹底的に粉砕しつくすことなしには、七〇年闘争の革命的爆発はありえない。だが、それは同時に、反帝国主義・反スターリン主義の革命的労働者党のための闘争のさらに飛躍的な前進を実体的基礎としてはじめてなしうるものであることを明確にしておかねばならない。
 十・八羽田を転機とする日本階級闘争がつきだした指導部の危機の問題は、もちろん、日本共産党の問題につきるものではなかった。われわれは、日本共産党の反労働者的策動とその破産を「反スターリン主義」の観点から徹底的に検討しつつ、その根底的な粉砕にむかって前進してきたが、日本共産党の反労働者的制動が大衆的に破産する、あるいは、大衆的に抑制される、という新しい情勢のなかで、われわれは同時に、社民指導の限界を大衆的にどう突破していくのか、という実践的課題にたえず鋭角的に直面せざるをえなかったのである。
 たとえば、本年一月、佐世保において、全学連は孤立を恐れず死力をつくしてたたかうことをとおして、日本共産党の反労働者的策動を粉砕し、労働者階級の組織的本隊および佐世保市民との大衆的=戦闘的合流をかちとり、羽田以来の日本階級闘争の一大転換点をつくりだしていったが、このような新しい情勢のなかで、社会党指導部は全学連にむかってプラカードと石の放棄を要求した。これにたいし、中核派を中心とする全学連主流派の学生諸君は、当然のこととしてこの要求を拒否し、佐世保基地突入の勝利をたたかいとっていったが、社青同解放派の学生諸君は、社会党指導部の忠実な親衛隊として、警官隊にむかってではなしに中核派にむかって「団結」するという構図を示したのであった。このような構図は、学生運動の戦術問題にとどまるものではなく、三・一〇三里塚闘争の闘争形態をめぐる反戦青年委員会内の論争にもみられるように、当然、労働者運動の今後の前進にとって避けてとおることの許されぬ綱領的=組織論的問題を佐世保橋的に予知せしめたのである(なお、反戦青年委員会内の社民グループを形成する構改派、解放派、第四インターの諸君が、六〇年安保闘争当時、ともに反全学連派であったことは偶然の一致であろうか)。
 もちろん、われわれ革命的共産主義者は、この構図の示す意味を単純なる反社民の例証にずらすべきではなく、また、社民政治の内部で反中核派の策動に悪用しようとする邪悪な意図をも断固として封殺し、日本階級闘争をともに前進させていくという共通の見地から具体的に検討していかねばならない。だが、問題がそうであればあるほど、社会党大会でさえ五〇名をこえる代議員から批判が集中した佐世保闘争の指導にたいし、いやしくも全学連の一翼をなしていた解放派の諸君が、社会党指導部の右翼的統制に屈服し、その親衛隊として登場し、中核派の「団結」のまえに完敗したという事実は、たんなるエピソードに還元しえない重大な示唆をもたらしたのである。
 まさに、社会民主主義の問題は、スターリン主義の問題とともに、戦闘的左翼諸潮流の理論と実践を厳しく点検するリトマス試験紙である。解放派の諸君は、口先では社民を非難し、共産主義を語りながらも、現実には社民内の極悪非道分子の忠実な親衛隊として革命的左翼にたいし敵対しているのみならず、社民内の良心的部分からダカツのごとく嫌悪される対象になりさがっているのである。もともと解放派の共産主義なるものは、資本の永遠的存在を前提とする反逆活動という社民左派の思想を示すものであり、資本の積極的止揚をとおして労働者階級の全面的解放をかちとるというマルクスの共産主義とは縁もゆかりもないしろものであり、その行きつくところは、「二重権力的団結」などという「プロレタリア独裁反対」の思想にすぎない。にもかかわらず、これまで解放派が社民内部の戦闘的労働者学生に一定の影響力をもちえていたのは、解放派の理論と組織活動の成果では断じてなく、革命的左翼の前進とその未成熟を歴史的条件として、社民と革命的左翼の中間主義としてとどまりえたからなのである。すなわち、社民翼下の青年労働者・学生のあいだには、安保以来の革命的共産主義運動の前進のなかで、日本階級闘争のスターリン主義的歪曲はもちろん、その社民的限界にたいし不満と批判をもち、革命的左翼の闘争に吸引されながらも、社民の組織的規範を突破することにも、まだちゅうちょしているものがすくなくなかったのであるが、まさに、このような社民翼下の青年労働者・学生の中間主義的傾向を政治的に表現したものが解放派であった。それゆえ、それは、革命的共産主義運動の歴史的にきりひらいた階級的地平のひろがりのなかで、「革命的左翼と共闘する社民青年部」として登場しながらも、革命的共産主義運動の圧倒的な政治的組織的前進のまえには逆に「革命的左翼にたいする社民的防波堤」に転化するという二重的性格をくりかえすこととなったのである。したがって、革命的共産主義者は、社民との革命的統一戦線を基軸として日本労働者階級の戦闘的=大衆的決起を七〇年にむかってたたかいとっていくという基本路線を断固として堅持しつつ、同時に、そのなかにあって、革命的左翼の一部を装いながら社民の右翼的指導の親衛隊として労働者階級=人民大衆の革命的前進を妨害する解放派の社民的本質を徹底的に粉砕しぬくことが不可避な任務となるのである。
 カクマルにあっては、事態はもっと深刻である。すなわち、これまで、カタマルの諸君は、機関紙や集会では口汚なく社民を非難し、革命的左翼と社民との革命的統一戦線の発展にたいし終始一貫して妨害をくわえてきたが、その裏では、労働者階級全体の利益をはなれて社民の右翼的指導に追従し、労働者組織の基幹部分をすでに社会党にすっぽりとはまりこませてしまっており、まさに、メンシェヴィキとしての道を陰険な姿で完成させているのである。もともと、カクマルなるものは、反帝国主義・反スターリン主義の革命的労働者党の創成をめざすわが革命的共産主義運動から逃亡した日和見主義者たちを基幹とするセクト主義的宗派であり、かれらはこんにちでも「反帝・反スタ」を唱えてはいるが、その本質は、現代革命の世界史的出発点を一九一七年のロシア革命に位置づけることに反対し、それを一九五六年のハンガリア革命に置くよう主張しだしていること(森茂の広田批判論文――六六年暮)からもあきらかのように、現代革命の基底をなす「戦争と革命の世紀」という世界史的認識を完全に欠落させた改良主義的グループであり、反帝国主義という主軸を喪失した「反スターリン主義」の実体主義的漫画化いがいのなにものでもないのである。
 したがって、このような「反帝・反スタ」の実体主義的漫画化から帰結するところのものは、第一には、現代革命の現実性にかんする綱領的否定、すなわち、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺とスターリン主義陣営の一国社会主義的対応の歴史的破産の複合的深化と、それを基礎とする国際階級闘争のあらたな激動期の到来にかんする驚くべき無感覚であり、第二には、羽田以来の激動の七ヵ月の清算と七〇年安保闘争からの召還の路線であり、第三には、革命的左翼と社民との革命的統一戦線の否定、すなわち、階級闘争の発展を「革命的前衛党づくり」なるものに一元化することによる、一方での革命的統一戦線戦術の「他党派解体のための統一戦線戦術」への歪曲と、他方での党建設を口実とした社民の右翼的指導への「待機主義」的追従である。
 まさに、カクマルの主張するところにしたがえば、「革命的前衛」すなわちカタマルを実体的基礎とする「反スターリン主義運動」なるものの前進なしには、附級闘争の革命的発展なるものはありえないのであるから、カクマルがいぜんとして六三年の分裂当時よりも脆弱な政治的、組組的状況に低迷しているかぎり、革命の現実性が問題とならないのも当然というべきかもしれない。だが、かれらがどう錯覚しようと、ベトナム侵略戦争を爆発点=導火線とする帝国主義戦後世界体制の根底的動揺と、日米安保同盟を基軸としたアジア半植民地・後進国支配体制の反動的再編成とその矛盾のけいれん的爆発とは、七〇年にむかって日本帝国主義の体制的危機を爆発点にまでたかめざるをえないこと、また、日本の労働者階級=人民大衆がこうした内外する情勢の発展のなかで、安保粉砕――日帝打倒をめざし階級的武装を加速度的に強めていくであろうことは、疑うべからざる事実なのである。
 十・八羽田闘争にたいし「ブハーリンの悪名高い電撃的攻勢論の再版」などという誹謗をなげかけ、国家権力との赤裸々な対決を避けて全自連メンシェヴィキとしての道をあゆみ、革命的左翼の「解体」を唯一の実践的課題とするカクマルの諸君は、七〇年にむかって、いっそう度しがたい右翼日和見主義として日本階級闘争の波間に出没し、「革命の現実性」の現実的否定のために奮闘するであろう。だが、わが革命的共産主義運動の前進のまえに、その敗北と没落の命運を避ける道をみいだすことはあまりにも困難といわねばならない。構改派からさえ「動揺してわれわれに色目を使いつつ右旋回するカクマル」とからかわれるようでは、先が見えたというものではなかろうか。
 他方、一昨年秋に安保ブントを夢みて連合した共産主義者同盟(マル戦派、関西ブント)は、十・八羽田以来の七ヵ月の階級的激動のなかで、安保ブントの勇姿を再現するどころか、同盟指導部の度しがたい日和見主義と敗北主義を暴露したのであった。すでに、昨年夏の東交合理化反対闘争において、社会党都本部の右翼的指導にたいし解放派とともに追従したブント指導部は、十・八羽田闘争の前夜、中核派の闘争路線に恐怖して解放派とともに決起集会から逃亡し、全学連の事実上の分裂をはかったばかりか、その後一貫して右翼的後退をつづけ、一月の佐世保闘争、二、三月の三里塚・王子闘争にたいして、まったくの闘争放棄か、お義理の追従的参加をもってお茶を濁し、ただただ「藤本副委員長の実現」という人事的野心のために「派閥的中央委員会開催」を策し、全学連の分裂にいっそうの拍車をかけたのであった。それは、まさに、反中核を唯一の価値基準とするたえざる右翼日和見主義への転落の過程であり、解放派への追従の道であった。このようなブント指導部の「激動の七ヵ月」への右翼的対応は、不可避的にブントの内部的な動揺と対立を激化させずにはおかなかった。かくして、旧関西ブント系の部分は、三月大会においてブント指導部のクーデター的改編を強行し、連合ブントの「労働者革命」派=旧マル戦派と旧関西派との再分裂を決定化したのである。ブントの諸君は、解放派とともに、口を開けば「十・八以来の中核派のセクト主義」を非難する。だが諸君は、それでは「中核派がセクト的」であったから、羽田、佐世保、三里塚、王子、沖縄の「激動の七ヵ月」にたいし、右翼日和見主義的な分裂をもって「対応せざるをえなかった」とでもいうのであろうか。
 こんにち、旧マル戦派と決別した関西ブントは、旧マル戦派の日和見主義なるものに「批判」をくわえつつ、一方では、(1)世界革命の同時性、(2)暴力革命、(3)武装革命組織の強化などを空論主義的に強調しだすとともに、他方では、あるときは権力中枢防衛庁の軍事的解体、あるときはアスパック=日帝の専一的なアジア支配の道の粉砕を唱えて、武闘なるものをつぎつぎと画策しては国家権力の弾圧のまえにつぎつぎと失敗し、ついには「国家権力と正面から衝突すれば敗北は必至だから、ゲリラ戦的に対応する」というところまでふたたび後退してしまったのである。まさに、角材と石に象徴されるところの闘争形態の質的転換は、日本帝国主義打倒をめざす労働者階級=人民大衆の異常な決意と、これにたいする国家権力の反革命的弾圧を文字どおり実力をもってうち破る組織的な戦闘準備とを基礎としてはじめてなしえたのであって、アスパック路線の漫画的本質は、いまここでは問題としないとしても、関西ブントのように、中核派の闘争形態にたいし流行として外在的に追従する思考形態では、羽田以後の飛躍的に強化された国家権力の反革命のまえには対抗しうるはずもないのである。「武装」は、帝国主義の攻撃と矛盾の異常な激化のなかで、どんな手段でもいいからこれに反撃をくわえ、その根源をたたきつぶしてもかまわない、という民衆の不満のたかまりにふまえながらも、それを具体的契機を媒介として帝国主義打倒の方向にときはなつ綱領的=戦術的展望と、権力の反動的襲撃に耐えぬいてその綱領的=戦術的展望を前衛的に担いうる中核的部隊の形成、すなわち、党のための闘争の一定の物質化のうちにあらわれるのであって、いわゆる武闘のうちに「党」が形成されるものでは断じてないのである。
 
 四 革命的労働者党のための闘いの飛躍的前進
 
 激動の七ヵ月をたたかいぬき、さらにあらたなる革命的激動にむかって巨大な前進を開始しつつあるこんにち、われわれが第四に確認しなければならない点は、十・八羽田から佐世保、三里塚、王子、沖縄をへて基地闘争、米タン闘争の激発にいたる日本階級闘争の血みどろの展開のなかで、反帝国主義・反スターリン主義を綱領的立脚点とする革命的労働者党のための闘争が、飛躍的な高みにまでひき上げられたということである。
 わが同盟は、羽田以来の国家権力の異常なまでに憎悪にみちた敵視と弾圧の嵐にもかかわらず、このかんのたたかいをとおして労働者階級=人民大衆にたいするわが同盟の革命的影響を飛躍的に拡大し、同盟組織の決定的強化をかちとってきた。機関紙の購読部数は昨年九月を指数にとると三倍強の拡大をみせており、週刊と日刊の相違があるとはいえ、その部数は六全協(五五年)当時の『赤旗』にほぼ等しいところまで到達したのである。今年五月初頭に、警察庁公安部は、中核派をほぼ壊滅させることに成功した、という中間総括を発表し、また、中核派の内部分裂や衰退にかんするデマ宣伝を流して、われわれをからめ手からも崩壊させようとした。だが、わが同盟と、それを先頭とする革命的共産主義運動は、帝国主義権力、日共スターリン主義者、反中核の旗のもとに野合した中間主義左翼諸潮流の邪悪な期待にもかかわらず、分裂と衰退の傾向を示すどころか、逆に不死鳥のごとく前進と強化をかちとっていったのである。同盟中央指導部の体制の飛躍的な強化と、その不動の団結を基礎としたわが同盟組織のボルシェヴィキ的再武装と組織的拡大こそ、中核派の分裂と衰退のうえにのみ自己の未来をみいだそうとした気の毒な人たちへの無慈悲な回答であった。
 われわれは、まさに、反革命と謀略をはねかえし、帝国主義との熾烈なたたかいをとおして、わが同盟のボルシェヴィキ的再武装と組織の飛躍的な拡大強化をかちとっていったが、その過程は同時に、同盟活動の文字どおりの質的発展を画するものであった。
 その第一は、革命の現実性を、羽田以来の血みどろのたたかいのなかで、具体的につかみえた、という点である。もとより、わが同盟は反帝国主義・反スターリン主義を現代世界の特殊戦略とし、その一環としての日帝打倒――日本プロレタリア革命を当面の任務としており、また、――昨年夏の第三回大会以来、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺と、そのもとにおける日本帝国主義の体制的危機のふかまりとを媒介としたわが同盟の再武装を意識的に追求してきたし、昨年十月の羽田闘争は、こうした綱領的=組織的努力の基礎のうえにのみはじめて実現されたものであった。われわれは、日本帝国主義打倒という綱領的立脚点を、内外する危機のふかまりを媒介としつつ、日本のベトナム参戦国化阻止という具体的な反戦闘争を契機にして、日本階級闘争のうちに物質化していったのである。破防法、騒乱罪の適用問題をふくむところまで熾烈化した日本帝国主義と革命的共産主義運動との非和解的な敵対関係の形成は、羽田以来の激動が、帝国主義の存亡をかけた階級的対決としての性格を客観的に成熟させていったのみならず、その成熟の先頭に日本帝国主義打倒の旗を高だかとかかげた意識的中核体が存在し、労働者人民大衆の政治的流動化も、その意識的中核体に吸引されるかたちで進行していった、という事実に基礎をもっているのである。まさに、この一点に羽田以後の日本階級闘争の質的転換の本質的意義があるのである。
 その第二は、羽田以来の激動をたたかいぬくという組織的実践をとおして、打倒すべき敵の弱さと強さをはっきりと確認した、という点である。もとより、帝国主義のもつ巨大な力と恐ろしさにかんして過少評価すべきではない。いな、それどころか、われわれは、羽田以来のたたかいのなかで反革命の重圧がもつ厳しさの一端をいやというほど経験してきた。だが、同時にわれわれは、一方では日本帝国主義の体制的危機のふかまりと、それが日米安保同盟を基本政策とせざるをえないことから必然化する諸矛盾の爆発の現実性を具体的につかみとるとともに、他方では、こうした諸矛盾の爆発のまえには、国家権力の従来の弾圧方法の破綻と、その強権的なのりきりとが、不可避とならざるをえないであろうことを、厳しい体験をとおして洞察していったのである。したがって、当面の情勢の特徴点は、諸矛盾の爆発の現実性を現実に転化する決定的契機が、革命的前衛の主体的条件にかかっている、ということにある。卒直にいって、われわれは、四月の初頭に、激動の七ヵ月にいちおうの区切りをつけ、あらたな激動にむかって自己の戦列を調整し、より巨大な戦列をもってつぎのたたかいに決起していくことをきわめて攻撃的な任務として決定したが、それは、われわれが羽田以来の七ヵ月の激動につぐ激動のなかで築きあげた政治的管制高地をまもりぬき、さらにその地平を飛躍的に拡大する組織的任務を短期の課題として積極的にとりくむことを意味しているのである。
 その第三は、労働者階級をはじめとする諸階級・諸階層の内部における同盟活動の経験と教訓の深化である。われわれは、もとより、革命的労働者党建設の実体的基礎を産業労働者にみいだしてきたし、今後もまた、その地点に基本的陣地を構築していくであろうことはいうまでもない。だが、それは同時に、革命的労働者が、労働者階級の産業機構の内外において、労働者階級の支配階級としての革命的組織化にむかっておこなう具体的な組織活動と機械的に切断して論じうるものではないのである。われわれは、昨年十月の羽田闘争以来、労働者階級の反戦闘争の組織化にむかって熾烈な闘争をくりひろげ、この力をさらに賃闘、反合闘争の強化に還流させながらも、同時に、都市住民、農民など諸階級、諸階層の内部における活動の深化、すなわち、プロレタリア・ヘゲモニーの強化の活動においてかつてない成果をかちとるとともに、革命的労働者じしんの政治的熟達と思想的深化を飛躍的に強めてきたのである。労働者階級の革命的勝利は、まさに、労働者階級の革命的階級としての自己形成と、それを基礎とした諸階級、諸階層の労働者階級の側への政治的獲得とに依拠して達成されるものであるが、それは同時に、労働者階級の革命的自覚が自己認識を基礎としつつも、他階級、他階層の政治的獲得という社会的反省関係を媒介として「権力」を主体化しうることをも意味しているのである。
 その第四は、いうまでもなく、未来への不動の確信の獲得である。七〇年にむかって、安保粉砕――日帝打倒にむかって、われわれの未来は、一点のくもりもなく開かれている。よし、それが苦難にみちた嵐の道であろうと、羽田以来の激動の七ヵ月を不動の確信をもってたたかった革命的共産主義者は、喜びをもって苦難をうけとめる準備を完了したことになるのである。
 
 第二章 世界危機の深化=戦後帝国主義世界体制の動揺
      ――七〇年闘争の革命的爆発を規定する世界史的条件(1)
 
 七〇年安保闘争の革命的爆発を基本的に規定している世界史的条件は、いうまでもなく、ベトナム侵略戦争を爆発点=導火線とする帝国主義戦後世界体制の根底的動揺の避けがたい勢いでのふかまり、とりわけ、日米安保同盟を基軸とするアジア支配体制の反動的=強盗的再編成をめぐる矛盾の爆発的展開であり、こうした世界危機の結節点としてたたかわれるであろうところの、参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化の道をあゆむ日本帝国主義と、日帝打倒――安保粉砕をめざす労働者階級=人民大衆との死活をかけた血みどろの衝突である。
 七〇年安保闘争の革命的爆発を準備していくにあたって、まず第一に確認しなければならない点は、日本帝国主義の日米安保同盟政策を規定しているものは、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺という帝国主義の命運をかけた危機であり、それゆえ日米安保同盟を粉砕し、日本帝国主義を打倒するための日本労働者階級=人民大衆のたたかいは、現代世界の全体的変革のプログラムの有機的一部分としてたたかいぬかれなくてはならない、ということである。
 周知のように、わが同盟は、一昨年夏の第三回大会において、現代世界の基本的特質にかんして「ロシア革命を突破口とする帝国主義と社会主義との世界史的分裂が、世界革命のスターリン主義的変質と、それにもとづく帝国主義の基本的延命とを前提として帝国主義とスターリン主義との平和共存形態に変容したもの」と規定し、こうした「帝国主義とスターリン主義の複合的な分割支配を構造的基底とする戦後世界体制」がベトナム侵略戦争を爆発点とする「帝国主義世界体制の根底的動揺と、これにたいするスターリン主義陣営の一国社会主義的対応政策の歴史的破産を基軸として世界史的な動揺期に突入した」ことを確認し、七〇年安保闘争の革命的爆発にむかっての「革命主体勢力の強化」を提起した。
 われわれのこうした規定にたいし、日本共産党は『赤旗』紙上でくりかえし非難をくわえ、「いまにも『世界帝国主義』が崩壊しそうにえがきあげるのは、おめでたい願望のたぐいです」(一九六七年七月五日号)とひらきなおっていたのである。かつて、スターリン主義者たちは「資本主義の全般的危機の第三段階」などという自動的崩壊論をふりまわしていたが、帝国主義諸国がいぜんとして生産力の発展をつづけると一転して帝国主義の生命力を美化する現象論におちいり、こんにちの帝国主義のもつきわめて異常な世界史的特質について完全に無知化してしまったのである。かくしてかれらは、われわれが六六年夏の同盟第三回大会において帝国主義戦後世界体制の根底的動揺の開始を指摘し、階級闘争の革命的激動にむかっての階級的再武装を提起したとき、逆に「トロツキストは帝国主義の自己崩壊を幻想」(『赤旗』)などと自分の自動的崩壊論を自己暴露したのであった。
 もちろん、われわれ革命的共産主義者は、帝国主義の危機を革命的勝利に転化するためには革命的労働者党の組織的実践を媒介とした労働者階級と人民大衆の革命的決起が不可欠であることを革命的共産主義運動の始源的出発点としており、それゆえにこそ、国際共産主義運動のスターリン主義的変質を突破し、「反帝国主義・反スターリン主義」を綱領的立脚点とする革命的労働者党の創成を中心的任務としてきたのであり、自動的崩壊論と縁もゆかりもないことはいうまでもないところである。だが、同時に確認されなければならないことは、革命的労働者党の創成にむかっての革命的共産主義者の組織的実践は、共産主義的自覚と正しい綱領的立脚点にふまえねばならないことはもちろんであるが、そのうえにたってさらに、打倒対象および階級諸関係の具体的分析を媒介とした政治方針の精密化および、活動方法の経験的熟達とが必要であるという点である。とくに、帝国主義戦後世界体制が根底的な動揺をふかめているこんにち、その危機のもつ基本的性格と、その諸階級への具体的影響を正しく把握し、それを媒介として政治方針を精密化し、階級的再武装を達成していくことが、なによりも急務とされなければならない。けだし、革命運動の具体的展望は、帝国主義の矛盾の展開の洞察をとおしての客観情勢の主体化と、党の組織的実践を媒介とした階級闘争の展開をとおしての主体の客観情勢化という相互に規定的な二契機の統一のうちにあるのである。
 ところが、日本共産党の政治的規範からは離反しながらも、スターリン主義を現象的にしか克服しえない若干の左翼知識人たちが、あつものにこりてなますを吹くのたとえのとおり、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺にかんするわが同盟の規定を「煽動のためのフリカケ」程度にしか理解しえないのは当然としても、日本革命的共産主義運動の創立者のひとりであった人までが、帝国主義戦後世界体制の今日的危機のもつ世界史的性格をいささかも理解しえず、帝国主義とスターリン主義の強大さを説くことに自己の党派的独自性をみいだしているのであるが、まことに革命への道は困難というべきかもしれない。
 帝国主義者やスターリン主義者にとって、現代世界とは、革命的変革の対象ではなくして、まさに、自己の存立条件である以上、現代世界の歴史的動向を洞察することは、自己の没落の条件を検討することに等しいのであるが、それとまったく同様に革命の現実性の否定のうえに「革命党建設」の基本路線を設定するわが哲学者には、十・八羽田以来の血みどろの激闘のなかで次第に輪郭を示しはじめた帝国主義戦後世界体制の動揺の意味を考えることが、ただ恐怖の対象に変容してしまったのであろう。だが、十・八羽田闘争を転機に激動の七ヵ月を主体的ににない、あらたな革命的激動にむかって巨大な前進を開始した革命的な労働者、学生、農民は「帝国主義とスターリン主義の千年支配説」の擁護者にたいし、いまでは一片の幻想すらもちあわせていないこともまた、歴史の必然というほかはないのである。まことに、「五六年以来、反スターリン主義の時計が止まってしまった」ことを自認する日本革命的共産主義運動のプレハーノフのまえには、帝国主義の危機も革命の現実性も永遠の彼岸であるにちがいなかろう。だが、ガリレオ・ガリレイではないが、それでも地球は動いているのである。
 
  ベトナム侵略戦争の行きづまりとアメリカ帝国主義の絶望的な反動攻勢の激化
 
 帝国主義戦後世界体制の根底的動揺を今日的に特徴づけている第一の要因は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の軍事的・政治的・経済的な行きづまりの明確化と、そこから脱出するための、体制的危機をかけた絶望的な反動攻撃の激化である。
 一九六八年三月三一日、アメリカ大統領ジョンソンは、ベトナム侵略戦争を基軸とするアメリカ帝国主義の世界支配政策の行きづまりを自己暴露した。不敗の専制君主を自負してきたアメリカ帝国主義は、(1)ベトナム人民の英雄的抵抗闘争の発展と、これに呼応した、(2)米日人民を基軸とした国際的反戦闘争のたかまりの方向、そして(3)金騰貴=ドル不安として進行する国際通貨体制の崩壊的危機のまえに、アメリカ帝国主義の世界支配を従来どおりの方法で継続していくことがまったく困難となってしまったことを渋々と認めざるをえなくなったのである。
 小ブル平和主義者や観念的反帝国主義者は、ジョンソン声明として自己暴露されたアメリカ帝国主義の世界支配政策の行きづまりをもって、ベトナム和平=アメリカ帝国主義のグアム島以東への後退を幻想し、その前提のうえにたって、あるいは、日本政府のアジア政策の平和的転換を進言(朝日新聞社説)したり、あるいは、日本帝国主義を主柱とする「独自」のアジア支配にむかって「反戦反帝闘争」を戦略化することを主張(ブント=社学同)し、他方、わが観念的反スタ主義者は、ジョンソン声明と和平会談の開始をもってジュネーブ会談的解決を予測し、奇妙にも解放民族戦線の「武装解除反対」をわめきだした(カクマル)のであった。
 だが、ジョンソン声明=パリ会談として現象したアメリカ帝国主義の世界支配政策の根底的動揺と、その反動的調整の意味するところのものは、カクマルのごとくアメリカ帝国主義のアジア支配力を美化する立場からも、ブントのごとくアメリカ帝国義のアジアからの後退=日本帝国主義を主軸としたアジアの帝国主義的支配体制の確立を想定する日帝自立論の立場からも正確にとらえることはできない。帝国主義戦後世界体制のこんにちの危機は、アメリカ帝国主義が従来の方法で世界支配をつづけることが困難になっているにもかかわらず、それにかわって世界支配政策を展開しうる帝国主義がどこにもいない、という点にあるのである。したがって現実には、いっそうの反人民的攻撃をもって危機をのりきる道しか残されていないのである。事実、四月以来の全過程が明白に示しているように、ジョンソン声明の根底によこたわるアメリカ帝国主義の野望は、ペテン師的な「北爆停止」を代償として北ベトナム政府を和平のテーブルにつかせ、(1)アメリカ帝国主義の南ベトナム支配権の事実上の承認 (2)ベトナム侵略戦争遂行のための軍事的経済的負担の軽減を同時的に獲得しようとするまったく強盗の居直り的論理そのものである。
 このようなアメリカ帝国主義のアジア支配政策の反動的調整にたいするベトナム人民の回答もまた明白である。かりに、スターリン主義者たちの裏切りによって、平和共存政策に立脚したジュネーブ会談的解決(五四年の再版)が目論まれたとしても、きわめて短期間のうちにその破綻は示されざるをえないのである。従来しばしば強調してきたように、(1)帝国主義の戦後世界体制の根底的危機のふかまりと、(2)スターリン主義陣営の一国社会主義論的対応の歴史的破産と分解の不可逆的な進行、そして(3)両者の複合的発展を世界史的条件として激発する国際的階級闘争のたかまりは、すでにジュネーブ会談的解決の道をまったく非現実的なものにしてしまっているのである。
 たとえ、アメリカの強盗的侵略的指導者たちが「真剣に」和平の条件を模索しているものとしても、ベトナム支配権の放棄、したがってまた、アジアにおける帝国主義の半植民地=後進国支配体制の全面的崩壊の危険を覚悟することなしには、いかなる実現の道も残されていないのである。危機にたつアジアの半植民地=後進国支配体制は、ベトナム侵略戦争を基軸にして軍事的・暴力的に再編成されたものであり、その基軸の動揺はただちに、南朝鮮、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、タイなど参戦国・反共軍事国家の動揺として波及せざるをえないのである。ベトナム参戦国化を基本政策とする南朝鮮の朴政権の政治的動揺は、はやくもはじまっており、それは、帝国主義の側からの「第二のベトナム」の危険をはらんでいる。しかも、アメリカ帝国主義は、国内政策の面からみても重大な困難に直面している。すなわち、一方では、ドル危機の緩和のための方策として軍事費の抑制、財政支出の引締めの必要を要請されながらも、他方では産軍複合体という異常な政治経済体制のうえに成立したアメリカ経済の七年来の繁栄も後退の局面を示しているなかで、軍事支出・財政支出の削減を独占体の動揺と打撃を回避しながらおこないうる政策的保障がなにひとつ残されていないのである。
 もともと、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争は、アジアにおける植民地=後進国支配体制の動揺にたいする帝国主義の命運をかけた侵略戦争であり、それは同時に、(1)ベトナム侵略戦争をテコとしてアメリカ帝国主義の専制的地位を他の帝国主義諸列強に軍事的・政治的に強制し、(2)スターリン主義の対応の無力さを暴露し、(3)かくして、アジアの半植民地=後進国支配体制の反動的=暴力的再編成を達成し、インド、中近東、ラテン・アメリカからの巨大な植民地主義的収奪の権益を擁護しようとするもので、帝国主義戦後世界体制の矛盾の爆発点を示すものである。だが、いまやそれは、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争における隠蔽しえない軍事的、政治的敗勢のふかまりをまえに、アジア半植民地=後進国支配体制の動揺と、アメリカ帝国主義の動揺と、アメリカ帝国主義の政治的威信の低下とをいっそう進行させるものとして、帝国主義戦後世界体制の矛盾のより破局的な爆発にむかっての導火線としての性格をしだいに強めている。帝国主義戦後世界体制は、国際通貨体制の危機とベトナム侵略戦争の深刻化という相互に規定的な過程をとおって根底的動揺をさけがたい勢いでふかめているのである。
 したがって、アメリカ帝国主義は、ベトナム侵略戦争を爆発点=導火線とする帝国主義戦後世界体制の軍事的・政治的・経済的危機の異常な深まりのなかで、一方では、ジョンソン声明=パリ余談として世界支配政策の行きづまりを全世界のまえに自己暴露し、専制君主としての威信をいちじるしくはずかしめながらも、他方では、アメリカ帝国主義の世界支配政策の困難を根底的に解決する方策をみいだすことができず、まさに、すすむことも、ひくことも、代りをみいだすことも許されないジレンマからくる死の苦悶を、従来にもまして凶暴な強盗的攻撃の激化として集約していかざるをえないのである。かくして、アメリカの強盗的侵略的指導者たちは、ソ連新官僚指導部を媒介としてジュネーブ会談的解決の可能性を模索しながらも、テーブルの背後で、(1)ベトナムへの徹底的増派と北爆・南爆の無差別、残虐な強化、(2)南朝鮮、タイを両翼とする軍事基地網の飛躍的増強、(3)ベトナム参戦諸国への反動的テコ入れをおこなうとともに、より決定的な攻撃として、(4)日米安保同盟の反動的強化を基軸としたアジア半植民地=後進国体制の軍事的・経済的再編成、すなわち、日本の参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化の道に最後の望みをかけざるをえないのである。まさに、アメリカ帝国主義のうえに集約化した帝国主義戦後世界体制の矛盾は、直接的には、アジア半植民地=後進国体制の崩壊的危機として爆発しているが、それは同時に、日米安保同盟を基軸として、日本帝国主義のうえに鋭く転移していかざるをえないのである。
 
 二 スターリン主義の歴史的破産の深刻化
 
 帝国主義戦後世界体制の根底的動揺を今日的に特徴づけている第二の要因は、帝国主義的危機にたいするスターリン主義陣営の一国社会主義的対応政策の歴史的破産が、ベトナム問題をめぐって。いっそう深刻化しているということである。
 スターリン主義陣営の盟主を誇るソ連ブレジネフ=コスイギン新官僚指導部は、アメリカ帝国、主義の命運をかけたベトナム侵略戦争にたいし、革命的反戦闘争を口先だけの抗議運動や「武器援助」運動にすりかえながら、背後では、世界共産党会議の名のもとにスターリン主義陣営の団結をはかり、それをテコとしてアメリカ帝国主義と平和共存体制の再強化を達成しようとむなしい努力をつづけている。だが、いわゆる体制間矛盾論者の幻想とは逆に、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺のふかまりは、スターリン主義陣営の団結と威信をたかめるどころか、その不可逆的な分裂と、際限なき威信低下としてあらわれている。中ソ分裂を基軸として、東欧グループ、西欧グループ、自主独立グループ、中南米グループに分化してきたスターリン主義陣営は、一方では、キューバを中心に自主独立、中南米グループ内部にあらたな系列再編成がすすんでおり、他方、東欧では、ユーゴ、アルバニア、ルーマニアの背反につづいて、東欧の優等生チェコスロバキアが、ソ連の専制的東欧支配政策への抵抗の傾向を強めている。
 まさに、一国社会主義理論と平和共存政策をテコとした世界革命のスターリン主義的歪曲は、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺と、そのもとにおける帝国主義諸国の体制的危機の深まりとを、世界革命にむかって統一的にとらえかえし、労働者階級の前進と団結をかちとっていく現実的契機にするどころか、まさに逆に、帝国主義諸列強の攻撃の性格の偏差や異層をめぐつて一国社会主義的対応政策をたえず分極化させていくことになるのである。こうしたスターリン主義陣営の四分五裂の状況のもとで、ソ連のブレジネフ・コスイギン新官僚指導部は、ベトナム人民にたいし、五四年のジュネーブ会談と同様の裏切り的協商をもって帝国主義への屈服を強要し、米ソ共存体制の再強化をはかろうとしている。だが、北ベトナム政府が、ソ連指導部の圧力のもとに一定の妥協をしいられたとしでもこんにちの国際情勢のもとにあっては、ジュネーブ会談の再版をベトナム人民に強制することは、まったく容易ならざることといわねばならない。五四年のジュネーブ会談、すなわち、北ベトナム政府の「承認」を代償とした、南ベトナムの帝国主義支配の事実上の容認、という裏切り的解決こそ、こんにちのベトナム侵略戦争の歴史的起源をなしていることを、ベトナム人民は、血みどろの英雄的抵抗闘争をもって示しているのである。ソ連新官僚指導部はアメリカ帝国主義の「ベトナム侵略戦争の最大最強の保証人」いがいのなにものでもなく、まさに、かれらのベトナム政策は、スターリンの一国社会主義と平和共存政策の行きつくところが、腐臭をはなって露呈した感があると断ぜざるをえないのである。
 国内経済政策におけるいわゆる利潤導入は、こうした対外政策のスターリン主義的本質と対応した腐敗であり、ソ連における官僚制的計画経済の歴史的破産を如実に示すものである。スターリン主義に追従する社会民主主義者としての特殊性をもつ社会主義協会は、第八回全国大会で決定したテーゼにおいて「ソ連をはじめ、東欧社会主義諸国家に生じているあらたな工業管理体制や価格体系の変革等の一連の新経済政策は、こんにちの物質的生産力の高い発展水準に適応しつつ、より成熟した社会主義経済体制の確立をめざして取りいれられた方策である」などという転倒した評価をもって、ソ連におけるスターリン主義の歴史的破産と、その官僚的びほう策を美化しようとしているわけだが、このような転倒した現実認識の方法では、そもそも利潤とは剰余価値の転化された形態あり、資本家的生産の規定的動機をなすものである、というマルクス経済学の原理的規定を破壊することとなり、労働力の商品化の止揚という社会主義社会建設の理論的方向性をみずから放棄することを意味するのである。なぜ企業管理に「利潤」という目的を付与する必要があるのか、という設問を、企業管理における管理者層と労働者の社会的分離という過渡期社会のスターリン主義的変質と、それを基礎とした管理者層の官僚制的無能化の官僚的反省との関連で把握すること、言いかえるならば、利潤導入なる政策は、管理者をますます管理者層として自立化させ、労働者を生産の計画・管理の過程からますます疎外させるものとしてとらえかえされねばならない。だが、利潤概念なるものは、市場メカニズムを根底的に破壊した過渡期社会にあってはせいぜい計画の政策的指標としてしか意味しえないにもかかわらず、スターリン主義者は、それを資本主義経済のような自律性をもつものとして幻想しており、その破産は必至というほかはないのである。
 まさに、ソ連および東欧におけるフルシチョフ改革以来の経済政策の朝令暮改的な混乱は、ブレジネフ=コスイギンの利潤導入方式の方向でも、また、毛沢東=林彪の志向するスターリン時代への復帰でも、けっして解決しうるものではない。ブレジネフ=コスイギンの経済政策なるものの根本的誤謬は、社会主義社会にむかっての過渡期経済建設の過程が、同時に、社会主義的経済政策をもってする資本主義の経済法則の意識的廃棄の過程である、という過渡期の経済にかんする無理解にあるといえるが、まさに、こうした根本的誤謬を「意識的に創出」したものこそ、スターリンの一国社会主義理論であり、経済法則利用論であったのである。こんにちのソ連=東欧経済の危機は、スターリン主義そのものの再検討から出発することなしにはけっして解決しうるものではない。
 他方、中国においては、毛沢東=林彪を先頭として、いわゆる中国文化大革命が進展している。わが国においては、日本共産党がこの文革に相前後して中国路線からの右裏的離反を明確にし、善隣会館事件を契機として民族排外主義の傾向が強まっていること、またソ連共産党があまりにも露骨な対米協調政策をとっているのにたいして、中国共産党がいちおう世界帝国主義の反動的専制君主としてのアメリカ帝国主義と対決する姿勢をとっていること、さらに、国内の「実権派」を打倒するために官僚的手続きをこえて、大衆の決起を呼びかけたこと――こうした一連の事態は、日本共産党の深刻な分裂を派生させるとともに、従来、日本共産党に批判的であった一部の知識人、学生のなかに、毛沢東=林彪路線にたいするある程度の「共感と期待」を生みだしている。
 われわれは、これまで、いわゆる文化大革命にたいするソ連共産党や日本共産党の恐怖にみちた対応のなかに、かれらの革命観の実相を的確にあばき出しながら、また、中国路線を支持する人たちとのあいだで具体的闘争課題に則して、具体的に可能な統一行動をおこないながら同時に、世界革命を完遂していくという革命的共産主義者の立場から、毛沢束=林彪を先頭とするいわゆる中国文化大革命の指導方向にたいし、率直にわれわれの批判を展開し、討論するという方法を堅持してきた。なぜならば、過去十年間、幾度となく強調してきたように、ソ連や日本の共産党にたいする反発を、中国共産党やキューバ共産党にたいする「期待」に機械的に置きかえたところで、現代革命の危機を根底的に克服することはまったく不可能だからである。
 事実、こんにちにおける実権派打倒の闘争は、それを本当にプロレタリア革命の過程に転化発展させるためには、六二年以来の調整期のなかで形成された実権派層の打倒を、たんに「某々の誤り」として実体化することなく、毛沢東思想に代表される中国共産党の革命理論=経済建設の過程の全般的な再検討にまでふかめられることが不可欠である。中国におけるこんにちの困難を革命的に打破するためには、少なくとも、毛沢東新民主主義論の全面的批判にふまえて、(1)自力更生論の検討として、世界革命と中国革命との政治質的な相互関係の革命論的明確化をおこなうこと、(2)連合独裁論の自己批判=プロレタリア独裁論の明確化と、それをバネとした工場労働者評議会の創成、(3)大躍進攻策の失敗とその調整政策の動揺の具体的分析のうえにたった経済政策の提起、の三点の解決が決定的であるが、いわゆる中国文化大革命にあっては、この三点がすべてあいまいであり、まったく道徳的に、毛沢東思想の学習が強調されているにすぎない。同じ毛沢東思想をかざしたグループが各地で系統発生的に相互の武闘を開始し、いまなお、未解決のまま拡大しているという事態は、文革指導理論の異常なまでの道徳的性格と無関係ではないと断言してよかろう。ベトナム侵略戦争にたいする中国の対応政策の無力さは、毛沢東の中間地帯論の破産を示してあまりあるといわねばならない。
 スターリン主義のいっそうの歴史的破産と、それを基礎とした中ソ分裂の不可逆的な深まり、そして、ルーマニア、北朝鮮、日本、キューバなどの「自主独立グループ」の離合集散、さらに、チェコスロバキアの動向をめぐる東欧支配体制の動揺など、スターリン主義の分解と没落は急激なテンポですすんでいるが、われわれがこんにちあくまでも追求していかねばならない点は、スターリン義の諸傾向の流動のうちに「期待と幻想」をおいまわしていくのではなく、かつまた、スターリン主義の分解と没落を客観主義的にとらえていくのでもなく、革命的共産主義運動の強化発展をもって応えていく、という見地があくまで貫徹されねばならないということである。
 
 三 帝国主義諸国における階級闘争の激動
 
 帝国主義戦後世界体制の根底的動揺を今日的に特徴づけている第三の要因は、フランス「五月革命」や、アメリカにおける黒人反乱、ベトナム反戦闘争の高揚に示されるように、帝国主義戦後体制の危機のふかまりと、スターリン主義陣営の分解と後退のなかで、帝国主義本国におけるあらたな階級闘争の激動がまき起こりはじめていることである。
 アメリカ帝国主義は、戦後、帝国主義世界の専制君主として、世界反動の軍事的=政治的執行官として君臨してきたが、それは同時に、国内政治支配の暗黒化を基礎とするものであった。タフト・ハートレー法、マッカーシー魔女狩り旋風などの帝国主義の暗黒政治によって、革命運動はおろか、リベラルな傾向の気孔までふさがれ、そのうえ労働組合の圧倒的部分は、労働貴族が専制的に支配する労働力の販売機構に組みかえられてしまい、「アメリカには階級闘争は存在しない」という神話が生まれるほど、階級支配は徹底化したのであった。
 アメリカ国内支配のこのような反動化は、戦後世界におけるアメリカ帝国主義の極度に異常な軍事的・政治的・経済的地位に根底づけられたものであることはいうまでもない。だが、政治支配は上からの恐怖を下からの同意に調整させることなくして不可能である。戦後の暗黒支配は、三〇――四〇年代におけるアメリカ社会主義運動の「混乱」と、その後退とを無視して考えることができないのである。「アメリカに階級闘争が存在しない」という神話が生まれるようになったのは、戦後も五〇年代に入ってからのことであって、CIO結成に象徴される二〇年――三〇年代には、社会主義者の組織活動はこんにちでは想像もつかないような活発さをもっていたのである。こうした活動が退潮にむかうのは三〇年代の後半からであるが、それは、ニューディール政策、第二次大戦への参戦問題をめぐるスターリン主義者=アメリカ共産党の裏切りと組織的解散(スターリンの対米協調政策の反対給付)、フィンランド問題と「反帝・労働者国家無条件擁護」のスローガンをめぐるトロッキー主義=アメリカ社会主義労働者党(SWP)の動揺と分解、という社会主義運動内部の問題とかたく結びついているのである。もちろん、参戦国化にもとづく愛国主義の波が社会主義運動のすそ野をのみつくしたことの影響を無視するわけにはいかない。だが、問題はその先にあった。すなわち帝国主義戦争と、これにたいするスターリン主義陣営の反階級的対応(ソ連のフィンランド侵攻と、反ファッショ戦争論)をめぐつて、スターリン主義者が愛国主義の潮流に没入したばかりか、世界最大の組織力を誇ったトロツキー主義者までもがソ連擁護という第四インターの親スターリン主義的傾向に混乱させられて革命的反戦闘争の立場を貫きえなかったことにより、社会主義運動じしんが帝国主義的愛国主義の潮流のまえに屈服し、おしながされてしまった事実にあるのである。まさに、ソ連官僚指導部の「一国社会主義」の利益のまえに、アメリカ社会主義運動のアメリカ帝国主義への屈服と衰退が決定づけられたのである。
 だが、反動の支配は永遠につづくことはできない。五六年――五七年を戦機として次第に活発化してきたアメリカにおける非スターリン主義系の社会主義諸潮流は社会主義的宣伝活動を強化しながら、同時に急進的リベラルの運動と相呼応して黒人解放闘争、ベトナム反戦闘争の高揚を準備していったのである。アメリカ帝国主義の世界支配政策の動揺は、ただちに、国内支配政策の動揺として連動し、黒人解放闘争=ベトナム反戦闘争という「銃後の敵」を生みだしたのである。したがって、われわれは、このようなアメリカ階級闘争の激化にたいし、たんなる自然成長的運動として外在的に評価したり、また同じことであるが、それに「革命的意義」を付与するという客観主義的方法をとるのではなく、アメリカにおける社会主義の復活のための闘争として内在的にとらえかえしていかねばならないのである。デトロイト反乱、キング暗殺抗議反乱として爆発した黒人解放闘争を、ベトナム反戦闘争と有機的に結合しながら、アメリカ労働者階級の組織的反乱――アメリカ社会主義革命にまでたかめていくためには反帝国主義・反スターリン主義の革命党の全体指導の問題を避けてとおることはできないのである。
 同様に西ドイツにおいても、昨年、イラン国王の訪独を契機に「ドイツの安保騒動」ともいうべき学生運動の爆発を生みだした、SDS(西ドイツ学生社会主義連盟)を中核とする西ドイツの戦闘的学生は、今年に入ってからは、ドゥチュケ暗殺抗議、国家非常事態法反対を基軸に西ドイツ全土を激動のルツボにたたきこむ血みどろの闘争に起ちあがった。アメリカとならんで「階級闘争を忘れた国」といわれた西ドイツもまた、戦闘的学生のたたかいをとおしてその神話をうち破りはじめたのである。帝国主義戦後世界体制の根底的動揺は、経済的には、ポンド危機――金騰貴――ドル不安として国際通貨体制の基軸国としての米英帝国主義のうえに矛盾を集中させたが、それは同時に、西ドイツ、フランス、イタリア、日本など二流帝国主義の命運のうえに深刻な没落の影をなげかけはじめている。金融的にはアメリカ資本に従属して「奇蹟の繁栄」を達成した西ドイツ帝国主義は、戦後的成長の終末と相呼応して、アメリカ高金利政策の影響による金融市場の崩壊的危機に直面したのである。もともと、西ドイツの戦後の復興=成長過程は、アメリカ資本に依拠しておこなわれたものであり、いわゆる社会市場理論なるものも世評とは逆に連邦制の構造的弱点(中央政府の財政=金融権限の極度の弱さ)にもとづく事実追認的な財政金融政策であったのであるが、成長の終末をびほうするための財政金融政策の展開が不可避となったときには、その連邦政府的弱点が、核武装問題とともに、文字どおりボトル・ネックとなったのである。国家非常事態法は、こうした西ドイツの危機を、労働者人民の権利と生活の異常な制限をもってきりぬけようとする超反動的な帝国主義攻撃であり、それゆえ、この法案をめぐる闘争はきわめて深刻な社会的性格を秘めざるをえなかったのである。
 フランスにおける「五月革命」の経験は、まさに、階級闘争の典型を示すにふさわしいものであった。一〇年間にわたるドゴールのボナパルティズム的支配は、インドシナ、アルジェリア戦争の敗退をとおして深刻化したフランス帝国主義の体制的危機を、一方ではEEC(西欧ブロック)の形成を基礎としたフラン圏(旧植民地諸国)の再編成、他方では、スターリン主義との協商(対ソ、対中関係の再調整と、それをテコとしたフランス共産党の屈服の強制)を基礎とした反動的国内支配体制の確立とをもってのりきり、帝国主義の延命をはかってきたものであった。金・外貨準備の高蓄積を武器にしてアメリカ帝国主義の国際金融政策にゆさぶりをかけるドゴール一流の世界政策は、軽薄な反帝主義者をして、ドル圏対フラン圏の激闘を予測せしめる深刻さを内包しているが、にもかかわらず現実には、戦後帝国主義の危機性のきわめて異常な世界史的特質に媒介されて、ドルの金交換という武器をイデオロギー的にしか行使することができないのである。たしかに、フランス帝国主義のアメリカ帝国主義への挑戦は、帝国主義諸列強のブロック間対立を今日的形態をもって示すものである。だがしかし、フランス帝国主義が、もとより、ドル圏、ポンド圏が世界市場において占める圧倒的地位にとってかわるだけの生産力をもっているわけではなく、いわんや、アメリカ帝国主義にかわって世界支配政策を展開しうる軍事的・政策的力量など、薬にするほどもないことは、インドシナやアルジェリアをみれば痛々しいほど明白である。しかも、その金・外貨準備の高蓄積たるや、フラン圏の旧植民地諸国からのドルの吸上げはともかく、その基底はアメリカの長期民間資本の流入、すなわち、アメリカ帝国主義の世界企業(多国籍会社)のフランス上陸、というフランス帝国主義の没落的危機の金融的表現いがいのなにものでもないのである。
 ドゴールは、まさに、このようなフランス帝国主義の没落を「大ヨーロッパ主義」というイデオロギー的政策をもって隠蔽しながら、賃金抑制、合理化、政策的インフレという搾取と収奪の攻撃をもってのりきろうとしたのであるが、ソルボンヌ、エコール・ノルマル・シュペリウールを先頭とする戦闘的学生の大衆的決起と、それを起爆力とした労働者階級のゼネスト・工場占拠のたたかいは、ドゴール支配政策の根底を革命的にぐらつかせたのであった。まさに、フランスの労働者階級と戦闘的学生は、フランス共産党の反階級的制動を突破し、フランス帝国主義との赤裸々な対決を全世界の注目のまえに展開し、革命の現実性を完膚なきまでに示したのであった。
 だが、フランスにおける階級闘争の前革命情勢的な展開は、共産党、左翼社会連合(社会党など)、統一社会党、構造改革派など、フランス労働者階級のいっさいの伝統的指導部(スターリン主義と社会民主主義)の反革命的本質をあばきだすとともにフランスにおける革命的労働者党創成のためのたたかいのもつ意義を決定的につきだしていったのである。労働者階級は、戦闘的学生の決起を起爆力としてゼネスト・工場占拠という決定的闘争にたちあがりながら、この階級的激動をドゴール打倒・労農政府樹立の方向に意識的に組織化していく前衛的指導部隊の決定的脆弱性のゆえに、ふたたび伝統的指導部の手のもとに集約され、議会主義と愛国主義の反動的潮流のなかに埋没していってしまった。一方、戦闘的学生は学生街(カルチェ・ラタン)を拠点にして、革命的闘争に決起しながらも、労働者階級のゼネスト・工場占拠を労働者権力の形成にむかって集中する組織的展望をつかむことができず、軍隊を背景とした反動的威圧のまえに後退を余儀なくされたのである。
 選挙をとおしてドゴールは、反動の圧倒的勝利を振ったかにみえる。だがドゴールのまえに敗北したものは「五月革命」の主役としての革命的労働者・学生ではなく、「五月革命」に敵対し、付随し、利用し、その死水をとった伝統的指導部いがいの何ものでもないのである。議会におけるドゴールの圧倒的支配はフランス帝国主義の体制的危機にもとづく労働者階級と学生の再度の激動を議会主義的に中和する保証を失わしめてしまったのである。「五月革命」において、すなわち、議会の外において、ドゴール支配に真向うから敵対し、階級的激動をプロレタリア独裁にむかって組織化せんとした革命的な労働者学生は、五月の激動と敗北の教訓をあらたな革命的労働者党創成のたたかいとして定着させながら、六九年NATO粉砕をめざす西ドイツ労働者学生と相呼応して、西欧の「十月革命」をきりひらくために不敗の前進をいま開始しつつあるのである。
 昨年のわが同盟第四回大会において、われわれは、国際階級闘争の動向について、(1)帝国主義の世界的危機のふかまりのなかで、帝国主義本国の新しい階級闘争の波が「統一性」をもって胎動しはじめたこと、(2)スターリン主義はこうした波を統一的に代表することができず、分解をいっそうふかめる方向で対応するであろうこと、(3)その結果、一種の合同左翼的な流動化が各国で起こるであろうが、それは同時に、革命的労働者党のための闘争のイデオロギー的=組織的危機の結果的表現として反省的にとらえかえされねばならないこと、(4)世界的激動をプロレタリア的統一性をもって迎え撃つことのできる新しいインターナショナル創成の努力、という確認をうちだしたが、アメリカ、西ドイツ、フランス、日本を赤い糸のように貫く「反帝国主義・反スターリン主義」のたたかいの教訓をもってこの確認をふみかため、プロレタリア国際主義の高揚にむかって飛躍的な前進をいっそうすすめなくてはならないのである。まさに、それは、スターリン主義の分解と再編のまえに無原則的な離合集散をくりかえすことではなく、国際的な左翼反対派のたたかいを、各国の階級闘争の具体的展開を基礎にして、「反帝国主義・反スターリン主義」の大道に集約していくものでなければならないのである。
 
 四 現代帝国主義の危機の異常な世界史的特質
 
 帝国主義戦後世界体制の根底的動揺を今日的に特徴づけている第四の要因は、現代帝国主義の危機性のきわめて異常な世界史的特質である。
 周知のように、帝国主義は、没落しつつある資本主義であるが、その根拠とするところのものは、資本蓄積様式の産業資本形態から金融資本形態への段階的推転である。もともと、資本主義の発展は原理的には、資本の運動のうちに実現される剰余価値の一部分を追加資本として投下することをとおして、旧社会関係を資本家、地主、労働者の三階級に分解し、労働力の商品化を増進するものとしておこなわれるのであるが、資本主義の帝国主義段階にあっては、組織的独占の形成にもとづいて、労働力の商品化の基礎をなす旧社会関係の分解を、徹底的に推進しないでえられる資本の利益が、重要性を増すようになるのである。資本の再生産過程は、労働力の商品化を推進することをとおしておこなわれる労働の強化とならんで、非資本主義的諸関係の形成する資金や中小資本の収奪が前提となるのであって、それゆえ、資本の自立的運動のうちに社会を包摂するという資本主義の本質的な傾向に反するものを内在化したこととなるのであり、それは労働力の商品化という資本主義の基本矛盾の歴史的発現形態(没落期)を示すものであるといえよう。
 かくして、帝国主義段階の資本主義は、「産業資本」段階の自由主義政策とはかわり、国家の経済政策を資本制社会の重要な補助手段として要請するところとなり、資本主義の基本矛盾をして政策的に迂回して発現せしめることとなるのである。産業の二重構造化や労働者の分断支配(独占と非独占、本工と臨時工)をテコとした独占利潤確保のための諸政策は、労働問題、社会問題、都市問題、農業問題、財政問題など帝国主義段階に特有の諸矛盾を激発させながら、資本輸出――世界再分割のための帝国主義諸列強のブロック間対立――帝国主義戦争として矛盾を世界史的に爆発させたのである。第一次大戦および第二次大戦は、資本主義の基本矛盾が、帝国主義諸列強間による世界の強盗的な再分割をめぐる暴力的衝突として発現したものであり、まさに、プロレタリア世界革命の客観的成熟を意味したのである。ロシア革命を突破口として、全世界の労働者階級は「社会主義革命を成功させねばやまぬ運動を開始」(レーニン『より少なく、しかしより良く』)したのであった。
 だが、ロシア革命から半世紀たったこんにち、ロシアを除くすべての帝国主義諸列強は生き残っており、いぜんとして労働者人民の搾取と収奪をほしいままにしている。革命いまだ成らずの嘆きもあらばこそ、である。しかも、他方、帝国主義を打倒しプロレタリア独裁国家のもとに、社会主義にむかって過渡期の社会建設を開始したはずのソ連では、プロレタリア独裁国家と過渡期の擬制的労賃制は官僚制的に変質させられ、「もう一度の革命」が問題にされはじめている。帝国主義の延命とソ連の変質とは、まさに、メダルの表と裏にすぎないのである。しかしながら、このような帝国主義から社会主義への世界史的過渡期の「平和共存形態」的変容は、帝国主義の歴史的生命力を即自的に意味するものであろうか。断じて否である。帝国主義は、国際共産主義運動のスターリン主義的変質を決定的な根拠として延命しながらも、死の苦悶から自己をときはなつことができず、いま、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺という形態をもって死の苦悶をあらわにしてきたのである。それは、帝国主義段階の矛盾をさらに加重する具体的な諸条件をともなうものであり、まさに、現代帝国主義のきわめて異常な世界史的特質を示しているのである。
 従来、しばしば指摘してきたとおり、現代帝国主義は、(1)ロシア革命を突破口とする「帝国義から社会主義への世界史的過渡期」の開始と、国際共産主義運動のスターリン主義的変質と帝国主義の基本的延命を基礎とした過渡期の「平和共存形態」的変容、(2)二九年恐慌にもとづく世界経済のブロック化と、アメリカ帝国主義のドル撒布政策=対ソ軍事包囲政策をテコとした世界経済の擬制的統一性の回復、(3)周期恐慌を媒介とした資本主義の基本矛盾の自律調整機能の衰退と、恒常的な半軍事経済=ケインズ的財政金融政策をテコとした「資本の過剰」の迂回的な「解決」を具体的な条件とした「死の苦悶にあえぐ」資本主義である。まさに、戦後帝国主義は、二九年恐慌にもとづく世界経済のブロック化と、その矛盾のけいれん的爆発としての第二次大戦、そして、戦後処理をめぐる戦後革命的動揺の激化、という帝国主義の崩壊的危機を、ヤルタ協定(東欧および北朝鮮のソ連圏への包摂を代償とした西欧革命の制圧)を基軸としたスターリン主義者の反階級的裏切りを保証として政策的にのりきるとともに、両大戦をとおして圧倒的に強大化したアメリカ帝国主義の富と生産力を基礎として、世界経済の擬制的統一性(国際通貨体制)の回復と、資本主義経済の人為的な繁栄をなしとげてきたのである。(1)帝国主義的対立の終末=協力体制の確立、(2)恐慌の終末=永遠の繁栄、というブルジョア的神話の根底によこたわるものは、以上のような、あまりにも深刻な危機性なのである。
 だが、こんにち、とくに問題にされなければならない点は、帝国主義の戦後の再建=膨張をいちおう可能ならしめていた条件があらたな矛盾を醸成しはじめていることである。
 その第一は、インフレおよび国際収支の悪化として主に発現しはじめたところの、恒常的な半軍事経済=ケインズ的財政金融政策に特有な矛盾の累積と爆発である。恐慌を回避するための帝国主義的経済政策=独占救済のための人為的な市場創出(財政支出)の累積は、資本の基底的な再生産過程のうえに、組織的独占、管理通貨制度、財政の膨大化などをつぎつぎと累積していきながら、それが恒常化し前提化するなかで、その立体的な構造の各局面で生じた諸矛盾の相互に排斥しあう力を、インフレや国際収支の悪化として発現させはじめたのである。自由主義の時代とことなり、物価問題や外貨危機は、文字どおり、資本主義の基本矛盾の発現形態として帝国主義の体制的危機のきわめて決定的な水路に構造化したのである。
 その第二は、アメリカ帝国主義の動揺と地位後退がもたらしている重大な世界史的事態である。すでに指摘したように、戦後の帝国主義世界体制は、ドルとポンドを国際通貨とするものであり、世界経済のブロック化という二九年恐慌の歴史的刻印を解決したものではなかった。したがって、EECと日本の台頭に示された不均等発展は、ブロック的基底を露呈させるとともに、アメリカ帝国主義の地位の相対的低下とドル危機をもたらしたのであった。こうした局面は、帝国主義諸列強のブロック間の世界再分割のための衝突、という帝国主義の古典的矛盾を今日的に基礎づけるものといえよう。だが問題は、アメリカ帝国主義の危機のふかまりという形態をもって世界帝国主義の歴史的危機が準備されていることにあるのであって、これを単純にアメリカ――中南米、EEC――西欧・アフリカ、日本――アジアという再分割への過渡期として評価することは、帝国主義の歴史的生命力への美化の理論というほかはない(もっとも解放派のように、帝国主義諸列強の「反革命的団結」のみを強調することは無知を基礎とした超帝国主義論的な漫画であって、検討の対象にもならない)。
 その第三は、ベトナム侵略戦争におけるアメリカ帝国主義の軍事的=政治的敗勢と、それを基軸としたアジア植民地・後進国支配体制の今日的動揺、すなわち、帝国主義的世界政策の破綻のもつ世界史的意義である。帝国主義戦争を内乱へ! という課題は、本来的には、帝国主義戦争の末期に現実性をもつものとされていたのであるが、こんにちでは、戦争の部分的継続とその終結のうちに具体的に設定されるべき課題として積極的にうけとめられなくてはならない。すなわち、ロシア革命とドイツ革命を典型とした戦後革命は、帝国主義的矛盾の帝国主義戦争としてのけいれん的爆発を世界史的条件としながらも、帝国主義戦争の総動員的な重荷に耐えきれなくなった国ぐにで起っている。帝国主義にとって世界政策の破綻は国内支配政策の動揺を意味するのであるが、ベトナム侵略戦争とアメリカ帝国主義の関係は、特殊部分的な構成をもって「戦後革命」的条件を成熟させているのである。まさに、勝利いがいに戦争の合理的解決はないのである。われわれは、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争と、日米安保同盟の再強化を基軸とした日本帝国主義の参戦国化の道にたいし、革命的敗北主義の立場にたった反戦闘争をもって迎え撃ち、帝国主義の世界政策の破綻を帝国主義打倒に成長転化させていく戦略的展望と組織的準備を、いまこそ、いっそう強めていかねばならないのである。
 
 第三章 世界危機の焦点=アジアにおける半植民地・後進国支配体制の動揺とその反動的再編成 ――七〇年闘争の革命的爆発を規定する世界史的条件(2)――
 
 七〇年安保闘争の革命的爆発を準備していくにあたって、第二に確認しなければならない点は、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺が、アジアを世界史的な焦点としてふかまりつつあること、すなわちベトナムにおけるアメリカ帝国主義の軍事的=政治的敗勢の決定化のなかで、日米安保同盟の再強化を基軸とするアジア半植民地=後進国支配体制の反動的再編成が、いっそう緊急で、いっそう凶暴な攻撃として要請されはじめているということであり、したがって、日米安保同盟を粉砕し、日本帝国主義を打倒するための日本労働者階級=人民大衆のたたかいは、帝国主義の世界支配とたたかう全世界人民の国際的闘争の最前線をきりひらくものでなければならないということである。
 
  アジア半植民地=後進国支配体制の超軍事的性格とその破綻
 
 アジアの危機を今日的に特徴づけている第一の要因は、古典的な旧植民地支配体制の全面的崩壊を歴史的条件としつつ、アメリカ帝国主義の圧倒的軍事力を基礎として形成されたアジア半植民地=後進国支配体制の超軍事的な性格とその破綻である。
 
 (1) 日帝の軍事的敗北と、危機の焦点としてのアジア
 
 アジアは戦後一貫して世界危機の焦点としての性格を保持しつづけ、戦後世界体制のもっとも構造的に脆弱な地域をなしているが、このような構造的脆弱性を歴史的に規定している最大の要因は、日本帝国主義の第二次大戦における伝統的アジア植民地支配体制の暴力的破壊と、日帝の軍事的敗北、戦後危機の到来にもとづくアジアにおける帝国主義的支配力の空白化にあった。
 第二次世界大戦は、周知のように、二九年恐慌にもとづく世界経済のブロック化と全般的縮少のなかで、第一次大戦とその戦後の復興過程で深刻化した帝国主義の不均等発展の矛盾が爆発し、その過程の発展のうちにソ連をも暴力的に包摂する、という特殊な様相をもたらしたのであるが、その第二次世界大戦の導火線となったのが、日本帝国主義の中国侵略であった。すでに、台湾、樺太、朝鮮、青島などを併合していた日本帝国主義は、二九年恐慌の深刻な打撃のなかで、その矛盾の打開策を中国大陸の侵略に集中し、太平洋戦争開始後は勢いにのって、東南アジア全域の暴力的分割戦に戦線を拡大していったのであった。かくして、日本帝国主義は、フィリピン(アメリカ)、インドシナ(フランス)、インドネシア(オランダ)、マレー、ビルマ(イギリス)という従来の植民地支配体制を軍事的に破壊し、略奪を除けばほとんどといっていいほど植民地経営に手をつけないうちに軍事的に敗北し、広大な地域に帝国主義的支配の空白を形成したのであった。
 帝国主義的侵略との抵抗闘争をとおして、あるいは、帝国主義列強間の強盗戦の間隙をぬって台頭したアジア諸国の民衆は、帝国主義支配勢力の後退のなかで、各地において民族独立闘争に決起したのであった。こうしたアジア各民族解放闘争の先頭にたったのが、旧仏領インドシナの民衆であり、中国の民衆であった。インドシナ独立宣言にたいしフランス帝国主義はただちに軍事的弾圧をくわえたのをはじめ、マレー、ビルマ、インド、そしてインドネシアなどにおいて独立を要求する民衆と旧宗主国とのあいだに血みどろの抗争がはじまった。また、中国、フィリピンにおいてはアメリカ帝国主義の支援する反動政府と独立解放を求める民衆とのあいだに激しい軍事的戦闘がくりひろげられた。また、朝鮮においては民族分割と信託統治に反対するたたかいが激しく燃えあがった。まさに、アジアの帝国主義的な復活を許すか否かの、帝国主義と旧植民地人民との死活をかけた闘争がはじまったのである。
 だが、帝国主義の側には、決定的な弱点が存在していた。それは、アメリカ帝国主義を除く他のすべての帝国主義諸国は、敗戦国はもちろん戦勝国においてすら、第二次世界大戦の過程をとおして極度の疲弊におちいっており、かつまた、戦後処理をめぐつて帝国主義本国そのものの政治的経済的再建に主要な力を傾注せねばならなかったことである。しかも、世界政策を遂行しうる唯一の帝国主義としてのアメリカは、戦後の世界政策の中心的任務を(1)戦後世界革命の決定的制圧(東欧および北朝鮮のソ連圏への割譲を代償とした西欧および日本の絶対的防衛)、(2)東欧と北朝鮮のソ連圏への官僚的包摂にもとづく「帝国主義と社会主義の世界史的分裂」の歪曲的拡大に対抗するための帝国主義陣営の軍事的、政治的、経済的な世界体制の形成、の二点におかねばならず、当然、その主要な関心はヨーロッパにむけられたのであった。
 
 (2) アメリカ帝国主義のアジア支配の軍事的性格
 
 帝国主義諸国、とくにアメリカ帝国主義が、アジアの植民地支配体制の反動的再編成のために本格的なとりくみを開始するのは、四九年の中華人民共和国成立の前後からであった。すでにアメリカ帝国主義は、日本の反動勢力と結合して戦後革命の危機を制圧しながら、日米関係を反動的基軸にしてアジア全体の反動的な軍事支配を準備しはじめた。その最初の攻撃が朝鮮戦争であり、それと前後した日本の極度の政治反動化であった。中国における民族解放闘争の勝利という有利な情勢のなかで、アジア各地における民衆のたたかいはあらたな高揚をむかえつつあり、南朝鮮では米帝のテコ入れで成立した李承晩政権が早くも崩壊の危機に直面していたのであるが、中国共産党による民族解放闘争の武装闘争への単純化、朝鮮戦争と、アメリカ帝国主義のそれへの介入、そして朝鮮解放闘争の「朝鮮戦争」への転化は、アジアにおける民族解放闘争をきわめて困難にさせるとともに、アジア情勢のいわゆるジュネーブ型への固定化を促進し、こうした固定化の背後で、帝国主義の巻きかえしは強められていった。
 かくしてアメリカ帝国主義は、五一年九月のサンフランシスコ講和会議を基礎に日本帝国主義を、自己のアジア支配政策の忠実な同盟国としてつなぎとめるとともに、ここを中継基地として南朝鮮、台湾および南ベトナムの軍事基地国家化を強行し、これらの軍事国家支配を軸として、アジアにおける半植民地=後進国支配体制の反動的再編成を超軍事的に押しすすめ、あらたな矛盾を準備していったのである。
 したがって、ベトナムにおける危機の爆発は、アジアにおける帝国主義の後進国=半植民地支配体制の軍事的基幹部そのものの動揺として、アジア全体の根底的動揺を意味せざるをえないのである。まえに指摘したように、アメリカ帝国主義は、イギリスをはじめとする帝国主義諸国の旧植民地支配力の後退につけこんで、インドから中東にかけての広大な地域を自己の勢力圏として制圧し、膨大な利益をそこから吸収しているのであり、それは、アジアおよび従来のラテン・アメリカ支配とあわせて、帝国主義の後進国=半植民地支配の圧倒的部分を占めていることになる。まさにアメリカ帝国主義にとって、ベトナム侵略戦争は世界政策を展開することのできる唯一の帝国主義として帝国主義体制を防衛するための不可避のたたかいであるが、それは同時に、国際列強間の争奪戦の激化をまえにして、アメリカ帝国主義が戦後築きあげた広大な後進国=半植民地支配体制の支配力と、そこからの利益をまもりぬき、アメリカ帝国主義の地位とドルの威信を暴力にかけても維持しよう、というアメリカ帝国主義のきわめて独自的な利害の貫徹の手段でもあるのである。
 
 (3) ベトナム侵略戦争の行きづまりとアジア太平洋諸国の反動的再編成
 
 だが、ベトナム侵略戦争の困難化、すなわち、五〇万を超える増派計画にもかかわらず、戦争の主導権がアメリカ帝国主義の手から次第に脱けおちていく、という昨年来のあらたな情勢は、アメリカ帝国主義の戦争遂行政策に根本的転換をせまったのであった。しかも、個人税、法人税の増税に象徴されるベトナム戦費の飛躍的増大は、一方では、軍需産業を中心とする独占資本のあいだには、景気回復のテコ入れとしての期待感を生みだしながらも、他方では、国際収支のいっそうの悪化として、はねかえらざるをえない運命にあったのである。ドルの威信をかけたベトナム戦の遂行が、同時に、ドルの危機を促進する、という悪循環が、いまや構造化してしまったのである。このジレンマから脱出する、現実に可能な方策はただひとつ、すなわち、いわゆる自由世界の総力戦化の道であり、アジア太平洋諸国家の総参戦国化の道であった。
 すでに、アジア太平洋諸国のあいだでは、アメリカ、南ベトナムはもちろん、韓国、台湾、マラヤ、フィリピン、ニュージーランド、オーストラリアなどベトナム参戦国化の動向が大勢を占めている。アジア太平洋諸国のこうした急激なベトナム参戦国化の動向のなかで、日米安保同盟政策を某軸としてアメリカ帝国主義との運命共同体的結合を推進してきた日本帝国主義は、基地使用、物資調達、労務提供を軸として日本をベトナム侵略戦争の全面的な兵站基地につくりかえてしまった。米軍基地はもちろんすべての港湾から鉄道、道路、そして空港がベトナム侵略戦争の遂行のために自由に使われており、重化学工業のベトナム特許化も不況の深刻化のなかで拍車をかけて進んでいる。またサンフランシスコ対日講和条約をとおして、アメリカ帝国主義の全面的な軍事支配下に譲渡された沖縄は、従来の戦略基地としての任務にくわえて、ベトナム侵略戦争の直接の出撃基地としての性格を強めており、すでにアメリカ帝国主義の内海に変貌している太平洋防衛線の最前線としての役割を占めはじめている。沖縄は、アメリカ帝国主義のアジア支配のための不可欠の軍事的保塁として、アメリカ帝国主義の世界政策のうちにしっかりと組みこまれてしまっているのである。
 だが、アメリカ帝国主義のベトナムにおける軍事的=政治的敗勢のふかまりは、ドル不安として進行する国際通貨体制の危機、黒人解放闘争、ベトナム反戦闘争の高揚として発展する国内政治支配の動揺と結合することによって、ベトナム侵略戦争を基軸とするアジア支配政策の行きづまりを暴露した。ついに、不敗の巨人・アメリカ帝国主義は、帝国主義の世界史的な死の苦悶をジョンソン声明としてもらしたのである。しかしながら、それはアジアの平和の到来を意味するものではなく、逆に、アメリカ帝国主義のアジア支配政策の極度に軍事的な性格をあばきだすとともに、ベトナムの敗勢にもとづく参戦諸国家の政治的動揺をまきかえすための反動攻撃の強化と、その矛盾の激化としてはねかえらざるをえないのである。
 観念的反帝主義者や、構改以下の観念的反スタ主義者たちの予想とはまったく反対に、アメリカ帝国主義は、パリ会談の背後で、ベトナム人民への凶暴きわまる殺りくをくりかえしているばかりか日米安保同盟の再強化を基軸にしたアジア半植民地=後進国支配体制のあらたな反動的再編成にむかって強盗的攻撃を強めているのである。すなわち、アメリカの強盗的侵略的指導者たちは、一方では、ベトナムからの軍事的=政治的敗退の危険に備えて、朝鮮半島およびタイ平原を「帝国主義者の側からの第二のベトナム」にしたてようとする軍事的陰謀を直接におし進めながらも、他方では、アジア支配政策の危機をまきかえす決定的な勢力として、日本帝国主義の全面的な軍事協力を強く要請し、そこにむかって安保再改定の歯車をまわしはじめているのである。
 周知のように、日本帝国主義は、従来、アメリカ帝国主義のアジア支配を前提とし、その、ためにも、ベトナム侵略戦争の兵站基地として日本列島の使用を最大限に便宜供与しながらも、その極度に異常な軍事的性格を側面から経済的に補強する方向でアジア諸国への膨張をつづけ、かくすることによって、いわゆる平定計画を後方から支援する、というアジア政策をとってきた。だが、ベトナム情勢の深刻化と、それを根拠として進行している朝鮮半島を「第二のベトナム」とせんとするアメリカ帝国主義の策動の強まりは、日本帝国主義の従来のアジア政策の存立条件をますますゆるがすこととなるのである。朝鮮における危機の激化は、まさに、日本帝国主義をして一衣帯水の情勢のなかにたたきこむであろう。したがって、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺、とりわけ、アジアにおける危機の激化と爆発と、それにたいするアメリカ帝国主義の反動的対応は、日本帝国主義の従来のアジア政策の反動的転換を「防衛的対応」をもって要請しているのであるが、それは同時に、つぎにみるような日本帝国主義の戦後的な再建=膨張過程から内在的に累積する、より強盗的で、より侵略的な御動と結合することによって、日米安保同盟政策への積極的姿勢を日本帝国主義に要請しているのである。
 
 二 日米同盟の再強化を基軸とする日本帝国主義の反動的登場
 アジアの危機を今日的に特徴.つけている第二の要因は、日米安保同盟の強盗的再強化を基軸とする日本帝国主義の反動的登場である。
 
 (1) 日本帝国主義の戦後的再建の特質
 
 第二次大戦における軍事的敗北以後、日本帝国主義は、アメリカ帝国主義の占領支配を背景として戦後の政治的動揺を制圧し、朝鮮戦争の特需ブームをテコとして経済的再建の基礎を固め、かくして、五五年を起点に重化学工業化を基軸とする高度成長の道をあゆんできた。日本帝国主義の復興過程は、いっさいの植民地、勢力圏を喪失するという異常な国際環境のもとで、基本的には、戦争による資本価値の破壊、および産業構造の転換を出発点としながら、アメリカ帝国主義を中心とする帝国主義戦後世界体制を前提とし、その有機的一環として発展してきたのである。もちろん、それは、戦後帝国主義の特色をなす「恒常的な部分的戦時経済」を世界史的規定としていることはいうまでもないが、にもかかわらず主要な軍事支出をアメリカの負担で代行するという特殊的な形態をもって、外見上きわめて平和的な発展をたどってきたのである。
 五〇年代の前半、朝鮮戦争(五〇年)と単独講和(五一年)をテコとして日本帝国主義の政治反動化は極度に進行し、戦前的暗黒政治への復帰の危険が問題とされる状況すら生みだしたが、破防法反対闘争(五二年)以来の政治反動に反対する民衆のたかまりと、ジュネーブ会議(五四年)以来の国際情勢の一定の平和的固定化、という内外する条件のもとで、政治的反動攻撃の部分的渋滞がみられるにいたった。五二年四月の講和発効後、五六年までつづいた憲法改悪をめぐる日本帝国主義と労働者人民との闘争を歴史的に規定した要因は、まさに(1)日本の民衆の圧倒的部分が文字どおり戦争の惨禍を経験しており、しかも、政治反動と戦争との相互関係について鋭い直観的警戒心をもっていたこと、(2)戦後の政治的激動の制圧、とくにレ・パや朝鮮戦争以後の政治弾圧が主として占領軍命令という異常な形態でおこなわれたため、講和発効後、政令の政治的適法性が失われてしまうと、事実として達成された政治反動とそれを維持していく法制的準備のあいだに極度の空隙が発生した、という二点である。そして、労働者階級と人民大衆は、この空隙を埋めるために強行的にうちだされてくる反動法案にたいして政治的反撃をくわえ、それを阻止してゆくたたかいのなかで、政治反動をじりじりと押しかえしていったのである。
 かくして、五〇年代の日本階級闘争は、平和と民主主義をまもる、という運動理念が外見上の有効性をもつものであるかのような仮象をとって発展し、また、日本経済の戦後的再建も本質的には異常な条件のもとにおこなわれているにもかかわらず、外見的には平和的な姿をとって発展しているという特殊的な状況をもって呼応したのである。こうした外見上の平和的性格が根底的に揺らぎはじめるのが、六三年以後の日本帝国主義の構造的不況の深まりのなかなのである。したがって、五〇年代には「平和と民主主義」は有効であるが、六〇年代に入って有効性を喪失した、などという見解は、まさに戦後の帝国主義が根本的にかかえている危機的性格にかんする完全な無知から帰結するものであるといえよう。
 
 (2) 日本帝国主義の構造的矛盾とその露呈
 
 だが、六三年以来、深刻化した日本帝国主義の経済的危機は経済過程を経済過程として処理することを外見的に可能にした条件そのものの矛盾の暴露をとおして、日本帝国主義の戦後的発展の根底によこたわる歴史的脆弱性=構造的矛盾をあきらかにするとともに、労働者人民にたいして、従来の平和的仮面をかなぐりすてて極度に凶暴な攻撃を開始せしめたのである。
 すなわち、まず第一の問題は重化学工業国家日本にとって先進国市場が決定的であるにもかかわらず、安定した市場が存在しないことである。日本帝国主義の戦後的発展は国内市場の拡大に依存してきたため、その矛盾は隠蔽されてきたが、高度成長の停滞は一挙にその矛盾を顕在化させるとともに、アメリカ市場へのますます不安定な依存を強めることによって、構造的脆弱性をさらに強めることとなった。そして、それは同時に、こんにち、世界の専制君主としての重荷に悩むアメリカ帝国主義が、日本にたいして大きな政治的=経済的圧力をかけてくる物質的根拠をなしている。第二の問題は、日本の国内市場の独占体制の未完成である。戦後的発展の基軸が重化学工業にあったことは、すでに指摘したところであるが、重化学工業は総じて新興の産業分野であり、かつまた、戦後の財閥解体・集中排除を基礎とする極度の流動性、および為替管理にもとづく温室的保護という二条件を立地環境としたため、いわゆる過当競争が激化したのであった。構造的不況と、それを圧力とする対外膨張の本格的開始、そして自由化というかたちで迫りくる外圧の強化は、こうした過当競争にもとづく対外競争力の落差を鋭く照しだしているのである。
 したがって、日本帝国主義はこうした内外する経済的危機を強行的に突破していくためには、第一には、労働者階級へのいっさいの犠牲の転嫁を基礎とした資本の集中、合併、整理、そしてカルテルなど独占の強化、第二には、先進国市場分割戦への絶望的介入と、東南アジアへの新植民地主義的膨張=資本市場、原料市場の獲得のための強盗的進出、第三には独占資本の救済のための赤字公債=財政支出にもとづく公共投資の拡大強化、公共料金の値上げなど大衆収奪の徹底、という攻撃をとらざるをえないことはいうまでもない。
 だが、こうした危機脱出政策は、こんにち、あらたな矛盾をつぎつぎとうみだしている。独占資本救済を基軸とした金融=財政政策の展開は、六四――六六年の構造的不況からの「脱却過程」をとおして日本帝国主義の脆弱でいびつな性格をますますあきらかにした。それは一方では物価上昇、労働者人民の生活の破壊、中小企業のあいつぐ倒産、農業危機と都市問題の累積として、社会的歪みを危機的に進行させながらも、他方では、過剰資本の積極的な整理が本格的にはおこなわれず、不況からの脱出過程そのものが、たえず「過熱化」の危険をはらむものとして展開されざるをえない、ということである。したがって、こうした過剰資本の未整理と、その結果としての過剰の商品は、海外市場への膨張の圧力をますます高めているが、それは、帝国主義世界の専制君主としてのアメリカ帝国主義の地位後退と、そのまきかえし政策をとおして激化の一途をたどるこんにちの世界情勢のなかではけっして容易な道ではないのである。
 
 (3) 対外膨張と日米同盟
 
 すでに六五年の日韓条約の強行を突破口として南朝鮮への植民地主義的膨張を開始した日本帝国主義は、従来のアジア外交の消極性をかなぐりすて、東南アジア開発閣僚会議(六六年四月)、アジア太平洋閣僚会議(同)、東南アジア連合の復活(同八月)、アジア開発銀行の発足(同十一月)、東南アジア農業会議(同十二月) などつぎつぎと大きな国際会議を主催し、アジアへの植民地主義的進出の基礎固めを精力的に遂行してきたのである。さらに昨年六月三〇日、朴韓国大統領の就任式に出席した佐藤首相は、十一月の訪米=日米会談をまえにして、台湾をはじめ、ビルマ、タイ、ラオス、南ベトナム、マレーシア、シンガポール、フィリピン、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランドの一一ヵ国を歴訪し、いわゆるアジア太平洋圏構想毎推進しようとしたのである。
 日本帝国主義は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争と、そのためのアジア太平洋諸国の総参戦国化の政策に対し「最も忠実な同盟国」として積極的な加担の政策を進めながら、アジアを日帝の原料資源市場=資本・商品市場として獲得しようというきわめて露骨な意図を示しはじめている。国内における過剰資本を整理し、悪化する国際収支を打開するためには、日本帝国主義は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の拡大への加担を強めながら、一方においては、アメリカにおける軍事費の増大と、それにもとづく対米輸出の増加、およびベトナム特需によるアジア市場の拡大への期待を強め、他方、アメリカ帝国主義をはじめとする帝国主義諸列強との競争戦にもうちかってアジアを自己の勢力圏として確保せんとする野望を強めている。
 事実、ビルマ以東のアジア地域では、日本帝国主義は、アメリカとならんで優勢な資本輸出率を示しており、昨年七月の段階でも、タイではアメリカ (三〇%) につぐ二四%、韓国ではアメリカ(三七%)をぬいて四〇%であるといわれており、この趨勢は強まるとも衰える様子はない。さらに、ビルマ、カンボジア、シンガポールなど、アメリカ帝国主義の支配権の弱い地域に進出は拡大しており、やがて焦点は豊富な原料資源(石油、アルミ、ニッケル、マンガン、スズ、木材)などをねらってインドネシアのうえにしぼられはじめている。
 だが、日本帝国主義のこうした野望は大きな壁に直面せざるをえない。もともと、古典的な植民地支配体制の崩壊しているこんにちのアジア情勢では、しかも世界危機の爆発点としての性格がいっそう強まっている情勢のなかで、それを「安定した勢力圏」として獲得することに多大な困難がともなうことはあきらかである。独自的に世界政策を展開する能力をもたぬ日本帝国主義が、自己のアジア政策をアメリカ帝国主義の世界政策の傘のもとで展開せねばならないことはいうまでもないし、また、実際にそうしたものとしてアジア進出がおこなわれていることは韓国、台湾、タイなどの例をみれば十分である。にもかかわらず、アジア市場の支配権の再分割をめぐつて日本とアメリカのあいだにもシノギをけずる強盗的抗争が同時にくりひろげられているのであり、むしろ、アメリカ帝国主義をはじめとする帝国主義諸列強の競争戦の激化という壁のまえに日本帝国主義のアジア侵略政策が阻止されているともいえるのである。たとえば従来日米両帝国主義は、いわゆる日米経済協力上の暗黙の了解事項として、南朝鮮とインドネシアを日本の勢力圏のようにあつかってきたが、最近では、南朝鮮をめぐつて日米の必死の市場競争が激化しており、インドネシアに対してはアメリカ帝国主義が日本を排除しながら資源開発権の独占化をはかる傾向を強めている。
 かくして、日本帝国主義は、アメリカ帝国主義とのあいだにアジア市場の支配権の分有をめぐる必死の強盗的争闘戦を展開しながらも、同時に英連邦から孤立したオーストラリア、ニュージーランドを包摂してアジア太平洋圏を形成する構想を追求しはじめている。しかしながら、こうした構想の推進は、まずもってアメリカ帝国主義の「同意」が不可欠である。しかも、まえに指摘したところの日本の先進国市場の不安定、対米依存性は、日本にたいするアメリカ帝国主義の発言力を強めており、日本帝国主義のベトナム侵略戦争への加担をふかめざるをえない物質的基礎となっているのである。
 したがって、日本帝国主義は、もともと、戦後帝国主義の世界史的特質、とりわけ、アジア情勢のきわめて異常な情勢に規定されて、アメリカ帝国主義との安保同盟政策を基本的世界政策として維持してきたのであるが、日本帝国主義の戦後的な再建=膨張に内在的基礎をもつ、その独自のアジアへの新植民地主義的膨張の展開は、アメリカ帝国主義のアジア支配を前提とし、それとのいわゆる経済協力政策を基軸としながらも、その内部にあっては、アメリカ帝国主義との間にアジア支配権の再分割をめぐつての諸矛盾を激化させてきたのであった。だが、このようなアジア支配をめぐる日米間の矛盾は、日米同盟政策の終末の運命を意味するであろうか。あるいはまた、アメリカ帝国主義のアジアからの後退と、それにかわる日本帝国主義のアジア支配の開始とを予測させるものであろうか。断じてそうではない。ASPAC(アジア太平洋諸国閣僚会議)にたいする日本政府の対応がはっきり示しているように、日本帝国主義はその独自のアジア進出=太平洋圏構想の展開を媒介として、逆に、日米安保同盟の再強化を基軸とするアジア半植民地=後進国支配体制の反動的=軍事的再編成にむかって、より積極的な姿勢をうちださざるをえなくしているのである。なぜならば、アメリカ帝国主義がアジアから後退せざるをえないようなアジア情勢の到来は、日本帝国主義のアジア支配の時代をいささかも意味するものではなく、日帝のアジア政策の崩壊、したがってまた、日本帝国主義の国内支配政策の破綻の世界史的弔鐘とならざるをえないのである。
 まさに、日米安保同盟政策は、日本帝国主義の存亡をかけた妥協なき基本的世界政策である。日米同盟にたいする日本政府の伝統的態度は、日本の独立と主権がアメリカ帝国主義の軍事的支配によって制限されているその結果としてなのではなく、日本帝国主義が帝国主義として延命していくためには、帝国主義諸国間の矛盾をも擬制的に統制して、アメリカ帝国主義の世界支配のうちに自己の命運を一体化しなければならない、という日本帝国主義の危機の世界史的特質を基礎としているのである。したがって、日米安保同盟政策を粉砕し、それを基軸とする諸実体(基地、施設、便宜供与、軍隊など)を撤去=解体するたたかいは、直接に、社会主義革命的課題を意味するものではないが、にもかかわらず、その勝利は日本帝国主義の基本政策の全面的破綻を意味するものであり、敵階級の命運をかけた反革命的制圧と、それを革命的に粉砕して進む労働者階級人民大衆の「革命的団結」を基礎としてはじめて可能なのである。日米安保同盟政策の実体をなす日本帝国主義を打倒する革命的綱領をもつもののみが日本の参戦同化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化の道、七〇年安保再改定阻止をめざす労働者階級=人民大衆の革命的爆発をかちとることができるであろう。
 
 三 沖縄解放闘争の綱領的諸問題―沖縄の永久核基地化反対、本土復帰・基地撤去
 
 アジアの危機を今日的に特徴づけている第三の要因は、日米安保同盟の再強化の矛盾の集約点として沖縄の本土復帰問題が登場してきたことである。
 昨年十一月の佐藤訪米=日米会談をまえにして、日本帝国主義は七〇年安保再改定をめぐる焦点として沖縄の「核基地つき返還」や「施政権返還」や「教育権の早期返還」など、段階的・機能的返還を示唆した具体的諸提案をまきちらしながら、日米会談の成果として「両三年のうちに解決」の約束をとりつけたという欺瞞的態度をうちだした。かくして、沖縄問題は一挙に七〇年安保の火点としてクローズ・アップされたのであった。日本帝国主義は、七〇年にむかって日米安保同盟政策への国民的合意をとりつけるために、あたかも日米安保再改定の道をとおして沖縄の本土復帰が実現されるかのような幻想をまきちらしはじめたのである。
 こうした政治的変化のなかで、一方では、いわゆる革新陣営の内部に「本土なみ返還」=基地つき返還論に賛同する右翼的動揺がうみだされてくるとともに、他方では、沖縄の本土復帰を日米両政府がすでに合意した既定政策であるとして、むしろ、その政策の実現過程で形成される帝国主義的ナショナリズムを警戒せよ、という軽卒な評論が雨後のタケノコのように簇生しはじめたのである。だが沖縄の本土復帰にかんするこのような誤った見解を粉砕し、労働者階級=人民大衆の革命的決起をもって沖縄の本土復帰をかちとっていくためにも、われわれは、沖縄問題が戦後日本帝国主義の発展においていかなる構造的位置をしめてきたのかを綱領的に検討してみる必要があるのである。まさに、ジョンソン声明として自己暴露されたベトナム侵略戦争の軍事的・政治的敗勢と、こうしたアジア支配の危機のまきかえしのための日米安保同盟の反動的再強化は、日本帝国主義が伝統的に沖縄とその県民にたいしてとってきた政策をいままた、あらたなアジア危機のなかで犠牲として強制しようとしているのである。
 
 (1) 帝国主義戦争の歴史的産物
 
 沖縄解放闘争の綱領的意義を検討するにあたってまず第一に確認しなければならない点は沖縄問題は太平洋戦争の歴史的産物であるということ、いいかえるならば、アメリカ帝国主義による沖縄の軍事占領=軍政支配という異常な事態は、アジアおよび太平洋の支配権をめぐる日本帝国主義とアメリカ帝国主義との軍事的死闘において日本帝国主義が敗北したという歴史的事実を出発点としていることにある。
 周知のように、日本帝国主義は二九年恐慌=世界経済のブロック化にもとづく矛盾のけいれん的爆発から暴力的に脱出するために、満州事変を突破口に大陸侵略を開始し、アジアにおける旧植民地体制の軍事的破壊=大東亜共栄圏の建設をめざしたが、アメリカ帝国主義の圧倒的な軍事的=経済的力量のまえに敗退し、いっさいの植民地と帝国主義的権益を喪失したばかりでなく、日本列島全体がアメリカ帝国主義の直接的な軍事占領下におかれるにいたった。沖縄諸島は太平洋戦争の最後の激戦地であり、文字どおり全住民の犠牲をかけて展開された唯一の本土決戦場であり、アメリカ帝国主義は、日本の敗戦に先だってこの地域を軍事的に占領していた。したがって、戦争の開始、遂行から敗戦・占領にいたる二〇年におよぶ苦しみのなかで、日本の民衆は幾多の犠牲をこおむってきたが、なかでも百万沖縄県民は本土決戦という異常な事態のなかで言語に絶する犠牲をしいられたのであった。米軍占領下にあっても、本土では日本政府が存在し、集会、結社、言論の自由が「占領軍政策に抵触しない」かぎりにおいて保障されたが、沖縄では、太平洋戦争の末期からこんにちにいたるまでの二二年間、百万県民は、アメリカ帝国主義の「軍事監獄」的支配に苦しめられてきたのである。
 いわば、百万沖縄県民は、日本帝国主義とアメリカ帝国主義とのどちらの側からも帝国主義的な戦争の犠牲を、戦後二二年たったこんにちまで直接しいられてきたということである。アメリカ帝国主義による沖縄県民への暴虐きわまる圧制・収奪と、これにたいする沖縄県民の全人民的反撃は、それゆえヤルタ体制を基礎とするアメリカ帝国主義の戦後処理政策すなわち軍事占領の継続=特殊な形態をもってする領土併合にたいする闘争であるとともに、帝国主義戦争の耐えがたき犠牲を沖縄県民に強制しこんにちになってなお平然としている日本帝国主義(天皇の島、日の丸の島)にたいして根底的に対決をせまるものとして把握されねばならない。
 したがって、アメリカ帝国主義の軍事占領の継続、その圧制と収奪にたいする全人民的反撃を爆発させ、勝利させていくためには、帝国主義戦争とその戦後処理にたいする革命的否定の立場、すなわち帝国主義戦争のプロレタリア的解決の綱領的立脚点が、運動の指導的根底にはっきりとすえられなくてはならないのであり、したがってまた、日本帝国主義打倒を戦略的課題とする本土の労働者階級=人民大衆にとって、沖縄県民の軍事支配にたいする解放闘争は日本革命の欠くことのできない有機的部隊をなしているのである。
 
 (2) 日米同盟の矛盾と犠牲の集中点
 
 沖縄解放闘争の綱領的意義を検討するにあたって第二に確認しなければならない点は、沖縄問題は日米安保同盟の矛盾と犠牲の集中点であるということ、いいかえるならば、日本帝国主義は、戦後、アメリカ帝国主義の世界支配政策を前提とし、それとの協力を基礎として、独自の再建=膨張の道をあゆんできたが、このような日本帝国主義の戦後の再建=膨張、その存立条件としての日米安保同盟は沖縄におけるアメリカ帝国主義の排他的な軍事支配権の国際法的追認を基礎としているという政治経済的事実の意味を徹底的にあばきだしていかわばならないということである。
 一九五一年九月のサンフランシスコ単独講和会議は、日本帝国主義の軍事的敗北=アメリカ帝国主義の軍事的占領にともなう戦後日本の革命的動揺を制圧した日米両国の帝国主義が、中国における人民政府の樹立、朝鮮戦争の勃発という異常なアジア情勢の発展のなかで、アジア人民にたいする侵略的・強盗的同盟と誓いあった反動的会議であったが、それは同時にサンフランシスコ平和条約第三条として、沖縄におけるアメリカ帝国主義の排他的=全一的な軍事支配権を国際法的に追認し、沖縄の本土からの分離」を決定的なものとした。それ以後、日本帝国主義は朝鮮戦争の特需ブームを基礎に五五年から六二年にわたって重化学工業化の飛躍的発展をとげるが、その背後では、沖縄の百万県民はアメリカ帝国主義の暴虐きわまる圧制と収奪のなかで、アジア侵略をめざす沖縄全島の核基地化の攻撃にさらされてきたのである。まさに、日本帝国主義は、帝国主義としての自己の命運を維持するために、アメリカ帝国主義に自己の領土の一部と、豊富かつ低廉な労働力を分割譲渡し、その犠牲のもとに戦後の平和的発展を許容されてきたのである。
 従来しばしば指摘してきたとおり、戦後の帝国主義世界体制は、二九年恐慌=世界経済のブロック化のもたらした歴史的矛盾を解決するものではなく、アメリカ帝国主義の圧倒的な軍事的=経済的力量を基礎に、いわばドル圏の世界的拡大という形態でもってブロック化の歴史的矛盾をび縫したものにすぎなかった。したがって西欧帝国主義の復活膨張は、ただちに、ドル=ポンドを国際通貨とする国際金融体制の構造的弱点を顕在化せしめたことはいうまでもない。だが、こんにちにおける危機の世界史的深さは、このような点の指摘につきるものではなく、まさに、帝国主義の戦後世界体制の矛盾がアメリカ帝国主義のうえに集中的に蓄積され、没落の苦悶にあえいでいるにもかかわらず、アメリカ帝国主義に対抗し、それにとってかわって世界支配政策を展開しうる帝国主義が存在しないという点にある。
 一方、日本帝国主義は、先進国市場、アジア市場の支配権の再分割をめぐつてアメリカ帝国主義との間に尖鋭な矛盾を生みだしながらも、なおかつ、軍事的にも経済的にもアメリカ帝国主義の世界支配政策を前提とし、それと協力することをとおしてのみ、先進国市場、アジア市場への膨張が確保されるという国際的位置にたっているのである。アメリカ帝国主義による沖縄の軍事要塞化は、それゆえ、日本帝国主義にとっても共同の利益を意味しているのである。
 したがって、日米帝国主義の沖縄の分離支配に反対し本土復帰を要求する百万沖縄県民のたたかいは、民族主義的に歪められた表現をとりながらも、その根底において、世界反動の枢軸としての日米安保同盟そのものを粉砕していく闘争としての意義をもっているのであり、したがってまた、日米安保同盟を必然化する日本帝国主義そのものの革命的変革を内包するたたかいとして発展していかざるをえない。もちろん、平和条約第三条の破棄を国際法的表現とする沖縄の本土復帰は、直接に安保.粉砕・日帝打倒を意味するものではないが、にもかかわらず、現実的にはそれは、日米安保同盟を枢軸とするアジア太平洋の帝国主義支配体制に根底的動揺を与えることなしには実現しえない課題であることを明確に把握することが重要なのである。
 
 (3) 参戦国化と核武装の最前線
 
 沖縄解放闘争の綱領的意義を検討するにあたって第三に確認しなければならない点は、沖縄問題はベトナム危機の日本危機への転化の過渡的集約点をなしているということ、いいかえるならばベトナム侵略戦争を爆発点=導火線とする帝国主義戦後世界体制の危機のふかまりのなかで、日本帝国主義は参戦国化と核武装の道を具体的にあゆみはじめ、それをめぐつて日本労働者階級=人民大衆とのあいだに鋭い政治的対決がまきおころうとしているが、日本全土のベトナム侵略基地化と政治的臨戦態勢化の攻撃と、それにたいする階級的=全人民的反撃を先制的に示すものこそ沖縄全島の侵略出撃基地化=永久核基地化をめぐる軍政府と百万県民との激突であることをはっきりとおさえておく必要がある。
 まさに、沖縄全島と百万県民は日本参戦国化と核武装の攻撃と犠牲の最先端にたたされているのである。沖縄の軍事支配=分離支配は従来においても沖縄全島の軍事要塞化のための決定的な政治的条件を構成してきたのであるが、ベトナム侵略戦争の激化のなかで沖縄の侵略出撃基地化=永久核基地化の攻撃があらたな規模をもって進展し、他方、このような攻撃への不満と抵抗がかつてない激しい爆発を示しはじめているこんにちでは、軍事支配=分離支配は寄港の絶望的発展を回避する唯一の政治的条件とすらいえるのである。
 ジョンソン声明に示されたアメリカ帝国主義の世界支配政策の調整的動揺は、沖縄政策をめぐる日米間の政治的矛盾に若干の混乱をもたらすだろうことはいちがいに否定しえない。だが、ベトナム戦局がいかなる推移をとろうとも、結局のところ、アメリカ帝国主義のアジア=太平洋支配体制の前線基地としての沖縄の役割は強まりこそすれ弱まるものでは断じてない。基地と施政権を分離して施政権のみを日本政府に返還するという自民党の欺瞞的政策は、もともと、本土の沖縄化、すなわち日本全土の侵略基地化=政治的臨戦態勢化を意図したきわめて悪質な攻撃であるのみならず、百万沖縄県民にとっては、本土復帰を代償とした現実の犠牲(沖縄全島の永久核基地化)の承認を意味するものである。
 まさに、沖縄の本土復帰、すなわち、平和条約第三条の破棄を国際法的表現とするアメリカ帝国主義の軍事支配=分離支配の廃絶のための闘争は、安保粉砕・日帝打倒を根底的に内包した革命的闘争として発展せざるをえないが、それと同時に、アジア侵略のための沖縄の永久核基地化=日本全土の侵略基地化を阻止するための闘争とかたく結びついているのである。日本全土の侵略基地化と政治的臨戦態勢化として進行する日米帝国主義の攻撃の激化と、それをめぐる階級的=全人民的な反撃の高まりは、まさに、ベトナム反戦闘争を七〇年安保闘争に具体的に媒介するものであり、それを今日的にもっとも集約的に示すものが、沖縄嘉手納基地のB52発着、三里塚空港建設、王子野戦病院開設、砂川=立川基地拡張、相模原市電波規制などをめぐる日米帝国主義と労働者人民の対立のふかまりである。
 われわれは、アジア侵略のための沖縄全島の永久核基地化の攻撃と、これにたいする百万沖縄県民の階級的=全人民的総反撃を日本全土の侵略基地化=政治的臨戦態勢化をめぐる日本階級闘争の最先端としてとらえかえすとともに、沖縄の本土復帰のための全県民的たたかい、すなわち、サンフランシスコ対日平和条約第三条の破棄を、国際法的表現とする、アメリカ帝国主義の軍事支配=分離支配の廃絶のための闘争を、世界反動の枢軸としての日米安保同盟を根底からゆりうごかす革命的闘争に発展させ、七〇年安保闘争の革命的爆発を具体的に媒介する巨大な契機としていかねばならない。沖縄は軍事的にはアメリカ帝国主義の強固な前線基地であり、不沈の軍事要塞であるが、それは同時に、日米安保同盟という側面からみるならば、政治的には、侵略的強盗的帝国主義者たちの伸びすぎた爪として、まさに階級的全人民的総攻撃の勝利のための巨大な保塁の一つを構築しているのである。
 
 (4) 沖縄の永久核基地化反対、本土復帰・基地撤去
 
 したがって、われわれは、沖縄の永久核基地化反対、本土復帰・基地撤去のたたかいの真の発展が日帝打倒――日米同盟粉砕という戦略的観点の貫徹なしには不可能であることにふまえながら、ます第一に、沖縄問題の内包する特殊的矛盾を明確につかみとり、ひき出す方向でたたかわねばならない。すなわち、日本帝国主義は、自己の帝国主義的命運をかけての七〇年安保再改定の政治的反対給付として「沖縄復帰」の検討を開始しながらも、究極的にはアメリカ帝国主義の世界政策のまえに後退を余儀なくされ、より凶暴で、より理不尽な攻撃をもって沖縄の核基地化を実現せねばならない、という矛盾した行動をすでにとりはじめていることである。それは、本質的には、佐藤内閣の政治的無能という問題に帰すべきものではなく、戦後帝国主義のきわめて異常な歴史的条件に規制されたところの、日本帝国主義とアメリカ帝国主義のいびつな同盟関係の内包する必然的矛盾としてとらえかえし、その矛盾を決定的にあばきだす方向でたたかわねばならないのである。
 われわれは、第二に、本土復帰のスローガンにたいする小ブル的反発をわれわれの戦線の内外から徹底的に一掃する必要がある。この小ブル的反発の発生根拠は、具体的闘争過程にたいする度しがたい召還にある。たしかに本土復帰を要求する沖縄県民のたたかいは沖縄自民党までも包摂したものとして展開されている。また復帰の対象たる日本はいぜんとして帝国主義日本である。だが、これらの事実から本土復帰をブルジョア民族主義への屈服とみなすことはあまりに幼稚というほかはない。沖縄問題の特殊性は、それ自身としてはなんの社会主義的要素も含まない本土復帰という要求が、現実には日米安保同盟に媒介されて帝国主義の反動的拠点を根底から揺るがすたたかいに転化しているということにある。カクマル派の諸君は一方では「本土復帰」のスローガンに反対しながら、他方では「サンフランシスコ条約第三条の破棄をとおして沖縄人民の解放をかちとろう」などという矛盾したことをいっているが、では「サンフランシスコ条約第三条の破棄」とは何か。それは、本土復帰そのものではないか。
 われわれは、第三に「沖縄の永久核基地化反対、本土復帰基地撤去」のたたかいの主力が本土のプロレタリアートであることを明確にせねばならない。もちろん、沖縄県民の英雄的闘争にたいして断固として支持を表明するとともに、沖縄プロレタリアートの深部において沖縄解放闘争の戦闘的推進を開始した革命的労働者を沖縄県党の組織化にむかってたかめていかねばならない。だがすでにみたように、沖縄問題は、日帝打倒――日米同盟粉砕の世界史的変革過程のうちにのみ、いっさいの解決の道がある以上、このたたかいの責任を一〇〇万沖縄県民の独自の闘争に孤立させてはならない。戦後二二年、分離の苦しみのうちに呻吟する沖縄県民のたたかいにたいし、日本労働者人民の全国的=民族的なたたかいの前進をもってつつみこんでいかなくてはならない。世界帝国主義の軍事的要塞に監禁された一〇〇万の労働者人民をまずもってわれわれの手にとりかえすこと、それは、日本の解放、したがってまた世界の解放のたたかいにむかって、巨大な勝利の第一歩である。
 
 第四章 日本帝国主義打倒・七〇年安保粉砕へ闘いの戦列をうち固めよう
 
 激動の七ヵ月をたたかいぬき、さらにあらたな革命的激動にむかって巨大な前進を開始しつつあるこんにち、われわれが確認しなければならない点は、日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策の維持と粉砕をめぐつて日本帝国主義と労働者階級=人民大衆の激突は必至であること、そして、われわれ革命的共産主義者は、七〇年の大激突をして日本帝国主義の革命的打倒=プロレタリア独裁国家の樹立の突破口とするために、その政治的=組織的力量のすべてをかけてたたかいぬかねばならない、ということである。
 周知のように、わが同盟は、反帝国主義・反スターリン主義を世界革命の綱領的立脚点とし、日本帝国主義打倒=日本社会主義革命をその個別的戦略課題として、過去十年間、日本階級闘争の最前線をたたかいぬき、そのなかで、あらたな革命的労働者党の創成にむかって営々たる努力をつづけてきた。
 レーニン、トロツキーを先頭とするロシア・ボルシェヴィキが大十月革命に勝利し、世界社会主義革命の突破口をきりひらいてからすでに半世紀たったこんにち、われわれ革命的共産主義者は、いぜんとして、(1)帝国主義国家権力の連続的打倒、(2)民族植民地問題のプロレタリア的解決、(3)プロレタリア独裁国家をテコとする、社会主義にむかっての過渡期社会の建設、という相互に規定的な二〇世紀的課題の実現を革命的綱領としてたたかいつづけているが、一国社会主義理論と平和共存政策をテコとした国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲と、それにもとづく「帝国主義から社会主義への世界史的過渡期」の「平和共存形態」への歴史的変容を基礎として、帝国主義打倒・世界革命達成という二〇世紀的課題のうちに反スターリン主義という特殊的任務を綱領的反省契機として包摂させるものとなった。帝国主義打倒の道は、同時に、帝国主義の補助的支柱としてのスターリン主義打倒の道と相互に固く結びついている。また、ソ連、東欧、中国などにおける過渡期社会のスターリン主義的変質(それは、プロレタリア独裁の解体と、過渡期の擬制的労賃制=プロレタリア的平等主義の官僚制的歪曲に代表されるところのものであるが)の克服の道もまた、一国社会主義理論と平和共存政策の粉砕を媒介として、帝国主義打倒の道に結びついている。まさに、この点に、二〇世紀後半のプロレタリア世界革命の具体的な特殊性があるのであり、この事実を避けてとおることは、現実にはスターリン主義への屈服、したがってまた、革命の放棄いがいの何ものも意味しないのである。
 反帝国主義・反スターリン主義という世界革命の綱領的立脚点は、世界革命の一環として日本帝国主義打倒=日本社会主義革命を達成していくうえで、その革命的方向性を照しだすものである。それは、そもそも、個別の国家権力の打倒は世界革命綱領を基礎とし、その一環として展開される、という一般的基準にもとづくものであるが、しかし、同時にそれは、日本革命の直接的課題をも鋭く規定するものなのである。
 その第一は、戦後日本帝国主義の世界史的存立条件としてのヤルタ体制=ポツダム体制にたいし革命的プロレタリアートはいかなる態度をとるべきか、という問題である。
 戦後日本革命の試金石は、まさに、この一点にあったが、日本共産党(野坂参三)の悪名高きアメリカ占領軍の「解放軍規定」は、日共=野坂の個別的な誤りにとどまらず、戦後世界革命の敗北=帝国主義戦後体制の確立にかかわる普遍的な誤謬の一構成部分であったのである。すなわち、第二次世界大戦は、二九年恐慌にもとづく世界経済のブロック化の矛盾が帝国主義ブロック間の暴力的衝突としてけいれん的に爆発したものであり、その軍事的過程のうちにソ連をもドイツ対ソ侵略を媒介として暴力的に包摂するものとして発展したのである独ソ不可侵条約=モロトフ・リッペントロップ協定を頂点とするスターリンのドイツ帝国主義との協商政策は、帝国主義的矛盾の暴力的爆発のまえに、無残にも崩壊したのであるが、「一国社会主義理論と平和共存政策」のこのような破局的危機を民族共産主義への後退で回避しようとしたスターリンとその党は、帝国主義ブロック間の軍事的衝突にたいし、これをファッショ陣営と民主陣営の戦争と規定してアメリカ帝国主義の強盗的戦争を美化するとともに、第二次大戦の終了=帝国主義的戦後処理にかんして「東欧および北朝鮮の緩衝地帯化=ソ連圏への官僚制的包摂を代償とした、戦後世界革命の制圧=アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制の確立」をヤルタ体制として承認し、その具体的保証として第三インター=コミンテルンの解散をおこなったのであった。ドイツの東西分割、朝鮮の南北分割の悲劇は、ヤルタ体制の歴史的産物そのものであった。(なお、ジュネーブ体制なるものは、中国革命=東南アジア革命にもとづくアジアの帝国主義的支配体制の動揺を、ヤルタ体制を基底として、ベトナムの南北分割、台湾の反共軍事基地国家化、朝鮮の南北分割の再確立、沖縄の軍事基地化を軸に再確立したものであるといえよう)
 したがって、日本の労働者階級=人民大衆は、戦後の革命的激動期において、崩壊の危機にひんする日本帝国主義にたいし、これを革命的に打倒するのか、あるいは、これの救済に努力するのか、という綱領的選択に直面したのであるが、それは同時に、ヤルタ体制の日本版=ポツダム宣言にもとづいて日本を軍事的に占領し、労働者階級=人民大衆の日帝打倒への激動的志向を軍事的に制圧したアメリカ帝国主義の帝国主義的戦後処理政策と、ポツダム宣言の順守を要求してアメリカ占領軍政策を積極的に擁護したソ連スターリン主義の反階級的対応政策にたいする革命的対決を不可避としていたのである。日本共産党のように、戦後日本革命の基軸をポッダム宣言順守=民主革命に設定することは、アメリカ帝国主義の戦後処理政策への屈服を意味していたのである。
 その第二は、日本帝国主義の日米安保同盟政策にたいし、革命的プロレタリアートはいかなる態度をとるべきか、という問題である。
 すでに検討してきたように、戦後日本帝国主義の基本的世界政策をなす日米安保同盟政策は、帝国主義の戦後的特質を媒介とするきわめて危機的な帝国義の延命策であるが、日共=スターリン主義者は、これにたいし、日本がアメリカ帝国主義によって軍事的=政治的=経済的に従属化されていることの結果としてとらえ、安保条約の破棄を「日本の独立」をかちとるたたかいとして位置づけ、日本帝国主義の帝国主義としての命運をかけた攻撃としての本質的側面を隠蔽し、安保同盟政策とのたたかいと、安保同盟政策の実体をなす日本帝国主義とのたたかいとを、機械的に分離してしまったのである。もともと、日本共産党は、五一年九月のサンフランシスコ会議にたいし、全面講和を要求し、単独講和に反対する=日本の植民地化・従属化反対という態度にでたのであるが、このサンフランシスコ会議そのものが、アメリカ帝国主義にとって、中国革命の衝撃にもとづくアジア半植民地=後進国支配体制の崩壊的危機を日帝の巨大な生産力と潜在的軍事力をアジア侵略に動員することをもって阻止しようとするものであると同時に、日本帝国主義にとっても、日米同盟を基軸に帝国主義的再建=発展の道をあゆもうとするきわめて強盗的な性格をもった攻撃であることにかんして、完全に無視し、六〇年闘争においても基本的には同じ態度を踏襲したのであった。
 一方、右翼スターリン主義者としての日共構改派は、六〇年安保闘争において、日帝自立論を唱えることによって、日本帝国主義の日米安保同盟政策のもつきわめて深刻な性格を隠蔽する役割をはたしたのである。構改派の反独占闘争なるものは、あくまで反独占であって、帝国主義の諸矛盾を帝国主義打倒でもって解決しようとする綱領的方向性をもつものではなく、日米安保同盟政策をめぐる階級的激突を日本帝国主義の存亡をかけたものとしてうけとめるはずもなかったのである。
 ところで、現在、日本共産党は、参院選挙をまえにして「通告にもとづく安保解消論」とでもいうべきものを精力的に主張しはじめた。従来、安保同盟をアメリカ帝国主義による日本の従属の結果としてとらえてきた日共=スターリン主義者は、こんどは一転して、議会の一片の決議をもって容易に解消しうるもののごとく説明し、かくすることによって、七〇年安保闘争の革命的爆発にむかって前進する日本労働者階級=人民大衆の武装解除を背後から開始したのである。だが、宮本や上田のような合法スターリン主義者がどう夢想しようと、帝国主義戦後体制の反動的支柱をなす日米安保同盟の粉砕をめざすたたかいが、議会内の一片の決議をもって達成されるぐらいなら話しはかんたんである。もちろん、われわれは、もし議会において安保破棄の決議がおこなわれるとすれば、それが労働者人民の革命的決起に与える影響を重視するものであるが、また、それゆえにこそ、日本帝国主義の政治委員会は、あらゆる脅迫と誘惑とをもって、こうした決議を制圧するであろうことも疑う余地はないのである。(論より証拠、いわゆる「民主連合都政」においては東交合理化案は強行採決され、公案条例撤廃は提案すらされないではないか)
 問題は、まさに、日本帝国主義の存亡をかけた基本政策=日米安保同盟政策にたいし、日本労働者階級=人民大衆の革命的爆発をもって迎え撃つことができるか否か、にあるのであるが、スターリン主義者は、このような革命と反革命との二者択一的な階級的激突にたいし、「解消通告」などという議会主義的幻想をふりまきながら、自己の歴史的没落を暴力的に回避するために、現実には「民主勢力の団結」=「正当防衛」の名のもとに労働者人民の革命的闘争にむかって文字どおりの武装襲撃の準備をすすめているのである。したがって、われわれは、七〇年安保闘争の革命的爆発をきりひらくためには、帝国主義権力の強権的弾圧はいうにおよばず、これと呼応した日共スターリン主義者の反労働者的襲撃を実力で粉砕しぬくことが不可避となるのである。
 その第三は、日本革命の戦略的課題にかんして、革命的プロレタリアートはいかなる態度をとるべきか、という問題である。
 本来、労働者階級は、自己と敵対的に対立する資本の積極的止揚をとおして自己の解放をかちとっていくのであるが、そのためには、まずもって資本家階級の独裁国家を粉砕し、労働者階級の独裁国家を樹立し、そのもとに資本家的財産を没収することが必要である。(「二重権力的団結の思想」なるものは、労働者階級の自己解放のたたかいが「プロレタリアート独裁の政治的過渡期」を媒介的過程とすることを理解しえない社民的思想そのものであって、マルクス主義とは緑もゆかりもない奴隷のイデオロギーである)。まさに、帝国主義国家権力の革命的打倒、プロレタリアート独裁国家樹立の問題を、革命の当面する中心課題として現実的に戦略化することから避けようとするところに、いっさいの日和見主義が派生するのであるが、日共スターリン主義の二段階戦略こそ現代革命におけるもっとも危険な権力論である、といわねばならないのである。
 周知のように、資本主義の帝国主義段階は、資本の蓄積の主要な形態を、株式会社を基礎とする金融資本様式におくものであって、それは、小商品生産者など非資本主義的生産関係において形成される生産物の商品化と、それにもとづく資金を、資本の再生産の前提とすることを意味するものである。資本主義は、もともと、旧社会の分解にもとづく労働力の商品化の増進をもって発展するのであるが、資本主義の帝国主義段階への世界史的推転は、逆に、旧社会の分解を徹底化しないでえられる利益が独占資本の蓄積にとって必要となるようになるのである。かくして、独占的な重化学工業の巨大な発展は、同時に、小農、小商工業者など零細経営からの膨大な収奪の網を存立条件として維持される、という逆転した関係をつくりだすのである。またドイツ、ロシア、日本のように遅れて出発した資本主義は、その本源的蓄積が金融資本形態をもっておこなわれるために、農村の分解は徹底的に推進されず、旧社会の残像のうえに資本主義的発展への対応形態(ドイツではユンカー経営、日本では過小農を基礎とする高利貸的地主制)をそれぞれ形成しながら、金融資本の発展のテコとなっていったのである。
 このような資本主義の帝国主義段階への世界史的推転はプロレタリア革命にとって一方においては、農民=農業問題を労働者解放のたたかいのうちにどう解決すべきか、という課題を権力論として鋭く焦点化させるとともに、他方においては、帝国主義的矛盾の世界戦争としての爆発、したがってまた、民族=植民地問題の激発を世界プロレタリア革命にどう転化すべきか、という課題を戦略論として提起することとなった。二〇世紀初頭におけるレーニンとトロツキーの革命的苦闘は、まさに、(1)農民=農業問題、(2)民族=植民地問題、(3)帝国主義戦争問題、という具体的な二〇世紀的課題をプロレタリア革命の勝利にむかってどう解決すべきか、という点にあったのであり、黒田寛一のように、こうした具体的課題の媒介的=理論的解決を捨象しながら、プロレタリア権力の本質論をもってレーニンやトロツキーの独裁論をなで切るということ(『現代における平和と革命』参照)は、客観主義いがいの何ものでもないのである。レーニンの帝国主義論こそ、このような具体的課題をプロレタリア革命のうちに統一的に解決する方法論的視点をつくりだしたのであり、それゆえにこそ、レーニンは四月テーゼに結晶されたところの労農同盟論を基礎としたプロレタリア独裁論への飛躍をもって、トロツキーの永久革命論をも超えたのであった。
 だが、一九二四年十二月に「一国社会主義社会建設論」を唱えてマルクス、レーニンの世界革命論を破壊したスターリンは、トロツキーとの論争のなかで古参ボルシェヴィキの「労農独裁論」を右翼的に改編した二段階革命論を完成していったのである。すなわち、ブハーリンとの合作であるコミンテルン第六回大会(二八年)決定の「コミンテルン綱領」において世界革命をモザイク的に分解し、(1)「著しく発展した生産力、強度に集中された生産をもち、小経営の比重が比較的に小さくブルジョア民主主義的政体がすでに久しい以前から存在している高度に発達した資本主義諸国(合衆国、ドイツ、イギリスなど)」(2)「農業における半封建的関係の著しいかすをもち、社会主義の建設のためにやっと足るほどの最小限度の物質的前提をもち、ブルジョア民主主義的変革がなお終っていない、中位の資本主義的発展段階にある国々(スペイン、ポルトガル、ポーランド、ハンガリー、バルカン諸国など)」(3)「植民地・半植民地諸国(中国、インドなど)および独立諸国(アルゼンチン、ブラジルなど)」の三つの型に図式化し、第一の型には社会主義革命、第二の型には、あるものには「ブルジョア民主主義的性質の広範なる任務をもったプロレタリア革命の型」他のあるものには「ブルジョア民主主義革命の社会主義革命への急速な転化」そして第三の型には反封建・民族独立のための闘争、をそれぞれに比定させたのであった。このようなスターリンの世界革命のモザイク的な類型化の誤りは、本質的には、資本主義発達の程度=社会主義建設の物質的前提条件と、プロレタリア独裁権力の主体的成立条件との混同にあるが、それは同時に帝国主義段階論にふまえたレーニン革命論の発展にかんするスターリン、ブハーリンの無理解を意味したのである。
 スターリンの二段階革命論によってもっとも深刻な打撃をこうむったのは、いうまでもなく、わが国の革命運動であった。戦前において、例の三二年テーゼにおける「今日の日本の条件下にあってはプロレタリア独裁への道はただブルジョア民主主義革命の道によってのみ、すなわち、天皇制を打倒し、地主を収奪し、プロレタリアート農民の独裁を樹立する道によってのみ到達しうる」という規定によって日本帝国主義とその権力としての天皇制国家は機械的に切断され、二九年恐慌にもとづく死の苦悶を大陸侵略の道をもって解決せんとした日本帝国主義の攻撃と、これにたいする労働者階級人民大衆の反撃とを日本帝国主義打倒の方向に指導すべき前衛的努力は極左トロツキスト的偏向としてしりぞけられ、階級的実体なきブルジョア民主主義革命の道のみが、プロレタリアート農民のまえに示されたのであった。このような誤謬は、戦後の革命的激動期にもそのままもちこまれ、解放軍規定と結合することによって、日本帝国主義の延命を綱領的に支えるものとなったのである。
 だが、二段階革命論の反動的役割は、アメリカ占領軍にかんする日共の態度が「解放軍規定」から「帝国主義的占領軍規定」に変更されたあとも、あらたな形態をもってひきつがれ、安保闘争の革命的爆発にたいしきわめて有害な影響をなげかけているのである。すなわち、日共=スターリン主義者は、第二次大戦後に起ったアメリカ帝国主義による西ドイツおよび日本の軍事占領を、第二次大戦、すなわち、どちらの側からも帝国主義的な戦争の歴史的産物としてとらえるのではなく、アメリカ帝国主義による西ドイツおよび日本の植民地化=従属化の攻撃として規定して「民族解放民主革命」(五一年綱領)という漫画的綱領をかかげたのである。五一年講和、六〇年安保改定として、日米関係が日本帝国主義の日米安保同盟政策を基軸とするようになってからも、なお、かれらは、日米安保同盟を相互に帝国主義的な強盗同盟としてとらえることができず、六一年綱領において若干の手直しをくわえながらも、結局、「反帝・反独占の人民民主主義革命」などという折衷主義的規定をもって日本帝国主義打倒=日本社会主義革命の戦略規定に強固に反対し、いぜんとして「民主主義革命から社会主義革命への急速な発展」というスターリン的規定にしがみつくことによって、日本帝国主義の日米安保同盟政策を粉砕するための労働者階級=人民大衆のたたかいと、日本帝国主義打倒をめざすたたかいとのあいだに、万里の長城を築いているのである(他方、米独間の占領関係は、西独のNATOへの加盟という形態をとって帝国主義同盟に改編された)。したがって、われわれ革命的共産主義者は、七〇年闘争を日本帝国主義打倒=日本社会主義革命の突破口としてたたかいぬくためには、安保闘争を議会主義の洪水に埋没させ、プロレタリア革命への発展の道を綱領的に阻止しようとする日共=スターリン主義を徹底的に粉砕することが決定的なのである。
 以上の指摘からもあきらかなように、きたるべき七〇年安保闘争は、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺がアジア危機として爆発せんとする異常な情勢のなかで、日本帝国主義の存亡をかけたものとして展開されることは疑う余地もないのである。ベトナム侵略戦争におけるアメリカ帝国主義の敗勢の深刻化は、経済的帝国主義者、観念的反帝主義者、観念的反スターリン主義者たちの「ポスト・ベトナム論」的幻想とは正反対に、アジアにおける矛盾の爆発をいっそう強めながら、危機の焦点を朝鮮半島――日本列島のうえに鋭く転移しはじめているのである。一方、日本帝国主義は、これまで、六三年以来の構造的不況を公債発行を基軸とする財政金融政策の展開と、ベトナム特需にもとづく対米貿易の拡大とをもってとりつくろってきたが、このような異常な条件のもとでかえって強まった設備投資の過当競争は、より破局的な経済危機の爆発の危険をたかめつつも、当面、大型合併の進行、中小企業・零細企業の徹底的な整理と収奪、労働者への労働強化と合理化攻撃のいつそうの激化として集約されていかざるをえないであろう。このような犠牲の労働者人民への転嫁の攻撃は、労働者人民の不満と抵抗の契機を累積させざるをえないが、それは同時に、矛盾の激化にたいする日本帝国主義の強権的支配の強化をも意味せざるをえないのである。
 われわれ革命的共産主義者は、日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策と、その諸矛盾にたいする労働者階級=人民大衆のたたかいを、日本帝国主義打倒の突破口をきりひらくものとして意識的に受けとめ、その勝利にむかってたたかいぬこうとしているが、それゆえにこそ、きたるべき七〇年安保闘争は、(1)帝国主義戦後世界体制の一大反動枢軸を粉砕し、(2)ベトナムを爆発点=導火線とするアジア危機を帝国主義本国の革命的危機に目的意識的に転化し、(3)国際共産主義運動のスターリン主義的変質を革命的に打開する現実的突破口をきりひらくものとしての位置と意義をもつものなのである。したがって、それは、革命と反革命との不可避的な激突を意味しているのであり、革命的前衛組織の系統的な政治指導なしには、けっして勝利しうるものではないのである。激動の七ヵ月をたたかいぬくなかで経験的にかちとられた「革命の現実性を媒介とした、革命的労働者党の建設」の方向をさらにうち固め、七〇年安保闘争の歴史的試練に耐えうる革命的前衛組織として、わが同盟の飛躍的な強化を達成するためにも、すでにふみだした歴史の大道を確信をもって前進することが、いま、われわれに要請されているのである。昨年夏の同盟第四回大会において「ただ前進することのみが情勢をきりひらく、という局面がものごとの発展過程にはかならず存在するものだ、ということを勇気をもって確認すること」が報告されたが、それは、いぜんとしてわれわれの行動信条でなければならないのである。
 〔未完=なお、(続)では、階級諸関係・政治的諸過程の解明をとおして「七〇年への道」を検討していく予定である。〕
          (『共産主義者』一八号、六八年八月に掲載)