二 勝利にむかっての試練
    革命的共産主義運動の10年とわが同盟のすすむべき道
 
 十・八羽田闘争にはじまる激動の七ヵ月のまっただなかに迎えた六八年新年の『前進』巻頭をかざった本論文は、革命的共産主義運動一〇年の歴史を、現在的に、厳格かつ簡潔に総括したうえにたって、六八年のたたかいの指針を力強くうちだした名文である。
 
 日本階級闘争の新段階――破防法攻撃の意味するもの――
 
 歴史の重いうねりのなかで、いまわれわれは、二つの羽田闘争を頂点とする反戦闘争の高揚から七〇年安保闘争の激動にむかっての戦闘的展開をきりひらこうとしている。
 想えば、一九六七年は闘争につづく闘争の一年であった。帝国主義の体制的危機をかけた凶暴な攻撃の激化に抗して、労働者人民の血みどろの反撃の一歩、一歩が、六七年の日本の階級闘争をあざやかに彩っている。ブント=社学同の恥ずべき裏切りをはねかえし、官憲と白色テロの重圧のなかで明治大学学費闘争の前進をきりひらくために追求された苦闘の日々。二・二六砂川集会を突破口に五・二八、七・九闘争の爆発をかちとり、七〇年安保闘争の戦闘的拠点を形成した砂川闘争。杉並選挙闘争をテコに都知事選挙への革命的介入をはかり、これを、二一年にわたる自民党都政を打倒し自民党政治支配体制を根底的に揺るがすたたかいへと発展させていった春の統一地方選拳闘争。帝国主義とこれに屈服した美濃部都政の東交合理化=大衆収奪の攻撃にたいする労働者人民の苦渋にみちた反撃のはじまり。反戦青年委員会の解体の策動を粉砕し、七〇年安保闘争にむかっての戦闘的強化をかちとった広島反戦集会。三菱大独占=ダラ幹支配の重圧をやぶって長崎、福岡、下関、広島、三原、神戸、名古屋、横浜、東京で戦闘的反撃を開始した三菱重工八万の仲間たち。二八五名の大量検挙をはねかえし処分撤回・二教自再建の勝利的闘争をきりひらいた法政大のたたかい。二つの羽田闘争を頂点とした激動の五週間。沖縄の永久核基地化に反対し、本土復帰・基地撤去を要求する沖縄県民と本土人民との団結のふかまり。公団と日共の内外相呼応した破壊工作を粉砕し三里塚空港建設実力阻止のたたかいをおしすすめる三里塚・芝山の農民。独占救済の大合理化攻撃とのたたかいのなかで、日本労働運動の戦闘的進撃にむかって不屈の苦闘をつづける国鉄、全逓など公労協、地方公営企業の仲間たち。学費値上げ実力阻止の強烈なる闘争を準備しつつある中大のたたかい。そして、官憲・市・大学当局・体育会右翼学生の想像を絶する弾圧と迫害に抗して全員加盟制自治会の戦闘的防衛をかちとった高崎経大のたたかい。……一九六七年の日本階級闘争の激動を赤い糸のごとくつらぬいている、これらの諸闘争の一つひとつは、日本帝国主義の体制的危機をかけた攻撃にたいする労働者人民の血みどろの反撃の一歩一歩であったが、それは同時に、これら諸闘争の先頭に一貫してたちつづけ、それゆえにこそ、敵権力の弾圧と謀略の集中砲火をあびせられたわが同盟の文字どおり死活をかけた血みどろの戦闘と再武装の一日一日であった。日本階級闘争の基本的性格を一挙に転換させたところの十・八羽田闘争は多くの人びとにとって青天のへきれきのようにみえたかもしれないが、にもかかわらず、それは、六七年の諸闘争総体のうちに脈絡づけて総括するならば、偶然のできごとでも、意外な衝撃でもなく、起こるべくして起った歴史の重きうねりであったとみることができよう。
 いま、われわれは、十・八羽田闘争以後の異常なる敵権力の弾圧と監視の重圧のなかで、第二の羽田闘争を正々堂々とたたかいぬき、帝国主義の大合理化攻撃との不屈のたたかいを国鉄で全逓で東交で展開しつつ、六八年初頭に予定されるエンタープライズ=原子力空母・艦艇群の佐世保寄港を阻止するたたかいの戦闘的=大衆的爆発にむかって確信にみちた進撃を開始しょうとしている。それはただ、十・八羽田闘争とその後の異常なる階級関係の発展を例外的な偶然としてではなく、日本帝国主義の体制的危機をかけた攻撃と、これにたいする労働者人民の血みどろの反撃とが必然的に生みだされざるをえないものとしてうけとめ、その先頭にたって血路を開いたもののみが、よくなしうるものといわねばならない。
 六七年の日本階級闘争において日本共産党がた どった貧相で厚かましい反労働者的策動とその失敗や、日本社会党の度しがたい混乱と動揺について、いまここで論じようとは思わない。だが反帝・反スターリン主義の綱領的旗印をかかげながら羽田闘争に敵対し、革命的共産主義運動におけるメンシェヴィキとしての道を明白にあゆみはじめた山本派=自称革マル派、また、革命的空語をもてあそびながら「敗北主義と日和見主義」につきうごかされて左翼スターリン主義と社会民主主義のあいだを右往左往するブント=社学同と社青同解放派――これら戦闘的諸派の諸君が、わずか一年のあいだにかくも政治的衰退をはやめているのはなぜであろうか。その深部の理由が帝国主義の危機の時代の到来をまえにしたスターリン主義と社会民主主義の必然的な屈服と動揺にもとづくものであることはいうまでもないが、それは同時に、六七年の日本階級闘争を赤い糸のようにつらぬいた諸闘争の激発にたいし、山本派=自称革マル派、ブント=社学同、社青同解放派の諸君が、ただただ、追従的同伴者として参加するか、批判的評注家としてふるまうか、という二つの方法しか行動の規範をもちえなかったことと無関係ではないのである。
 こんにち、日本帝国主義権力は、十・八羽田闘争以後的な階級関係に相応した弾圧機構の反動的再編成をなしとげるとともに、破防法攻撃を現実に展開するものとして、わが同盟と革命的共産主義運動にたいし憎悪にみちた監視と弾圧を日に日に強めている。かれらは、われわれの諸闘争にたいし血の弾圧をくわえ、不当逮捕、強制捜索をほしいままにしたばかりか、わが同盟活動にたいする張りこみ、尾行、聞きこみ、おどし、内偵など、卑劣きわまる攻撃をかけてきている。
 一方、言論機閲にたいする敵権力の謀略攻撃も熾烈の度をくわえており、同志山崎博昭の「れき殺」説や、マル学同中核派の「衰退」説など、得手勝手な報道管制をもって、われわれの社会的孤立と組織的破壊を準備しようとしている。
 だが、われわれ革命的共産主義者は、反動のなかに暗黒をみいだし、弾圧のなかに障害をみいだし、監視のなかに拘束をみいだすだけでとどまろうとはしない。問題はまさに逆であってわが同盟とそれを先頭とする革命的共産主義運動にたいする帝国主義権力の反動、弾圧、監視の強化は、革命の現実性にたいする支配階級の消しがたい恐怖の裏返しされた表現いがいのなにものでもないのである。歴史の未来は、ただ、このような反動、弾圧、監視を勝利のための不可避の試練としてうけとめ、不屈の進撃をつづけうるかどうかにかかっている。
 われわれはそれゆえ「羽田からエンタープライズ」への歴史の画期をみずからの手できりひらくものとして、革命の現実性を媒介するものとして、まずもって日本革命的共産主義運動の歴史的発展を確認するとともに、いまこそ、帝国主義の体制的危機を基礎とする階級闘争の生きるか死ぬかの血みどろの対決の時代に耐えうる前衛部隊への命がけの飛躍を達成していかねばならない。
 
 転機に立つ革命的共産主義運動
 
 周知のとおり、日本における革命的共産主義運動の創成のたたかいは、日本共産党を代表とする戦後日本革命運動の敗北と屈服の歴史にたいする徹底的な自己批判から出発した。六全協(五五年七月)問題として露呈した日本共産党の度しがたい腐敗の姿は、戦後日本革命の敗北と壊滅、極左冒険主義、破防法攻撃を転機とする右翼的後退の歴史の「道徳的」反映であったが、このようなプロレタリア的自己批判に到達するためには、われわれは、ソ連共産党二〇回大会(五六年二月)におけるスターリン批判、ハンガリア革命(五六年十月−十一月)とそれにたいするソ連官僚政府の血の絞殺という痛苦にみちた歴史的現実にたいする共産主義者としての責任をかけた対決が不可欠であった。
 われわれは、六全協問題として露呈した日本共産党の腐敗にたいする弾劾を反官僚主義一般や、文学的批判に後退させることなく、一方では、砂川闘争(五六年十月)、国労新潟闘争(五七年八月)、日教組勤評闘争(五七年十二月――五八年十月)、警職法闘争(五入年十月――十一月)として連続的に生起した諸闘争のうちに日共指導部とプロレタリア運動との和解せざる矛盾を主体的につきだしておきながら、他方では、日本および国際共産主義運動の歴史的再検討=マルクス主義の理論的・綱領的再構成のたたかいをとおして日本共産党の敗北、屈服、そして腐敗を「世界革命のスターリン主義的変質」の日本的現実形態としてとらえかえしていったのである。かくして、若き革命的共産主義運動は、世界革命のスターリン主義的変質を内的に規定している「一国社会主義理論と平和共存政策」を粉砕し、マルクスの世界革命論の現代的再生と、その一環としての日本革命の勝利にむかっての組織的準備を日本共産党の内外において開始した。
 だが、わが若き革命的共産主義運動はただちに、その創成の苦しみとして二つの困難に直面した。第一の困難とは、いうまでもなく、スターリン主義の否定=革命的共産主義の現代的展開の創造をトロツキー主義の教条主義的理解をもって代置しようとするものであり、それは基本的には、(1)第四インターの歴史的破産として暴露されたトロツキー主義の組織論的弱点、(2)現代世界の歴史的性格=綱領的把握にかんする第四インターの規定(反帝・労働者国家群無条件擁護)の親スターリン主義的本質への屈服を意味するものであった。われわれは、トロツキー教条主義との闘争をとおして「反帝国主義・反スターリン主義」の綱領的立脚点を確立しつつ、革共同の第一次分裂(五八年七月)、第二次分裂(五九年八月)として同盟の純化をかちとっていった。
 第二の困難は、ある意味ではこんにちにおいてもなお未解決の課題ともいうべきものであるが、それはこのような綱領的立脚点を物質化すべき革命的主体の思想的・政治的・綱領的成熟にかんする問題であった。すなわち、われわれは、五八年夏において太田=栗原派との第一次分裂をとおして綱領的深化をかちとり、同盟中央書記局を黒田=山本を中心とする革命的マルクス主義派(=探究派)をもって完全に掌握したのであるが、それは逆に、革命的マルクス主義派なるもののサークル主義的限界と組織的=政治的無能を一挙に暴露するものとなった。
 五八年夏当時、学生戦線においては平和擁護闘争路線の現実的破産と、勤評闘争および全学連の指導路線をめぐる学生細胞と日共中央指導部の対立激化のなかで、スターリン主義と革命的共産主義との歴史的分裂の過程が学生共産主義者総体をとらえはじめていたのであり、いわゆる五八年転換は不可逆の道をあゆみはじめていたのであるが、五八年後半におけるわが同盟探究派の解体的危機は、一方では、西派=第四インターのヘゲモニーのもとでの同盟の再建を不可避ならしめるとともに、他方では、左翼化しつつあった学生共産主義者の圧倒的部分をブント(五八年十二月結成)という中間的段階に固定する決定的要因となったのである。かくして、われわれは西派というかたちで強化された第四インター=トロツキー教条主義との闘争をとおして五八年秋の解体的危機の主体的基礎を克服し、同盟全国委員会の創成(五九年九月)に勝利していったのであるが、その思想的・政治的・組織的強化は、主として安保闘争そのものの実践的過程をとおしてようやく前進したのであった。
 五九年――六〇年の日本階級闘争を鮮やかに彩っている安保闘争は、社会党、共産党など既成左翼の破産を一点の重りもない明瞭さをもって社会的に暴露するとともに、既成左翼をのりこえてブリリアントな活動を開始した若き革命的左翼の歴史的登場をもって特徴づけられたのである。この若き革命的左翼の主力をなしたのは、ブントに結集した旧日共党員の学生共産主義者であった。かれらはスターリン主義と決別した革命的労働者党の創成のための綱領的=組織的立脚点において幾多の弱点を内包しながらも、革命的英雄主義と、それを支えたところの五六年の全学連再建以来の政治的成熟をもって安保闘争の戦闘的激動をつぎつぎと展開していったのである。
 それは、同時にまた、五九年九月に敗北のなかから再建されたわが同盟にとって、反帝・反スターリン主義の綱領的立脚点を生きた体系として発展させるとともに、同盟の最深部によこたわるサークル主義を非妥協的にたたきだすための苦闘の日々であった。
 だが、五・一九以後的な安保闘争の自然発生的高揚は、それが十一・二七国会構内集会、一・一大羽田デモ、四・二六国会デモ、五・一九国会デモ、そして六・一五国会突入デモとして展開されてきた全学連のたたかいに触発され、つき動かされて形成されたものであるにもかかわらず、わが同盟をもふくめた若き革命的左翼の政治的=組織的力量の決定的脆弱性の結果として、岸政府打倒=安保改定粉砕という戦闘的変革の方向にまでたかめられることなく、「平和と民主主義=国会解散」の方向に集約されていき、ついに敗北を喫したのであった。安保敗北後、ブントは安保闘争を「半勝利」と評価し、その要因をいくつかの戦術局面における戦術的不徹底性にもとめ、それを契機として対立と分解をふかめていったのであった。事実、ブントのこのような総括の方法それじたいが、かれらの戦術左翼的限界、すなわち、スターリン主義運動の直接的な左傾化をもって運動総体の革命化を達成しようとしたブントの綱領的=組織論的弱点の戦術的表現であったのであるが、それは同時に、安保闘争をひたむきにたたかいぬいたもののみが、血のにじむ痛みをもって自己批判し、克服していくべき歴史の試練であったのであり、わが同盟をふくめた革命的左翼総体の生みの苦しみであったともいえるのである。
 かくして、安保敗北の教訓を「反帝国主義・反スターリン主義を綱領的立脚点とする革命的プロレタリア党の創成のためのたたかい」として総括したわが同盟は、その旗のもとにブントの革命的翼を結集し、革命的プロレタリア党建設にむかっての苦闘を開始した。わが同盟は、米ソ核実験反対の反戦闘争、合理化攻撃にたいし、三六協定拒否などの創意的な職場闘争をつみかさねていった国鉄、全逓、全電通のたたかい、六二年参院選挙闘争などをとおして一定の政治的組織的前進をかちとっていったが、それを基礎として、同盟三全総(六二年九月)は、(1)戦闘的労働運動の防衛(2)地区党組織の建設を基軸とした同盟の一大飛躍を提起したのであった。だが、五八年秋の同盟の解体的危機、安保闘争をとおしての同盟の再建と発展の歴史からなにひとつ学びとることができず、また、わが同盟の直面している組織的実践的任務に無自覚な一部の同志たちは、一度はみずからも両手をあげて賛成した三全総決定にたいして大衆運動主義、議会主義として反対し、あまつさえ、大管法闘争をとおして発展しつつあった学生戦線の戦闘的統一行動を破壊し、わが同盟組織に深刻な打撃を与えながら同盟の戦列から逃亡していったのである。このような逃亡者たちの零落した姿こそ、わが同盟への見当はずれの評注家になりさがった文字どおり一握りの山本派=自称革マル派のこんにちである。
 想うに、同盟三全総を契機とした山本派=自称革マル派の脱落(革共同の第三次分裂=六三年三月)は、わが同盟と革命的共産主義運動にとってきわめて不幸な事態であった。それは、わが同盟の学生組織を決定的に壊滅せしめるとともに、革命的左翼の分裂のいっそうの深化と、ブントなどの中間諸派の延命をもたらしたのである。だが、すでに一定の歴史的推移を経験したこんにち、われわれは、第三次分裂もまた同盟のボルシェヴイキ的再武装と組織的前進にとってけっして無駄な月謝ではなかった、ということをじつに朗らかな気分で宣言することができる。事実、わが同盟は、三全総以後の諸闘争、とくに、四・一七スト、原潜、ベトナム、六五年参院選、日韓、杉並、東交のたたかいのなかで従来の地平を完全に突破する戦闘的労働運動の新段階をきりひらき――また学生組織の巨大な再建と、それを基礎とした全学連の戦闘的再建をかちとってきたが、このような・発展は、山本派=自称革マル派との非妥協的なたたかいなしには断じて成立しうるところのもので、はなかったのである。
 日本帝国主義の新植民地主義的侵略の道・日韓条約を阻止するための六五年日韓闘争の深刻な総括と、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の深刻化のなかでむかえた同盟第三回大会(六六年れ月)は、三全総以来の同盟の飛躍的前進を勝利的に確認するとともに、(1)帝国主義の戦後体制の根底的動揺の開始と、日本帝国主義の体制的危機の深まり、(2)これにたいするスターリン主義陣営の一国社会主義的対応の歴史的破産を鋭く指摘し、何もって危機の時代にむかっての同盟の再武装と、安保・小選挙区――諸闘争の激発という戦術的展望をうちだすことをとおして、日本帝国主義の体制的危機をかけた攻撃と、これにたいする労働者人民の反撃のたたかいとが、今後ますます生きるか死ぬかの血みどろの様相を強めていくであろうことを提起し、その具体的準備を開始したのであった。六六年十二月の歴史的な全学連再建大会を跳躍台としてひきつがれた六七年の激動を根底的に支えた綱領的=戦術的視点こそ、まさに同盟第三回大会が確立した決定的方向性であったのである。
 六七年の春、いまはすでに没落の道を歩むブント書記長の水沢君は、われわれにむけた批判のなかで愚かにも、アメリカ階級闘争にたいするわれわれの戦略的期待の不毛性について語り、美濃部知事が勝ってもすこしも激動は起きないではないか、とあざけりわらった。だが、事実はどうか。歴史は水沢君の軽薄な批判を正しく裏切って、アメリカと日本の両国人民がアメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争とこれへの日本帝国主義の加担の道にたいし、ベトナム反戦という共同の事業をもって応えたのである。まさに、二つの羽田闘争を頂点とする激動の五週間は、七〇年安保再改定にむかってベトナム参戦国化と沖縄の永久核基地化の道をあゆもうとしている日本帝国主義の基本プランにたいし決定的な痛打を与えたのであるが、このような戦闘的反撃の展開は、革命的共産主義運動の創成のための一〇年のたたかいを基礎としてはじめて可能となったのであり、それゆえにこそ、この激動の五週間はわが同盟の死活をかけた血みどろの闘争の日々であったのである。
 
 帝国主義の危機と階級闘争の質的転換
 
 帝国主義権力による、わが同盟とそれを先頭とする革命的共産主義運動にたいする憎悪にみちた破防法攻撃の強化は、日本帝国主義のベトナム参戦国化と核武装への道・七〇年安保再改定を阻止するための労働者階級と人民大衆の共同の事業の最前衛にわれわれが終始一貫してたっているという階級的事実にもとづいていることはいうまでもない。だが、同時にわれわれは、帝国主義権力の極度に異常な憎悪と、日本階級闘争の急激なる質的転換が、帝国主義の戦後世界体制の根底的動揺と、そのもとにおける日本帝国主義の体制的危機によって媒介的に促進されていることについて明確に直視しなければならないのである。
 ポンド危機として露呈した国際通貨体制の根底的動揺は、平価の一四・三%切り下げ、公定歩合の八%という危機レートへの引き上げにもかかわらず、イギリス帝国主義の没落の命運をいっそうくつきりと浮びあがらせるとともに、国際通貨の基軸をなすドル危機をゴールド・ラッシュ(金選好)という形態をもって尖鋭にゆるがしはじめた。もちろん、ドル・ポンドを中心とする国際通貨体制にたいするフランス帝国主義の挑戦なるものは、本質的にはきわめてイデオロギー的な性格のものであり、ドル圏・ポンド圏が世界市場において占めている圧倒的地位にとってかわる世界政策を展開しうるものではない。だが、問題は、まさにドル・ポンド危機として深刻化した国際通貨体制の根本的な動揺が、帝国主義の戦後世界体制のもつきわめて異常なる人為的統一性をその基礎からゆるがしているばかりでなく、ポンドの危機・ドル不安が、逆に、ドイツ、フランス、イタリア、日本などの二流帝国主義の命運のうえにより深刻な没落の影をなげかけはじめているという点にある。
 もともと、戦後の国際通貨体制なるものは「世界の工場・世界の銀行」としてのイギリス資本主義の没落と、両大戦をとおしての世界の富のアメリカ帝国主義への異常なる圧倒的集中を基礎とするものであり、二九年恐慌を契機とする世界経済のブロック化を人為的なドル撒布政策をもって隠蔽しようとするものにすぎなかった。しかも、それは、アメリカ帝国主義の圧倒的な軍事的=経済的力量を背景にドル圏を強制的に世界化しようとしたにもかかわらず、ドル・ポンド体制という名称が示すとおり、ポンド圏を解消することができず、往時のイギリス資本主義の地位にとってかわることはできなかった。したがって、アメリカ帝国主義は、戦後世界体制の矛盾をたえずイギリス帝国主義のうちにシワ寄せをすることをとおして世界支配を強めてきたのであるが、EECの台頭とイギリス帝国主義の没落のいっそうのふかまりのなかで、ドル危機=地位後退という世界的困難に直面したのである。帝国主義の体制的危機のふかまりのなかでブロック経済への全面的復帰はならず、さりとて、アメリカ帝国主義にかわって世界政策を展開しうる帝国主義が存在しうるはずも、ない――こうした世界的ジレンマのなかに国際帝国主義は苦吟しているのである。
 アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争は、まずもって、アジアにおける半植民地=後進国体制の動揺にたいする帝国主義の命運をかけた侵略戦争であるが、それは同時に、(1)ベトナム侵略戦争をテコとしてアメリカ帝国主義の専制的地位を他の帝国主義列強に軍事的=政治的に強制し、(2)スターリン主義陣営の対応の無力さを暴露し、何かくして、アジアの半植民地=後進国体制の反動的=暴力的再編成を達成し、インド、中近東、ラテン・アメリカからの巨大な植民地主義的収奪の権益を維持しようとするものである。
 それは、帝国主義の戦後世界体制の矛盾の爆発点であるとともに、より破局的な矛盾の爆発にむかっての導火線の位置を次第に強めているのである。帝国主義の戦後体制は、国際通貨体制の危機とベトナム侵略戦争の深刻化という相互に規定的な過程をとおって根底的動揺をさけがたい勢いでふかめているのである。
 EECの台頭、日本の復興という態様で現象した資本主義の不均等発展は、ドル・ポンド体制を.動揺せしめ、アメリカ帝国主義の世界支配を基底的に脅かす要因となっていることはすでにみたとおりであるが、ポンド危機・ドル不安・金選好としての世界経済の傾向は、ぎやくに、ドイツ、フランス、イタリア、日本などの二流帝国主義の前途にきわめて異常な危機を準備しているのである。
 周知のとおり、戦後日本帝国主義は、アメリカ帝国主義の世界政策を前提とし、その一翼として重化学工業化を基軸とする高度経済成長を達成してきたが、六三年以来の経済危機のふかまりのなかで、(1)独占救済のための財政金融政策の展開、(2)資本の整理、集中、合併、労働者支配の強化、(3)対米輸出の強化と、東南アジアにむかっての新植民地主義的膨脹、総じていうならば、犠牲の労働者人民にむかっての血みどろの転嫁をもって延命の道をきりひらいてきた。南朝鮮にむかっての再侵略の開始、独占体への全面的な救済措置、合理化と賃金抑制の攻撃、物価上昇と大衆収奪、都市問題と農業危機、中小企業の相つぐ倒産、道路交通問題と土地とりあげ……。だが、こうした帝国主義の体制的危機をかけた攻撃の全面的展開にかかわらず、日本資本主義は、経済危機の根底的要因をなす資本の過剰を基本的に整理することができず、より血みどろな大衆収奪と労働者支配の強化をもってその危機を脱出しようとしているにすぎない。
 社会的矛盾はいたるところに累積し、爆発にむかって危機をふかめている。独占救済の財政金融政策は、物価問題、都市=農村問題として都市住民、農民のあいだに不満と抵抗を増大させている。民間独占体の危機を救済するための運輸・通信など社会資本部門の全面的な大合理化攻撃、費用削減=賃金抑制と反動的再編をめざす国公・地公機構整理の攻撃は、日本労働者階級の背骨をなす公労協労働者、地方公務員労働者のあらたな戦闘化を生みだしているが、同時に、資本の労働者支配が日に日に強められている民間部門においても、賃金抑制と労働強化にたいする不満と抵抗が職場に渦巻きはじめており、スクラップ・アンド・ビルドの合理化のまえに新たな戦闘的対決の機が熟しはじめている。
 こうした社会的矛盾をもっとも集約的に示すものこそ、日本帝国主義のベトナム参戦国化と核武装=沖縄の永久核基地化を主内容とする七〇年安保再改定の道である。まさに、日本帝国主義は先進国市場をめぐつて、また、アジアの支配権の再分割をめぐつてアメリカ帝国主義とのあいだに尖鋭な矛盾をうみだしながらも、その特殊な国際的位置に規定されて、国際通貨問題において、またアジア支配政策においても、アメリカ帝国主義の世界政策のうちに自己の命運を一体的に結びつけていくいがいに、いかなる方法も残されていない。戦後日本の政治過程は、(1)戦後日本帝国主義の復興がアメリカ帝国主義の超軍事的な世界政策を前提とすることによって政治的には平和的様相をとりえたこと、(2)悲惨なる戦争=被爆体験を基礎とした反戦意識=反戦運動の根強い存在、を二要因として、防衛問題について政府が迂回政策をとる傾向が伝統的に強かったが、いまや佐藤政府は、内外する危機をまえにきわめて攻撃的な方向に転じょうとしている。だが、それは、沖縄の永久核基地化の政策とともに、ベトナム危機を日本危機に媒介する異常な攻撃であり、戦後二二年間の日本階級闘争の全成果をかけた血みどろの反撃戦へと発展せざるをえないのである。七〇年にむかっての歴史のうねりのなかで、日本労働者階級と人民大衆のこの生死をかけた共同の事業の最前衛にたって勝利的にたたかいぬけるかどうか――まさに、この一点のうえに、わが同盟と革命的共産主義運動のいっさいの命運が、したがってまた、日本労働者階級と人民大衆の未来がかかっているのである。
 
 勝利にむかっての試練
       ――革命の現実性を媒介するもの――
 
 われわれは、このような階級的責務に立派に耐えぬきうるであろうか。
 たしかに、情勢が要請する任務は、われわれの主体的条件にとってあまりにも過酷な重みをもって迫ってくる。だが、われわれは、このような重みに耐ええないほど脆弱では断じてない。
 わが同盟と革命的共産主義運動は、すでに十年の苦闘の歴史を経験している。同盟の基幹部は五六年以来の階級闘争の激動と後退の試練に耐えぬいた同志たちによって形成されている。そしてなによりも力強い保障として、二つの羽田闘争を頂点とした激動の五週間をたたかいぬき、官憲の凶暴な弾圧と謀略に耐えぬいた力をすべての同志たちがひとしく有している。われわれには孤立と激突に耐えうる強執な革命的精神と、高揚と激動にひらけゆく政治的熟達へのたえることなき努力が、脈々と生きつづけている。この力があるかぎり、いかなる脅迫も、いかなる弾圧も、いかなる反動も、われわれから革命を奪うことはできない。
 嵐の時代は目前に迫っている。七〇年安保闘争は、うたがいもなく、生きるか死ぬかの血みどろのたたかいに発展していくであろう。このような階級闘争の激動を勝利的にたたかいぬくためにはすべての革命的共産主義者が、マルクス主義の革命理論で強固に武装されるとともに、「反帝国主義・反スターリン主義」の綱領的立脚点が階級闘争の全局面にわたって照らしだされ、具体化されていくこと、すなわち「反帝国主義・反スターリン主義」の綱領的立脚点を死んだ教条としてではなく、革命の現実性を具体的に媒介する生きた行動の指針にまでたかめていくことがいまなによりも必要とされているのである。
 孤立を恐れぬ断固とした行動の展開をとおして幾百万大衆の獲得へ!
 われわれは、いっさいの力をふりしぼって勝利にむかっての歴史の試練にたちむかっていくであろう。
            (『前進』三六五号、六八年一月一日 に掲載)