羽田闘争の意義とたたかいの展望
 
 わが革命的共産主義運動の、否、日本階級闘争の新しい時代をきりひらいた六七年十・八羽田闘争の歴史的総括である。革命の現実性の視点から、透徹した七〇年代激動への展望がうちだされている歴史的文書である。
 
 
 アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争に反対し、日本帝国主義の参戦国への道・佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するために決起した労働者学生五〇〇〇のたたかいにたいし、日本帝国主義とその政治委員会=佐藤政府は、支配階級の暴力装置としての警察機動隊を総動員して血の弾圧をくわえ、同志山崎の若き生命を奪いさったのみならず、いっさいのブルジョア報道機関を使って「反戦運動」を犯罪視する反動的宣伝を開始し、そのうえ、山崎君虐殺の責任を学生にすりかえるという恐るべき謀略を展開してきた。十数年前、朝鮮戦争の前夜に三鷹、下山、松川事件をフレーム・アップし、反戦勢力の壊滅的打撃を策謀した日米両帝国主義は、いままた、ベトナム侵略戦争の深刻化と日本帝国主義の参戦国化をまえにして、全学連をはじめとする反戦勢力の決定的破壊のために、凶暴きわまる弾圧と恐るべき謀略を駆使しはじめたのである。
 他方、十月八日に多摩湖畔で「赤旗まつり」なるものをおこない、十・八羽田デモにたいし妨害のかぎりをつくした日本共産党は、支配階級の反動宣伝と相呼応して全学連を「暴力学生集団」とみなすデマ宣伝を展開し、労働者学生五〇〇〇のたたかいにたいする官憲の血の弾圧と、これにたいする不屈の抵抗闘争とにかんして、これを「反動と反革命トロツキストの衝突」(『赤旗』十月一〇日下司談話)と評価した。あまつさえ、官憲による山崎君虐殺にかんしては、国民救援会の席上では青柳盛雄日共法対部長が「官憲虐殺説だが、当面、組織内にとどめる」との微妙な見解をとりながらも『赤旗』紙上では「れき殺説」を肯定的に報道する、という恥ずべき態度をうちだしている。十数年前、三鷹、下山、松川事件という一連のフレーム・アップのまえに、政治的後退をつづけ、レッド・パージの攻撃、朝鮮戦争の策動にたいして有効な反撃をなにひとつ組織しえなかったとはいえ、日本共産党は、日米反動勢力に敵対する唯一の抵抗勢力としての旗印をまもりつづけてたたかったが、いまや、日米帝国主義のあらたなる弾圧と謀略をまえにして支配階級の攻撃に屈服し、反動宣伝と相呼応して全学連を非難することをもって自己の保身をはかるところまで堕落をふかめている。
 かくして、帝国主義とスターリン主義との「前方と後方からの相呼応した攻撃」のまえに、十・八羽田デモは敗北のうちに溺れさるかのごとき様相すら示している。破防法適用すら問題化するきびしい階級情勢のなかで、スターリン主義者の裏切り、社会民主主義者の動揺はもちろんのこと、革命的左翼を自称する諸勢力のあいだにも、ありとあらゆる「日和見主義と敗北主義」が派生し、十・八羽田デモの革命的意義を清算しようとするセクト主義的策動がうごきはじめている。自分たちが社会党内勢力であることを異常に強調する社民左翼分派をはじめとして、弾圧のきびしさのまえに指導責任を放棄するもの、そして「電撃的攻勢論」の名のもとに十・八羽田デモの革命的意義を否定し、自己の日和見主義を合理化しようとするものなど、こうしたいっさいの「日和見主義と敗北主義」は、十・八羽田デモを正々堂々とたたかいぬき、それゆえにこそ、敵権力の集中的な弾圧にさらされている真実の革命的左翼にむかって恥ずべき中傷と誹謗をくりかえしている。
 だが、十・八羽田闘争の革命的意義を清算することは何者もなしえない反動的試みでる。同志山崎の死と、無数の仲間の鮮血をもって書きしるした真実は、墨の力をもっても消しさることはできない。帝国主義者の血の弾圧と謀略、これと相呼応した日共スターリン主義者の裏切り、社会民主主義者の動揺、そして、革命的左翼を自称する諸勢力のあいだでの「日和見主義と敗北主義」の発生――こうした一連の深刻な事態にもかかわらず、支配階級のベトナム参戦国化の戦争政策と、十・八羽田デモへの弾圧政策にたいし、全国の大学で、労働戦線で、知識人のあいだで、農民のなかで、力強い反撃が、いま進展している。十・一三反戦デモ(七〇〇〇名)、十・一四献花デモ(五〇〇名)、十・一七中央葬(一万名)、十・二〇軍需物資輸送阻止闘争(立川三〇〇〇名、浜安善八〇〇〇名)、十・二一反戦集会(昼夜六万名、うち全学連七〇〇〇名)と連続的に発展した首都のたたかい。これと相呼応して展開された全国各地のたたかい、とくに同志山崎の故地関西における広範な抗議闘争の波状的展開。まさに、これらの闘争の発展は、十・八羽田デモの精神が、学生戦線のみならず、帝国主義的攻撃と苦闘する労働者、知識人、農民のこころのうちにふかい衝撃をもってうけとめられていったことを意味している。ブルジョア報道機関の圧倒的反動宣伝にもかかわらず、山崎君中央葬に樺さん国民葬の三倍もの会葬者が参列したという事実は、支配階級の反動攻撃がけっして勝利しうるものでないことを明確に示している。
 
 労働者・学生の非妥協的な組織的抵抗闘争
 
 十・八羽田闘争の第一の意義はこのたたかいが日本帝国主義のベトナム参戦国への道・佐藤首相の南ベトナム訪問にたいし、文字どおり死をかけた阻止のたたかい≠ニしておこなわれたことにある。周知のとおり、日本政府は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争を無条件支持する唯一の帝国主義政府であり、従来、日本列島とその諸施設をベトナム侵略戦争の兵站基地としてアメリカ帝国主義に全面的に提供してきたが、ベトナム侵略戦争の軍事的困難化をまえに、いまや、公然と「加担の政策から参戦国への道」をあゆみはじめた。このような転換を画するものこそ、佐藤首相の南ベトナム訪問であったのであり、したがって、この攻撃をやすやすと許すことは、ベトナム侵略戦争に反対する全世界のたたかいにたいする日本労働者人民の裏切りいがいのなにものでもなく、ひいてはまた日本労働者人民にたいする日本帝国主義の戦争と反動の攻撃に道をゆずりわたすことを意味していた。十月八日の羽田における労働者学生五〇〇〇のたたかいはまさにこうした支配階級の反動と戦争の政策にたいする日本労働者人民の反戦の意志の行動をとおしての表明であった。だからこそ、十・八羽田デモは日本の労働者人民のこころを根底からゆるがすとともに、ベトナム侵略戦争の遂行者たちを戦慄せしめ、ベトナム侵略戦争に反対する全世界の労働者人民に強烈な激励を与えるものとなったのである。帝国主義者たちが、この闘争を「安保以来の最悪の暴動」(ロンドン・タイムス)として恐怖をもってうけとめた反面、侵略と戦火のさなかに苦闘するベトナム人民は、十・八羽田デモをたたかった全学連への連帯を公然と表明し、また、侵略と反動の本拠地において十・二一反戦デモの戦闘的展開を準備していたアメリカの青年学生は「全学連につづけ」を合言葉に。ペンタゴンへの実力デモを敢行したのである。官憲の凶暴きわまる弾圧と、熱病的な反動宣伝は、国際反戦闘争のあらたな高揚のまえに、日本帝国主義の国際的威信が大きく崩れつつあることにたいする恐怖と復讐のあらわれであるともいえよう。
 十・八羽田闘争の第二の意義は、このたたかいが国家権力の暴力的弾圧にたいする労働者学生の非妥協的な組織的抵抗闘争の貫徹としておこなわれたことにある。ブルジョア報道機関と、その御用評論家どもは、全学連のデモ隊がプラカードで機動隊と衝突したという事実をもって、全学連のたたかいを「武装デモ」「暴力デモ」ときめつけ、いわゆる暴力問題のうちに「ベトナム反戦・訪問阻止」という焦点を解消しながら、同時に、国家の暴力という基本的問題点をたくみに隠蔽し、弁護している。だが、事実はどうか。十月八日、全学連からいっさいのデモの権利を不法にも奪いさり、実力をもって機動隊の阻止線を突破することなしには、一メートルのデモの権利すら行使することができない、という無法な暴力をもって弾圧してきたのは、警視庁と都公安委員会そのものではなかったか。また安保以後七年間、全学連の文字どおり肉体と精神のみのデモにたいし、完全武装した警察機動隊を発動して、殴り、蹴り、検挙する、の血の弾圧をくわえ、数十名の瀕死の重傷者をだしてきたのは、警視庁と都公安委員会ではなかったか。一方はつねに武装して殴り、蹴り、検挙する権利をもち、他方は、戦争反対の意志を表明するために、殴られ、蹴られ、検挙される権利しか許されない。――これが国家の暴力でなくして、なんであろうか。しかも、十月八日、警視庁と都公安委員会は、全学連から殴られ、蹴られ、検挙される権利すら奪いとったのである。
 このような国家の暴虐にたいし全学連が自己の正当なデモの権利の行使のために、プラカードと小石をもって警察機動隊の暴力から身をまもったとして、いったいだれがこれを非難できようか。棍棒をふりかざし、装甲車と放水車でデモ隊を攻撃し、鉄カブトと拳銃とガス銃と乱闘服で武装した警察機動隊にたいし、全学連は「ベトナム反戦・訪問阻止」という共同の意志に結びあった組織的団結の力をもって対抗した。弁天橋を中心とする全学連主流派のたたかいの力強さの根源は、まさに、この一点にあったのであり、それゆえにこそ、同志山崎の虐殺という凶暴きわまる弾圧と復讐を不可避としたのである。だが、このような国家暴力の発動によっては民衆の抵抗を抑制し壊滅することはできない。日本の労働者階級と人民大衆は、さらにいっそうベトナム反戦の決意をうちかためるとともに、国家暴力の本質をつかみとることをとおして、国家暴力をはねかえし、国家暴力を最終的に粉砕する道を経験的にうちかためていくであろう。
 十・八羽田闘争の第三の意義は、このたたかいが全学連を主力としながらも、学生のみの孤立した闘争としてではなく、国労、動力車、東交の青年部をはじめ全国反戦青年委員会の旗のもとに結集した千数百名の青年労働者との固い連帯のもとにたたかいぬかれたことにある。十・八当日の全学連の動員は、法大闘争の大弾圧(二八五名の史上最高の検挙)で全学連の最高指導メンバーが闘争の三日前まで不当拘置されたこともあって、その実力からして十分のものとはいえなかった。また、青年労働者の結集も、全逓中央の参加禁止指令など、内外する困難のなかでおこなわれたものであり、きわめて制約的なものであった。われわれは、全学連の動員がもっと大量的であり、またそのたたかいを労働者本隊の巨万のデモをもってつつむことができたならば、同志山崎の死という尊い犠牲を出さずにすんだであろうことを痛苦をもって確認しながらも、同時に、十・八羽田闘争が全学連と労働者階級とのたたかう連帯を強め、拡大し、たかめていくものとして展開されたことを確信をもって宣言しなくてはならない。じつに、羽田における全学連と反戦青年委員会のたたかう連帯は、革命的共産主義運動を組織的媒介として、労働戦線の深部に固く結びつけられており、また、そうした基礎をもつものとしてはじめて現実的たりえたのである。
 
 われわれの世界と日本の現情勢の把握
 
 十・八羽田闘争にくわえられた帝国主義権力の凶暴きわまる弾圧と謀略は、まずもって、ベトナム反戦闘争の戦闘的高揚と、これを跳躍台とする七〇年安保闘争への激動的展開にたいする支配階級の露骨な敵意を示すものであることはいうまでもないが、より根底には、革命にたいするかれらの不安、したがってまた、革命の現実性にたいするかれらの恐怖が否定的表現をもって自己暴露されている。国家権力が十・八羽田デモにたいし徹底的な刑事弾圧と大謀略をくわえたばかりか、全学連およびわが同盟にたいする破防法適用の準備を本格的に開始したことは、一点の曇りもなく、この事実を証明している。本来、破防法なるものは、日本共産党の組織破壊を意図して朝鮮戦争のさなか(一九五二年)に立法された極反動的な法律であり、その本質とするところは、日本共産党の決定的破壊をとおして反戦勢力を制圧し、日本帝国主義の戦争と反動の道をうち固めようとするものであった。一五年たったいま、日本帝国主義は、アメリカ帝国主義との安保強盗同盟を強めながらベトナム参戦国への道をあゆみはじめたが、まさにその門出にあたって、革命への反動的予防立法としての破防法を全学連とわが同盟のうえに適用し、その決定的壊滅をはかることをとおして、ベトナム侵略戦争に反対し、七〇年安保再改定を阻止しょうとする労働者人民のたたかいを制圧しようとしているのである。
 まさにベトナム侵略戦争に反対し、七〇年安保再改定を阻止するためのわれわれのたたかいは、日本の労働者階級と人民大衆の共同の事業の先端をきりひらこうとするものであり、それゆえにこそ、帝国主義権力の集中的な攻撃にさらされているのであるが、こうした日本階級闘争の急激なる質的転換は、現代世界の根本的変革をめざす革命的共産主義者にとって、あらためて革命と革命党との関連の今日的な検討をせまっているといえるのである。われわれは、日本階級闘争の質的転換のもつ意味を決定的にほりさげながら、それが現実的に提起している課題、すなわち、革命の現実性に意識的に媒介された前衛性の試練を大胆にうけとめ、わが同盟と革命的共産主義運動の再武装とあらたな飛躍を準備していかなければならない。
 十・八羽田闘争が現実的に提起している第一の問題点は、革命の現実性という視角から世界と日本の現情勢をどうとらえるべきか、ということである。われわれは、もとより「反帝国主義・反スターリン主義」を現代革命の綱領的立脚点としており、日本帝国主義の打倒をとおして、ロシア革命を突破口とする世界革命の事業を今日的に継承し、その完成にむかって永続的にたたかうことを自己の独自的な戦略的任務としている。周知のように、現代世界は、本質的には、ロシア革命を突破口とする世界革命の過渡期、すなわち、帝国主義から社会主義への世界史的移行の時代が、一国社会主義論=平和共存政策をテコとした国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲と、それにもとづく帝国主義の基本的延命とを根拠として、帝国主義とスターリン主義の平和共存形態に変容したものである。われわれは、ロシア革命を突破口とする世界革命を今日的に継承し完成する方向で、このような現代世界の根底的な変革をめざしているが、まさに、このような変革対象としての現代世界が、帝国主義戦後世界体制の矛盾のふかまりと、これにたいするスターリン主義陣営の一国社会主義的対応の破綻とを契機として、世界史的な動揺を強めはじめているところに、こんにちの世界情勢の基本的特徴があるのである。
 戦後帝国主義は、二九年恐慌と、世界経済のブロック化にもとづく帝国主義的矛盾のけいれん的爆発を「解決」するものとして、ドル=ポンドを基軸とする帝国主義戦後世界体制を形成し、帝国主義の協力体制を謳歌してきたが、にもかかわらず、それは、ドル=ポンドを国際通貨としたことからあきらかのように、世界経済のブロック化という二九年恐慌以後的な規定性をドルの圧倒的な・支配をもって隠蔽したきわめて異常なものであり、その根底的解決を意味するものではなかった。事実、EEC登場を転機とするドル危機=アメリカの地位後退と、アメリカ帝国主義の必死の巻きかえし政策の展開は、帝国主義列強間の対立を激化させるとともに、帝国主義戦後世界体制の基底にひそむ二九年恐慌以後的な規定性を無気味に露呈させたのであった。戦後帝国主義はその協力体制というきわめて異常な延命形態をとりながらも、基底的には、二九年恐慌=世界経済のブロック化と、それにもとづく世界史的矛盾のうちに呻吟しているのであり、あえて類推的に規定するならば、戦後帝国主義の今日的な矛盾と危機の性格は、一九二〇年代中期から二九年恐慌への過渡期のそれというよりは、二九年恐慌=世界経済のブロック化にもとづく矛盾の軍事=公債経済的な「回避」と、そのけいれん的な破綻の過程にはるかに類似したものとみることができる。
 六二年以来の日本帝国主義の経済的危機もまた、国際帝国主義のこのような戦後的延命形態とその矛盾のふかまりを世界史的条件としたものであり、それゆえにこそ、経済的矛盾は異常なほどの危機的様相をおびざるをえないのである。もともと、戦後日本帝国主義は、アメリカ帝国主義を主柱とした帝国主義戦後世界体制を存立条件とし、これへのきわめて異常な依存関係を前提として重化学工業化の道をあゆんできたが、いわゆる高度成長の終末と、そこからの政策的脱出の過程そのものもまた、帝国主義戦後世界体制の危機的動揺とのあいだに相乗的作用をもつものとして深刻化せざるをえないのである。
 日本帝国主義は、六二年以来の経済的危機を克服する政策的方向として(1)独占救済のための公債経済、(2)資本の集中・整理・合併とそれをテコとした労働者支配の強化、(3)対米輸出の増加と、東商アジアへの新植民地主義的膨脹などを追求してきた。だが、それは、本来的に帝国主義列強間の市場再分割の激化、アジア人民の民族解放闘争の不屈な展開、そして日本労働者階級の政治的経済的反撃のまえに異常な困難に直面しているが、総じて過剰資本を本格的に整理しえぬところにその決定的な困難性がひそんでいるのである。かくして、日本帝国主義は、一方では、アメリカ帝国主義のアジア支配政策に加担し、ベトナム参戦国への道をすすむことをとおしてアジアへ強盗的進出をはかるとともに、他方では、独占救済のための公債経済の泥沼的なふかみのなかにのめりこんでいきながら、物価問題、道路問題、農村破壊と都市問題など、帝国主義的政策の矛盾の累積と破綻を全社会的に露呈させているのである。まさに、こんにちの日本帝国主義の政治的・経済的状態は、いわゆる満州事変の前夜を想定させるものといわざるをえない。日本の支配階級はベトナム参戦国化と公債経済化という相互に規定的な危機的政策をうちだすことをとおして、帝国主義の累積する矛盾を日本とアジアの労働者人民のうえに犠牲転嫁せんとする全面的攻撃をいまや開始しようとしているのである。
 
 革命の現実性と革命的左翼の試練
 
 十・八羽田闘争が現実的に提起している第二の問題点は、革命の現実性を媒介するものとして革命的左翼の前衛性の試練をうけとめるということである。まず第一に確認せねばならないことは、革命的前衛とは、客体的危機を労働者階級の主体的行為に媒介するものであるということである。
 革命の現実性は何よりもまず、資本の積極的止揚をとおして共産主義社会を実現しようとする労働者階級の実践的行為のうちに基礎づけられねばならないが、それは同時に、労働者階級をも一契機とする帝国主義の矛盾の爆発を意識的に先取する革命的共産主義の組織的実践を媒介とすることすなわち、情勢の危機的性格を主体化することをとおして主体の情勢化を具体的に実現していく革命的前衛の組織的実践をもってはじめて可能となるのである。
 すでに指摘したように、こんにちの世界と日本の情勢は、いわゆる満州事変の前夜を想起させろような危機的性格をおびているが、にもかかわらず、安定期から危機の時代への移行は共産主義的目的意識を媒介することなしには容易にとらえられない性格をもっている。帝国主義段階、とくに二九年恐慌以後のいわゆる軍事=公債経済のもとにあっては、帝国主義の経済矛盾は政策的に変容して発現する傾向が強いので、帝国主義の全面的攻撃の開始を「矛盾の全面的露呈」として先制的にむかえうち、具体的攻撃への一つひとつの反撃を社会的対決のたたかいにたかめながら、帝国主義への全面的総反撃へと意識的=組織的に結合していく前衛的指導性が、危機の時代にはとりわけ不可欠となること、したがって、その指導はきわめて多面的で具体的な柔軟さを要求されるのであって素朴な工場社会主義ではたたかいぬきえないことを、われわれは明白に自覚せねばならないのである。
 第二に確認せねばならないことは、十・八羽田デモの闘争形態を固定的に評価することなく、安保・小選挙区――諸闘争の激発という総体的な戦術的展望のうちに正しく位置づけることである。帝国主義者の攻撃と相呼応して十・八羽田闘争を非難している日共スターリン主義者の反労働者的な策動は論外としても、労働運動や学生運動の誠実な活動家のあいだにも、十・八羽田デモの闘争形態に疑問をもっている人が数多くいることをけっして過小評価してはならない。われわれは、こういう人たちにたいし十・八羽田デモの意義を徹底的に擁護しぬくことを基礎に、その闘争形態の特殊的性格があくまで国家権力の暴力性との具体的関係においてとらざるをえなかった大衆的示威運動の「防衛的」対応であることを提起しながら、同時に十・八羽田闘争をわれわれの総体的な戦術的展望のうえに積極的に位置づけることを訴えてゆくであろう。「ブハーリンの電撃的攻勢論の再現」としてその意義を否定する右翼的日和見主義を断固として歴史のクズ箱に投げすてて前進するとともに、他方、十・八羽田デモの特殊的な闘争形態を機械的に拡大し、あまつさえ労働者階級本隊の運動形態のうえに直接的にもちこもうとする一部の無責任な極左的言動を決定的に封殺していかねばならない。わが同盟とそれを先頭とする革命的共産主義運動の巨大な前進のまえに卑屈な脅威を感じて、わが同盟の革命的統一戦線戦術にたいして下劣きわまる誹謗と妨害をくりかえしている右と「左」の統一行動にたいしては、われわれは行動をもって応えていくのみである。
 第三に確認せねばならないことは、十・八羽田闘争を転機として帝国主義権力と革命的共産主義運動との非和解的対立はより決定的段階に突入したこと、われわれはこうした階級関係を革命にむかっての不可避の試練としてうけとめ、不撓不屈の革命党づくりにむかって精力的なたたかいを開始せねばならないということである。度しがたい合法主義者たちは、十・八羽田闘争にたいする権力の弾圧と謀略をあくまで偶然なものとみなそうとするが、いまやわれわれは好むと好まざるとにかかわらず、朝鮮戦争当時の日共の位置にたたされている。だが、われわれは、日共のあゆんだ冒険主義と右翼的屈服のジグザグをけっしてくりかえしてはならない。革命的共産主義運動を開始して十年、わが同盟とそれを先頭とする労働者学生の密集した部隊は、権力のせまりくる攻撃にたいし、正々堂々とたたかいをいどみながら、同時に、日本共産党の反労働者的な策動を決定的に粉砕し真実の革命党としての道を勇気をもって前進するであろう。
 十一月一二日――ふたたびわれわれは、参戦国化と七〇年安保再改定の道・佐藤首相の渡米に反対して羽田で決起する。総評傘下の労組青年部の仲間たちは、上部団体の抑制をうちやぶって国労・動力車・東交を先頭に都心デモを敢行したあと、全学連のたたかいと呼応して羽田デモにふたたび起ちあがろうとしている。われわれは、巨万の大衆と結びつく政治的熟練とともに孤立に耐えうる精神的強靭さをもって、予想される反動の嵐にいまこそたちむかっていくであろう。
 「革命の発展は、その直接的な悲喜劇的な勝利の成果のなかにではなく、逆に密集した強力な反革命をうみだすこと、すなわち敵をうみだすことのなかにその進路をきりひらいて進んだ。その敵をうちたおすことによってはじめて、革命党はほんとうの革命的な政党に成長する」――カール・マルクス
   (『前進』三五七、三五九号 六七年十月三〇日、十一月一三日 に連載)