四 深刻化する中国社会の危機
     毛沢東思想の没落
 
 文化大革命における劉少奇・ケ小平にたいする追及としてあらわれた深刻な社会的危機を、大躍進政策人民公社運動(五八――五九年)の失敗に根因を求め、それにたいする根底的解決策をなにひとつ提示しえない毛沢東指導部にたいして、第二革命の必要を鋭く提起している論文である。
 
 
 ケ拓批判・彭真失脚として衝撃的に露呈した中国の政治危機は、中国共産党一一中委総会(六六年八月)における「プロレタリア文化大革命にかんする一六項目の決定」と、それをテコとした紅衛兵運動の全国的なたかまりのなかで、毛沢東――林彪路線の勝利をもって終結するかのごとくみえた。だが、このような解決は、うたがいもなく、きわめて不安定な性格のものであった。「紅衛兵運動のさらけだしたもの――毛沢東思想の危機」で指摘したように、毛沢東思想のみせかけの高揚は、毛沢東思想の没落の別の表現である。
 「実権派の頭目」劉少奇・ケ小平にたいする陶鋳の責任追及、「反動的資本家の走狗」中華総工会の実力管理、「劉・ケ路線の実行者」陶鋳・王任重にたいする江青夫人の糾弾、そして、上海――南京鉄道のストライキなど中国各地における政治的変動の展開は、あきらかに、毛沢東――林彪路線のあらたな危機を示すものである。まさにここに列記したひとつひとつの事件は、中国における政治危機のきわめて深刻な様相を直接に暴露しているばかりでなく、それらは同時に、毛沢束思想の根底にひそむ核心的問題点を鋭く照らしだしているのである。
 
 大躍進≠フ破綻
 
 第一の問題点は、今回の政治危機が、大躍進政策――人民公社運動の失敗と、それにもとづく社会的矛盾の累積とを根底的要因としているということである。
 周知のように五八年の人民公社運動は、いわゆる「百花斉放・百家争鳴」を契機とした政治的動揺と、それにたいする官僚制的圧迫としての反右派闘争を政治的跳躍台としながら、他方、互助組(五一年)、初級協同組合(五二年)、高級協同組合(五六年)とすすんできた農民集団化を基礎に、一挙に農村共産主義を達成しようとするものであった。毛沢東とその党は、高級協同組合に累積した諸矛盾、すなわち、国(T)協同組合内部の矛盾(集団経済と個人的副業との矛盾、管理委員会と生産隊との矛盾、指導部と下部との矛盾)、(2)協同組合間の矛盾(裕福な組合と貧困な組合との矛盾)、(3)国家経済と協同組合との矛盾などを、「農村における大規模な、工業・農業・商業・文化・教育・軍事を結びあわせた行政と社務とが合体した人民公社」の設立でもって解決しようとした。
 「一五年でイギリスを追い越そう」という毛沢東の呼びかけは、数年のうちに共産主義的所有制を達成するという主観的決意と結合することによって、中国人民をふるいたたせ、ソ連「社会主義」に不満をいだく全世界の労働者に「大いなる実験」(ドイツチャー)の幻想をなげかけたのである。だが、このような毛沢東的大躍進政策は、五八年十二月の中国共産党六中委総会(武昌会議)ではやくも修正が不可避となり、以後、政治局鄭州会議(五九年二月)、七中委総会(同四月)とつぎつぎに後退し、六〇年秋収のあとには「生産隊に基礎をおく四級所有制」(事実上、五四年的段階)にまでもどってしまった。こんにちでも中国に人民公社は存在しているが、それはじっさいには行政機構に近いものになっており、五八年当時に意図したものとは完全に相違している。
 こうした人民公社の後退にたいして中国共産党スポークスマンは、「いわゆる三年つづきの自然災害の結果である」と説明しているが、事実はまったく正反対であることはいうまでもない。四年前にすでに指摘したように、五八年の大躍進政策――人民公社運動は、高級協同組合内に累積した諸矛盾を本質的に解決するものでなく、むしろそれは、高級協同組合運動の末期に深刻化した労働力と資金の決定的欠乏を伝統的労働=生活様式の改編をとおしてより強行的に解決しつつ、あわせて中国工業化のための巨大な資金を調達するというきわめて冒険主義的な政策であった。五六年には農業収益の七〇%、五七年にはその五三・二%が農民に分配されていたのにたいし、五八年には農業収益の三〇%弱しか農民に分配されなかったという事実は、五八年における一定の収穫増を考慮にいれたとしても、極度の過密労働と結合して農民の不満と抵抗を増大させたことは想像にかたくない。
 大躍進政策――人民公社運動の失敗後の調整政策にかんして詳細な事実はいぜんとして不明であるが、いわゆる農業基礎論のような場当り的な政策では、人民公社の後退=農民への妥協という一時的政策の粉飾となっても、根本的な建直しの施策となりうるものではないことは明白である。事実、農村では調整政策後ふたたび農民のあいだで貧富の差が拡大しており、貧農・下層中農協会の再組織(六三年)が問題とされるという状況にある。すなわち、こんにちの中国の農村は、大躍進=人民公社化の悪夢が強烈なために容易に「集団化」の問題を提起しえず、さりとて、現状のままで行けば初級協同組合末期の矛盾と同様のものを爆発させざるをえない、というジレンマにある。この苦悩こそ、今回の中国の政治危機を根底的に規定している要因である。
 
  劉――ケの矛盾
 
 第二の問題点は、今回の政治危機が、大躍進政策――人民公社運動の失敗および、その調整をめぐる毛沢東指導体制の後退と動揺を直接的な政治的要因としていることである。
 ケ拓の『燕山夜話』からも推察しうるように、人民公社化の失敗は、毛沢東指導体制にたいする労働者・農民・知識人の不満を増大させた。いわゆる自然災害は一方では、民衆の生活を極度に困難なものにし、中国における経済建設をいちじるしく遅延させるものとなったが、他方ではそれは農民集団化をテコとした官僚制的工業化政策にたいする民衆の消極的な批判であった。
 かくして、人民公社運動にたいする不満と抵抗の増大は、大躍進政策のつぎつぎの後退を不可避とするとともに毛沢東指導体制の一定の変動を余儀なくせしめたように思われる。中国共産党武昌会議(六中委総会)を転機とした毛沢東の「第一線からの引退」と、劉少奇・ケ小平を基軸とした指導体制の確立は、民衆の不満と抵抗に官僚制的に対応した毛沢東導体制内部における変化を示すものであったといえよう。
 劉・ケを基軸とした新毛沢東指導体制は、外にむかっては、反米中間地帯論とソ連修正主義批判をうちだしながら、内にむかっては穏歩前進の調整政策を実行にうつしていった。だが、すでにのべたように、農民集団化政策の後退そのものは、それ自身としてなにかを解決するというものではない。したがって、劉・ケを基軸とした新体制は、調整政策の累積する矛盾と、その矛盾を基礎とした民衆の新しい不満の蓄積に直面しながら、毛沢東指導体制のいっそうの官僚制的変質をもって危機的事態に対処しようとしたのである。
 六三、四年頃から再度の農村工作に着手した毛沢東は、公社管理委員会や富裕な農民層にたいする一般農民の不満を動員しながらこれらを貧農・下層中農協会に組織化していき、さらに林彪を中心とした人民解放軍改造の動きと呼応していった。毛沢東にたいするカリスマ的信仰は、いわゆる毛思想の学習活動をとおしてふたたび民衆のあいだに浸透していったが、こうした意識状況は「中南海」に住む政府高官グループにたいする民衆の不定型な反発とアマルガム的に結合して、おそらく、流動的な政治状況を形成していったのではなかろうか。ケ拓の雑感への民衆的共感と、劉・ケへの政治的不満の増大とは紙一重のものであったと判断してまず誤りないと思う。六六年六月の工作組派遣問題は右の事情となんらかの関連をもっているにちがいない。
 六五年に上海に居を移して政府高官グループとの「腐れ縁」を断った毛沢東は、『解放軍報』をテコとしてケ拓ら「三家村グループ」への抑制を開始するとともに、民主党派・富裕階層・旧資本家層への攻撃を強烈に展開していった。かくして、毛沢東――林彪の新路線は、人民解放軍の強大な軍事力を背景に、大躍進政策――人民公社運動の失敗と、その調整をめぐる混乱をとおして累積した矛盾と不満を、いわゆる実権派打倒の方向に動員していったのである。
 だが、毛沢東――林彪の新路線は劉少奇――ケ小平の実権派体制にたいし、その腐敗と混乱を根底的に解決する政策をなにひとつ提起することができない。たしかに、毛沢東――林彪は、実権派(中央政府から人民公社管理委員会にいたる各級官僚)にたいする民衆の不満に依拠して「とことんまで造反せよ」と呼びかけてはいるが、幹部の責任追及、毛沢東思想の活用、大衆路線の徹底という抽象的スローガンを除くならば、そこにはこんにちの中国の危機を打開しうる具体的な政策が完全に欠如している。大民主主義という決意が百万遍も叫ばれても労働者民主主義(プロレタリア独裁)の実体的基礎をなす工場労働者評議会の問題は一度として検討されない。
 毛沢東――林彪路線と陶鋳――王任重派との分裂は、おそらく、中国共産党十一中委総会以来の政治危機に決定的転機を与えるものとなるのであろう。陶鋳は現代中国で経済政策を理論的に展開しうる例外的な指導者であるが、その陶鋳が毛沢東――林彪路線から離反したということは、将来、毛沢東――林彪路線の政策的貧困化を必然化するとともに、実権派と造反派という今日的対立と別に第三の分解基軸を形成する重大な要因となるであろう。
 
  毛思想の本質
 
 第三の問題点は、中国における政治危機が、本質的には、スターリン主義の歴史的破産の苦悩にみちた集中的表現であるということである。
 アメリカを中心とする戦後帝国主義世界体制は、こんにち、ベトナム侵略戦争を焦点として鋭くその矛盾を爆発させながら、より巨大な世界史的破綻にむかって動揺を強めているが、こうした帝国主義の体制的危機のふかまりにたいして、中・ソスターリン主義指導部は、何ひとつ革命的対応を示しえないのみか、自国の政治経済的混迷への官僚制的対応に腐心しながら、帝国主義的矛盾の渦中にますます没入している。中国の政治危機は、本質的には、帝国主義の危機にたいする「一国社会主義論」的対応の矛盾の世界史的環をなしているといってよかろう。
 もともと、毛沢東思想なるものは、世界プロレタリア革命の一環としての植民地革命が、世界革命のスターリン主義的変質と、帝国主義心臓部の延命を世界史的根拠として、一国社会主義論的に変容していく過程の苦悩にみちた思想的表現である。したがって、それは、プロレタリア本隊と分離しつつも、農民戦争を跳躍台として「社会主義」(過渡期のスターリン主義的歪曲形態)に近似的に移行しようとするものであり、スターリン主義の中国的適用形態いがいのなにものでもない。
 毛沢東の新民主主義革命論の核心的謬点は、(1)帝国主義段階論の欠如(階級矛盾といわゆる民族矛盾の機械的分離)、(2)世界革命のスターリン主義的変質の無自覚、(3)連合独裁論にもとづくプロレタリア独裁の官僚制的すりかえ、(4)経済建設理論(国有化、集団化、工業化)のスターリン主義的歪曲への無批判的追随、にあるが、こんにちの中国の政治危機は、こうした核心的謬点の一つひとつが文字どおり問題化しているといえよう。毛沢東――林彪は、中ソ関係として直面したソ連過渡期社会のスターリン主義的変質を「フルシチョフ現代修正主義」批判の問題に矮小化したのと同じ方法で、中国革命の毛沢東思想的変質が形成した世界史的袋小路の問題を、実権派なるものの打倒にすりかえてしまった。
 
  第二革命が必要
 
 だが、中国の革命的未来は、劉少奇――ケ小平実権派のまえにも、毛沢東――林彪路線のまえにも開かれていない。中国におけるこんにちの政治危機を根底的に解決していく道は、実権派として露呈した中国革命の官僚制的変質の革命的変革を、毛沢東思想の粉砕=革命的共産主義の創造として実現していくことである。それは、さしあたって、中国における労働者民主主義と労働者国際主義の勝利の問題として要約しうるであろう。中国の三千万の労働者階級は、一九二七年の敗北以来の停滞をかなぐりすてて、いまこそ、とことんまで「造反」しぬくべきときである。階級闘争の激化こそ、帝国主義的干渉をはねかえす最良の方法である。
 中国における「第二の革命」は、スターリン主義官僚の「一国社会主義」的桎梏のもとに苦吟する中国・ソ連・東欧の人民のまえに解放の現実的根拠を約束するばかりでなく、帝国主義の支配のもとに苦闘するアメリカ、西欧、アジア、アフリカの労働者人民にたいする巨大な突撃ラッパとなるであろう。中国労働者階級は、苦悩にみちた政治危機のなかで、独自の階級的部隊として登場することを不可避の課題とされている。中国の命運は、さしあたって、この点にかかっている。
        (『前進』三一六号 一九六七年一月九日 に掲載)