三 紅衛兵運動のさらけ出したもの
毛沢東思想の危機――内外政策におけるその必然的破綻
本論文は、紅衛兵運動のはなばなしい登場の時点において、それによってあばきだされた中国社会の腐敗が、実権派の打倒によってではなく、毛沢東思想そのものの打倒によってのみ解決されることを、世界革命の立場から鋭くつきだしている。
北京における少年紅衛兵の革命行動なるものは、疑いもなく、毛沢東――林彪という政府・党・軍の最高首脳が演出した世界史上もっとも愚劣な革命ごつこであった。この愚行に比較すれば、日共の悪名高き山村工作隊の方がもうすこしましだったかもしれない。革命を遊戯にすりかえることほど恥知らずなことがこの世にあるだろうか。
たしかに、少年紅衛兵の行動は下から自発的運動の形式をとっていたが、その背後に党中央文化革命小組の指導があり、政府・軍の強力な支持が存在していたことはこんにちでは誰の眼にも明白である。
少年紅衛兵はいう――、北京は世界革命の中心であり、反帝国主義・反修正主義の最前線である。歴代王朝の封建思想や、旦那方の金もうけ主義の名残りを一掃して北京のすべてのものが毛沢東思想の輝きを示すべきである、と。
かくして、紅衛兵の旗のもとに編成された各地の少年少女たちは革命前進をめざして王府井大街の高級商店の看板うちこわし、広場・建物・道路・商店の「革命的命名闘争」を展開するとともに利子撤廃・民主党派解散などの「社会変革」の要求をつぎつぎとうちだし、北京全市を毛沢東思想一色に塗りあげたのである。
毛沢東思想は「東方紅」のごとく中国全土を染めた。中国における毛沢東思想の勝利は、少年紅衛兵運動をとおして確定したかのようにみえる。だがはたしてそうだろうか。
ブルジョア報道機関や、ソ連系の共産党新聞は、少年紅衛兵の「すさまじい破壊ぶり」に恐怖し金切り声をあげ、非難をくりかえしている。だが、破壊こそ建設である、との命題は、この世に階級支配と疎外労働が存続するかぎり永遠の真理である。アメリカ帝国主義がベトナム人民のうえに日夜くわえているあの残虐な行為にくらべれば、紅衛兵の粗暴さなど文字どおり児戯に類することといえよう。問題はただ、少年紅衛兵が何を破壊し何を建設しようとしているのかという一点にあるのだ。北京の看板はかきかえられ、少年紅衛兵は政府と軍の命令のもとに地方に帰還し、農業生産闘争にとりくむよう勧告されたという。革命には行きすぎが必要だ、と毛沢東――林彪はくりかえし強調する。だが、それは何のためだろうか。行きすぎるためか。行きすぎを抑制するためか。ふたたび言う――少年紅衛兵の行動は、毛沢東――林彪の演出のもとに展開された愚劣な革命ごつこであった。毛沢東思想の高揚を示す一場の革命喜劇であった。だが、革命をもてあそぶものは、かならず革命の報復をうけるに違いない。北京における「紅衛兵革命劇」は毛沢東思想の勝利を示すものとして演出されたにもかかわらず、逆に、毛沢東思想の没落の開始を示す「別の革命」を準備したのである。看板のかわりにうちこわされねばならないものが何であるか、を紅衛兵たちは否定形で暴露したのである。
少年紅衛兵が暴露した第一の問題点は、毛沢東的「社会主義」の内部で進行している根深い社会的矛盾である。それは第一には年額一九五億円にものぼる資本利子の存続であり、第二にはこの資本利子に寄食する旧資本家、さらに旧地主・家主・高級商店主などの富裕層の存在である。第三には政府・党・軍の高級幹部、国営公私合営企業などの管理者層の生活ぶりにたいする民衆の不信感であり、第四には民衆のあいだに存在する高率の賃金格差と生活苦である。「指導者も私用のときはバスに乗れ」「要人の家族の自動車使用を禁止せよ」などという要求は、屈折した表現をとっているとはいえ、民衆の根本的不満を代弁しているとはいえないだろうか。
スターリン主義者は、国有化をもって社会主義的所有形態であるかのように錯覚(強弁?)するが、同じ形態のもとでもこのような社会的矛盾が蓄積されることをどう理解するのだろうか。「国有財産はただ社会的な特権と分化が消滅し、それといっしょに国家の必要もなくなる程度に応じて『全人民』の財産になる」(トロツキー『裏切られた革命』)のであって、けっして「国有化」そのものが自動的に「社会的な特権と分化」を消滅せしむるのではない。
少年紅衛兵が暴露した第二の問題点は、毛沢東指導下の中国政泊支配体制の内部で静かに進行している政治的矛盾である。それは第一には党・新民主主義青年団・ピオニールなど既成政治組織の停滞と無力化であり、第二には毛沢東思想高揚の尖兵として軍のつぎには「紅衛兵」という非常の部隊編成しか動員することができなかったということである。第三には、文芸整風運動以来の「思想闘争」にもかかわらず、郭沫若の低水準な自己批判を除いてただの一片の知識人自己批判も登場していないことである。
第四には、中国全土の約三千万の労働者階級が毛沢東思想高揚の部隊として完全に後景にしりぞいているばかりか、むしろ逆に、北京・青島・天津などで「紅衛兵の行きすぎ」にたいする抵抗勢力として登場したことであり、第五には地方党組織の一部が反紅衛兵闘争に同調する動向すら示しはじめたことである。第六には農民の動向だが、「毛沢東思想で耕作する」などというプラグマティックな面では毛沢東思想への熱狂的な支持を示しながらも、人民公社を発足当時にもどせ!という紅衛兵の呼びかけに応えるものは皆無だということである。
日本に伝えられる報道や理論や論評から判断するかぎり、毛沢束思想への滑稽なほどの讃歌はあっても、こんにちの中国では毛沢東思想そのものの批判はどこにもあらわれていないようにみえる。にもかかわらず、党組織・青年組織・大衆組織の内部では停滞と分化が進行し、幹部層・管理者の腐敗は中国社会をむしばみはじめている。
少年紅衛兵を尖兵とした毛沢東――林彪の革命劇は、まさに紅衛兵問題として露呈した中国革命の危機を「毛沢東主義」的にのりきろうとしたものであった。内外のふかまりゆく危機のまえに、毛沢東は「革命の危機」をソ連共産党二〇回大会におけるスターリン批判、ポーランド・ハンガリーにおける反スターリン主義革命の勃発の「経験」のなかに予知しながら、この二つの歴史的事件から官僚としての裏返しの教訓を学びとり、「思想革命」をとおして将来の禍根を除こうとしたのであろう。だが、それは、短期的にはともかく基本的展望において毛沢東思想の没落の開始を準備するいがいの何ものでもなかったのである。
戦後世界体制の動揺と毛沢東政策の破綻
毛沢東思想の没落の危機を準備している第一の条件は、毛沢東世界戦略の存立基盤であった戦後世界体制の危機的動揺のふかまりであり、したがってまた、このような世界的危機のふかまりにたいする毛沢東的対応の無力化である。
周知のように、アメリカ帝国主義を専制君主とし、戦後革命の敗北による帝国主義の延命を保証したソ連スターリン主義を他方の軸とする戦後世界体制は、ロシア革命を突破口とした帝国主義と社会主義の世界史的分裂が世界革命の「一国社会主義」的変質と帝国主義の基本的延命とを基礎として、平和共存的形態に転形したものであるが、このような世界史的性格からして、それは危機的構造を根本的に解決することができない。
第二次帝国主義世界戦争は、基本的には、二九年恐慌にもとづく国際金融体制の崩壊と世界経済の分断と縮小を「解決」するための世界再分割の死闘の結果として起こった。中国大陸への日本帝国主義の侵略をもってはじまったアジア再分割の死闘は、同時に、植民地諸国における民族解放闘争の高揚を準備した。第二次大戦は、その暴力的再編成をとおしてアメリカ帝国主義の軍事的経済的地位を圧倒的にたかめたが、それは同時に、イギリス・フランス・ベルギー・日本など帝国主義心臓部の没落的危機の形成を意味するものであった。
ヤルタ協定を政治的基底とした戦後処理過程の中枢は、したがって、ドル撒布をテコとしたドル・ポンド世界通貨体制の確立と各国帝国主義の再建、対ソ冷戦体制の形成をバネとした戦後革命の制圧にあったことはいうまでもない。コミンテルン解散を犠牲として戦後処理のための帝国主義的円卓の一角に介入したソ連スターリン主義は、東欧と北朝鮮の緩衝国化を代償に戦後革命の制圧を助力したのであった。中国革命とユーゴ革命は、ヤルタ協定的戦後処理に根底的衝撃をくわえた二大事件であった。とくに、日帝の軍事的敗北にもとづくアジアの帝国主義的秩序の空白化を衝いて中国大陸で勝利した毛沢東は、アジアにおける植民地支配体制を崩壊的危機にまでいたらしめた。インドシナにおけるフランス帝国主義との民族解放闘争の高揚は、この過程にいっそうの拍車をかけるものであった。だが、朝鮮解放闘争の「朝鮮戦争」的変質とその板門店的休戦(民族分割の固定化)、インドシナ解放闘争のジュネーブ会談的解決(一七度線による南北分割)という二つの「解決」は、中国革命を突破口としたアジア革命の展望をヤルタ=ジュネーブ的に封鎖するとともに、中国革命の急激なる堕落と変質を促進する国際的条件となった。
もともと中国革命は、県民戦争を主軸としたものであり、農民戦争の圧力で国営企業を国民党政府から没収するという過程からもあきらかのように、都市プロレタリアートの革命的反乱=工場を基礎とした反資本闘争の経験を決定的に欠如していた。プロレタリアート的指導性の欠如=島民的圧力の強大化という条件のなかで、中国共産党はスターリン主義的本質を全面的に開花せしむるとともに、国際的には、対外政策を四九年――五三年時代の武装闘争主義から一転してインドのネール政権、インドネシアのスカルノ政権、エジプトのナセル政権など民族ブルジョアジーの国家にたいする完全なる「友好外交」へと没頭していったのであった。毛沢東=中国共産党こそ、「平和五原則」の名のもとにフルシチョフ平和共存政策の先駆をなしたのである。
かつてスターリンは、『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』という遺言的論文において戦後的世界の特徴として、(1)資本主義の単一の世界市場の崩壊=社会主義世界市場の発展(2)資本主義諸国での労働者階級の前進=平和的勢力の圧倒的優位性(3)民族解放闘争の発展の三つの指標をあげ、フルシチョフはのちに、二〇回大会でこれを定式化した。この定式の民族主義的発展こそ「世界の農村」をもって「世界の都市」を包囲するという毛沢東世界戦格(林彪『人民戦争の勝利万歳』参照)であるといえよう。したがってフルシチョフ=トリアッチの平和革命=構造改革論と、毛沢東の世界戦略は同一の世界把握に立脚した二つの適応形態である。
スターリン・フルシチョフ・トリアッチ・毛沢束・ブレジネフに一貫する戦後世界体制にかんする見解の同一性は、まさに、戦後情勢の基底的特徴が帝国主義列強の延命――その再建と発展にあること、世界情勢の基本的転換はこの基底的特徴を打破しうるか否かにかかっていることを手をかえ品をかえて否定しながら、社会主義建設と世界市場転覆との関連を理論的・実践的に切断していくことにある。
毛沢東の「世界の農村」による「世界の都市」の包囲という世界戦略は、戦後における旧植民地諸国の政治的独立の進行という現象的事実に革命的意義を与えたものにすぎない。
もちろん、戦後世界における民族解放闘争の発展、とりわけ、中国革命にもとづくアジア植民地体制の崩壊的危機は、戦後帝国主義の世界体制のもっとも脆弱な構造を形成している。アジア植民地支配体制は、アメリカ帝国主義の圧倒的な軍事力によってからくも支えられているにすぎない。
だが、このことは情勢転換のカギが「世界の農村」にあることを意味するものではない。帝国主義宗主国から政治的独立をかちとった旧植民地諸国の多くでこんにち、独立以来の内的矛盾の蓄積と金融的従属のふかまりのなかでつぎつぎと反動的再編成が進行しており、その背後には帝国主義的危機の発展にもとづく世界再分割の争闘が激しく渦まいている。
ベトナム人民の民族解放闘争にたいするアメリカ帝国主義の侵略戦争は、植民地支配体制の崩壊を阻止するための帝国主義的制圧の基石をなしていることはいうまでもないが、同時にそれは、他の帝国主義列強へのまきかえし政策の政治的高地としての意義をもつばかりでなく、アメリカの戦時経済を維持する重要な与件にすら転化しはじめている。しかも、ベトナム危機として爆発している帝国主義的矛盾は、スターリン主義陣営を多かれ少なかれその矛盾の渦中にひきこみはじめており、ソ連も中国も有効な対応政策すらとれなくなっている。ベトナム侵略戦争を革命的に突破する道は、ベトナム人民の民族解放闘争に呼応した帝国主義本国での反戦反殖民地闘争の発展のなかにある。
北爆開始というベトナム侵略戦争の決定的段階を前にして、毛沢東=中国共産党が、「民族の解放はその民族独自の任務である」などという反国際主義的声明をうちだしたことは意味あることといえよう。国際プロレタリアートの反戦反植民地闘争の立場をもつことができない毛沢東思想は、かくして一方では抗日戦争から「自力抗戦」という民族主義的教訓をひきだすとともに、他方ではその補完的政策として、原爆開発、ベルリン・朝鮮・日本での軍事緊張の激化=第二戦線の形成という伝統的なスターリン主義的政策しか思いつくことができない。
帝国主義的矛盾の激化にもとづく戦後世界体制の危機のふかまりのなかで、ソ連系スターリン主義はつぎつぎと後退をつづけ、新しい屈服の道をあゆんでいる。こうした後退と屈服のふかまりにたいし、中国スターリン主義はますます反発の度を強め、反帝・反修のスローガンを明確にうちだしはじめた。だが、ソ連スターリン主義の後退と屈服にたいし「修正主義」の烙印を押すだけでは何の解決にもならない。こんにちにおけるスターリン主義の危機と没落を「一国社会主義」論=世界革命の放棄の必然的結果として根底的に把えなおすこと、――このことのなかにのみ世界革命の危機を突破する今日的バネが存在している。それは同時に、毛沢東思想が当然の前提としていろ「世界戦略」そのものの再検討につながらざるをえない。
危機を必然化させた「新民主主義」政策
毛沢東思想の没落の危機を準備している第二の条件は、中国における社会主義建設にかんする毛沢東的理論が完全に袋小路に突入してしまったということである。まず第一に指摘せねばならないことは、紅衛兵があばきだした中国「社会主義」のこんにちの腐敗が、いわゆる実権派の妨害活動の結果ではなくして、過渡期社会の政治・経済・文化の基本政策にかんする毛沢東思想(新民主主義論)の誤謬の必然的結果であることである。
ソ連における国家と経済のスターリン主義的変質は、ロシア革命にかんする基本的理念たるレーニン主義(国家と革命)をつぎつぎと破壊し、それを「一国社会主義」的に歪曲していく過程をとおして実現していったが、中国革命の変質は、ソ連におけるスターリン主義的変質を世界史的前提とすることによって裏返しの合目的性をもって起こったといえる。
延安時代に毛沢東が完成した『新民主主義論』こそ、スターリン=ブハーリンの二段階戦略(コミンテルン綱領)の中国的適用形態であるが、その本質とするところは、(1)帝国主義段階論の欠如(2)植民地経済の複合的特殊性にかんする無理解、(3)打倒対象の具体性と革命権力の本質規定との混同、(4)過渡期の経済政策と同盟軍規定との混同、(5)プロ独裁論=運動主体論の欠如、(6)共産主義の第一段階としての社会主義と(社会主義への過渡期(プロ独裁期))との同一視である。
したがって中国革命の直接の打倒対象が、帝国主義的買弁勢力=国内反動地主であり、革命の主要な力が農民であるから、革命の性格は反帝民主革命であり、革命後の社会は労働者・農民・小資産階級・民族資本家の四階級が協力するものでなければならない、というのが毛沢東の結論である。だが、民族資本と買弁資本を区別することは、せいぜいのところ資本家の政治的審判がありうるだけで、本質的に不可能である。そこから必然化する方策は、資本の収奪でなく資本との合営、利潤の資本利子への漸次的移行ということになる。
つまり、毛沢東思想には、国有化・工業化・集団化にかんするスターリン主義的政策を除いて過渡期の経済政策がまったく存在せず、それゆえ、スターリンの「一国社会主義の道」をより低い次元でくりかえしたにすぎない。
第三に指摘せねばならないことは、こんにちの中国には(他のスターリン主義諸国とまったく同様に)政府・党の政策を批判する政治的階級基盤がどこにも存在していないということである。
憲法には「労働者階級が指導する」と明記してあるが、現実には「指導」する機関は何もない。毛沢東とは逆にレーニンは、『左翼小児病』のなかで「ソ連では寡頭支配がおこなわれている」と公然といいきったが、だがそのときソ連では共産党内で「グループ」を形成する権利が保障されていたし、工業地帯にはいぜんとして労働者評議会が存在していた。ところがわが「革命中国」には労働者階級が自己の主張を提起する制度的保証すら与えられていないのである。
賃労働と資本は資本を本質とするひとつの社会的関係である。資本との合営、利潤の資本利子への転化という毛沢東思想の対資本政策の対極では、生産=国家の主体としての労働者階級の自己喪失がすすむ。「プロレタリアートの指導」はただ観念的確認にすぎない。
第三に指摘せねばならないことは、こんにちの中国の経済危機が五八年の大躍進――人民公社運動とその失敗に起因しているということである。この点にかんしてはすでにいくたびも論じてきた(本書所収「中国の危機と日本左翼の危機」をみよ)ので省略するが、ただ一点くわえるならば、集団化政策の失敗をとりかえすことは「一国生産力」の段階ではほとんど不可能だということである。
少年紅衛兵がもし何ものをも恐れることなく、中国革命の危機を突破する道をすすむというのならば、張り子の〈権力派〉にむかってではなく、毛沢東思想の世界戦略=国内政策の徹底的な再検討にむかってたたかうべきであろう。これこそ、われわれが指摘せねばならない第四の問題である。
年額一九五億円にのぼる資本利子や、旧地方軍閥がそのまま新中国の政府要人に転化するという事態(たとえば例の李徳全紅十字会長は馮玉祥夫人)はたしかに不都合なことであろう。だが、中国のこんにちの危機は、旧資本家やその政治的手先(民主党派)が形成したのではなく、こうした利子政策=旧勢力政策もふくめて毛沢東思想そのものの実現として評価さるべきものである。まさに打倒の対象は毛沢東思想そのものである。
毛沢東=林彪は、矛盾の責任をすでに実権を喪失している民主党派要人、金利生活者になりさがった資本家層に転嫁するとともに、反帝・反修・文化大革命にむかって内外の矛盾を解決しようとしている。だが、レッテルの貼りかえでは何の解決にもなりはしないであろう。資本利子と通常貯金の利子の区別もつかぬようでは、過渡期の経済政策について何がわかっているのだろうか。
かつては毛沢東思想とは、マルクス・レーニン主義の中国への適用の立場を意味するものであった。それが現実にはスターリン主義の中国的適用しか意味しなかったとしても、日共などの機械的追従とは異なった多様性を保留していた。小ブル的革命主義の生きた脈絡をあわせもつことで、中国スターリン主義は一種の生命力を再生産していたといえよう。だが、こんにち、毛沢東思想の「宝箱」のなかから世界のすべての真理をたぐり出すことを要求するとしたら、毛沢東思想は一片の有効性すらもちえないものとなる。毛沢東思想の絶対化のあとには、思想の死、科学の死、文化の死、したがってまた、社会主義の死があるだけである。
(『前進』三〇〇号一九六六年九月一二日 に掲載)