二 中国の危機と日本左翼の危機
 
 文化大革命の初期に発表された論文。中国の政治的・社会的危機の根因を、毛沢東の五八――五九年の大躍進政策の破綻とその根底にある一国社会主義理論と平和共存政策に求め、日本プロレタリア人民の国際主義的責務を説いている。
 
 
 中国では何が起こっているのか
      ――知識人と官僚の対立の意味するもの――
 
 郭沫若の自己批判として衝撃的にわが国に伝えられた中国の整風運動は、ついに、中国共産党政治局員で書記局員、北京市委員会第一書記で北京市長の要職にあり、また、毛沢東の「もっとも親密な戦友」(『北京周報』、六四年九月二二日)と呼ばれてきた彭真の失脚問題にまで発展した。今回の整風運動は、皮肉にも、六四年における田漢、呉ヨ、郭沫若、曹禺らの歴史劇にたいする彭真の文芸整風演説(『紅旗』六四年七月三一日)からはじまった。「合二而一論」の楊献珍「中国通史簡編」の翦伯賛、「林家鋪子」の茅盾(沃雁冰)ら現代中国の代表的知識人に対する一連の「文化革命」は、まさに、彭真の文芸整風の見地を継承し、発展させたものであったといえよう。
 だが「文化革命」というイデオロギー的形態のもとで展開されたにもかかわらず、この整風運動は、その発展をとおして重大な社会的現実を照らしだしてしまった。すなわち、中国の知識人の圧倒的な部分が「反革命の黒い路線」につながっており「毛沢東思想への中傷」を書いて民衆に「反革命」をあおっていた、ということである。問題は「文化革命」というイデオロギー的次元から中央政府と知識人の対立という政治的次元の問題に転化せざるをえなかった。
 整風運動の「文化革命」から「政治闘争」への転化を画したものは、上海の『文ワイ報』(六五年十一月一〇日)掲載の桃文元「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」であったといえよう。周知のように、呉ヨの「海瑞罷官」という京劇(六〇年執筆)は、一六世紀の地方官吏であった海瑞が大地主に土地返還を要求したり皇帝政治の腐敗を直言したが、大地主の策動で官職を追われた、という歴史的故事を史劇化したものであるが、桃文元は、この京劇が五九年――六一年の三年連続の自然災害や反人民公社の風潮が強かった時期に執筆され、土地返還や裁判やりなおしを称賛した意味は重大だと批判したのである。
 さらに整風運動が激化し「反革命の黒い路線」批判が、呉ヨをふくむケ拓(市党香書記)、廖沫沙(同統一戦線工作部長)のいわゆる三家村グループ、北京大学総長の陸平、市党委大学部副書記の宋碩、市党香宣伝部長の李瑣、北京日報社長の范瑾らといった北京市知識人の中枢にまで及んだとき、整風運動の究極目標がどこにあるか明白となった。『紅旗』(六六年七号)に発表された何其芳の「『前線』、『北京日報』のブルジョア的立場を評す」はいう。――廖沫沙、ケ拓、呉ヨの三名は、六一年九月、ある料亭に会食して反党反社会主義のグループを組織し、毛沢東思想にたいするアテコスリを開始した、と。しかも、呉ヨはかつて蒋介石に献策したことがあり、廖沫沙は魯迅を匿名で攻撃したことがあり、ケ拓は裏切り者であった、という。
 つまり、もともとブルジョアの手先であった連中が、五九年――六一年の連続的な「自然災害」とそれを基礎とする反人民公社的な風潮に便乗して、毛沢東思想にたいする「反革命」を開始した、というわけである。そして、彭真を先頭とする党内の現代修正主義者は、こうした「黒い路線」を歓迎し、それと内通していたという。
 ところで、田漢、翦伯賛、茅盾、楊献珍をはじめ陸平、三家村グループ、北京市知識人をつらぬくところの 「反革命の黒い路線」とは一体何を意味するのだろうか。
 もちろん、現在まで田漢らへの思想的批判と三家村グループら北京市知識人への政治的批判とは、「政治的」に区別されている。だが区別はあくまで「政治的」区別であって、内容的区別ではない。恐らくそれは、北京市知識人と、彭真を先頭とする北京市党組織との結合のふかさからくるものといえよう。したがって、党および政府の官僚的矛盾の激化は、必然的に「政治的」区別をたえず変動させることになるだろう。
 しかし、当面する問題点は、郭沫若からケ拓にいたる中国の全知識人がなぜ「現代修正主義」の毒草を自己の思想のうちに開花させてしまったのか、という点にある。
 まず第一に確認すべき点は、王安石、曹摂、梅瑞など中国旧時代の官僚的支配者にたいする民族主義的評価が、もともと、毛沢東思想の反階級的=官僚的立場から必然化するものであり、事実、毛沢東の奨励のもとにおこなわれたものであった、ということである。つまり、中国旧時代の官僚的支配者にたいする「善政者」の発見という問題意識は、現代中国における毛沢東=中国的スターリン主義の「解放」=支配形態の官僚的性格とふかいかかわりをもっている、ということである。
 郭沫若の「屈原」、呉ヨの「海瑞罷官」など、官僚的改革者の敗北にたいする悲劇は、毛沢東という土地改革の勝利者への頌歌として現実的には登場した。そこには、二千年にわたる東洋的専制主義と阿片戦争以来の外国帝国主義の侵略と国内政治の腐敗とにたいする、中国人民のひたむきな怒りと願いが反映していたといえよう。多くの毛沢東頌歌が堯、舜をはじめ中国歴代の治水=土地改革に努力した官僚的支配者と比較されていることからもあきらかのように、屈原や海瑞の悲歌は中国革命の官僚制的変質を裏から補完する小ブル的ロマンティシズムであった。
 たとえば何其芳は廖沫沙がかつて魯迅を匿名で攻撃したと批判しているが、もともと知識人のあいだで論争があるのはあたりまえであって、郭沫若らの創造社同人と魯迅の論争はあまりにも有名である。かつて魯迅は、その雑文集のなかで、中国では支配者はつねに危険な敵対者を死後まつりあげてきた、と暗喩したが、ここまで自分が「まつりあげ」られるとは思わなかったろう。ところで、魯迅は生涯をとおして儒教を中国思想の最大の毒草としてきたが、こんにちの中国における孔子の再評価ぶりは魯迅を攻撃することにならないのだろうか。
 ここに今回のいわゆる整風運動の別の問題につきあたる。
 というのは桃文元や何其芳、そして「解放軍報」の批判の方法=内容は、けっして歴史観の民族主義的偏向を批判する方向にむかってはいず、逆に、中国旧時代における官僚的支配者の「土地改革」=「裁判やり直し」=「政治の腐敗への直言」とその失敗=「罷官」が、すべて毛沢東思想への「アテコスリ」=「反革命の黒い路線」として批判されている、という問題である。ここに、現代中国のすべての知識人が「現代修正主義」として批判されるにいたったことの第二の確認点がある。
 中国共産党=中国的スターリン主義に色こい小ブル的な革命的ロマン主義、土地改革や治水工事の遂行者としての官僚的善政者へり農民的願望や小ブル的共感は、いまや、現代中国の官僚的支配者にたいする頌歌から怨嗟の声に転化してしまった。イデオロギー的次元でいうならば、小ブル的革命主義の一側面が、毛沢東思想の小ブル的側面と鋭い対立を形成した、といえよう。
 本来、知識人に独自の階級的基礎なるものは存在しない。精神労働と肉体労働の分裂を歴史的前提として成立する知識人は、種属生活からの二重の疎外を成立状況としている以上、知識人が直接的に労働過程に参加するという方法では、その小ブル的性格を止揚することは出来ない。直接的に労働者に階級移行するという場合を除いて(いや、この場合でもそう単純でないが)、知識人は労働市場という直接的現実性における賃労働者の生産判断を基礎として、マルクス主義をバネとする思想的自己変革をとおして、いわゆる階級移行が可能となる。
 中国における知識人の思想改造なるものは、下放援農といった肉体教育と、自分は手にマメしてはたらいたことがないといった道徳的反省の複合教育であって、肉体労働と精神労働の分裂を起点とする社会的分業の社会主義的止揚=生産と消費の労働者的管理から共同的社会的所有への転化の一環として、意識的・社会的に解決していくものではない。しかも、中国社会そのものは、のちに具体的に分析するように、現実に工場労働者評議会を基礎とする労働者階級独裁、それをテコとする生産と消費の意識的配分を強めていくという社会主義的方向をとっておらず、逆に農民的圧力を・背景に労働者階級独裁へのいっさいの方向性を解体し、しかも、農民の官僚的収奪を主要な資金源泉として生産力主義的に工業化を遂行するというスターリン主義的方向を強めている。官僚と人民の社会的分裂は、このような社会的条件では不可避だといえよう。
 したがって中国の知識人のまえには、現実社会的には「革命的仮面」をかぶって毛沢東思想や反帝闘争や下放運動や労働の美しさやらにかんしておしやべりしながら官僚的命令に追従して暖衣飽食する道を選ぶか、いわゆる小ブル的母斑を傷だらけの体に残存させながら知識人としての自己内部の声に耳をかたむけ、こうすることによって民衆のひきちぎられた意識を表現する道を選ぶか、この二つの道しか当面は残っていない。労働者階級が、自分自身の生産判断における革命的直観にふまえて、過渡期社会の官僚制的歪曲の打破のためにたちあがる日まで、そして、この日のための闘争の革命的組織者として自己変革する日まで危機にたつ過渡期の知識人はこの二つの道を放浪せねばならないだろう。
 かつて五五年、高崗、堯漱石は、東北工業地帯の「自治」を要求したとして追放された。こんにち、北京市党組織は「反革命の黒い路線」として非難されている。だが、この両者を結ぶ社会的底流は、都市と中央政府の社会的矛盾だといえよう。この矛盾は、官僚と人民の社会的矛盾を基底としながら、六〇年以来の経済的危機の停滞的継続と、インドネシア反革命(六五年九・三○事件)を決定項とする国際的孤立のふかまりのなかで、より深刻な表現でもって当面する政治危機をつらぬきはじめている。
 北京のつぎは上海であり、漢口、南京、広州であり、東北工業地帯の中枢・瀋陽であろう。
 すでに中央政府は、上海音楽院長、同京劇院長、南京大学総長らを追放したばかりか、今年度の大学、短大の入試を半年延期し、高校での毛沢東思想教育の強化と教育制度全体の徹底的な改革を実行すると決定した。大学が総体として「反革命=反毛沢東思想の黒い路線」とつながっていることを中央政府は公然と認めたわけである。
 新聞報道によると、林厖直属の軍団が北京に移動しはじめているという。もしこの報道が事実とすれば、彭真追放支持の官製デモの背後にかなりの市民的抵抗が存在するか、新しい政治的矛盾と対立が存在するか、より発展した政治官僚間の矛盾と対立が存在するか、いずれにせよ、新しい政治的矛盾の深化を意味するであろう。彭真失脚は、現代中国における政治的危機の序曲であって、断じてその結幕を意味するものではない。
 では、このような政治危機はなぜ生まれたのか。つぎにこの点について具体的に検討しよう。
 
 社会的矛盾の深刻化と政治危機の激化
      ――整風運動の根底にあるもの――
 
 周知のように、五八年に毛沢東の指導のもとにはじまった人民公社運動は、中国における経済建設の大躍進と、共産主義的所有制への短期的移行を約束する毛沢東的政策として全世界の注目するところとなった。だが、人民公社運動以後の八年の歴史的経験は、人民公社運動に結晶化した毛沢東思想の反社会主義的本質を白日のもとに暴露している。
 中国政府の公式説明では、五九年以来の長期的な経済危機は五九年――六一年の「三年連続の自然災害」の結果だとされている。事実はまさに逆で、ほかならぬ「三年連続の自然災害」こそ、五七年――五八年的大躍進の必然的産物であったといえよう。肥料や農薬の大量的投入なしにおこなわれる農地の極限的利用や、土法高炉に表象される農村労働力の粗放かつ過重な動員が、土地と農村労働力の全般的な疲弊状態を形成したことは、まったく当然のことであろう。六〇年以後、積極化した農民的不満の増大と労働意欲の低下こそ「三年連続の自然災害」と、その後の長期的な経済危機の農村的基礎である。
 このような農業経済の停滞的状態が、核兵器開発を頂点とする巨大な軍事支出、四〇数億ドルにのぼるソ連借款の返済とほぼ同額の海外援助、そして帝国主義国からの総額二〇億ドルに達する生産財の購入という一連の経済的事情と相乗することによって、都市労働者の消費生活のうえに巨大な重圧となって影響していることはいうまでもない。中国における労賃は、いわゆる大躍進期でも年平均六五六元(九万八四〇〇円)で戦前(一九三五年)の工業労働者の賃金水準の約一倍半という状態であるから、もともとそう高いものではないが、さらに五九年以来の消費資料の欠乏と自由市場価格の高騰は、都市生活をいっそう困難なものにしているといえよう。
 五九年以後すでに六年たったが、中国経済の長期的危機はこんにちにいたるもなお解決されてはいない。(経済調整・全面好転)のスローガンにもかかわらず、こんにちの中国経済はいぜんとして五九年水準の六〇%〜七〇%程度に低迷しているとみて誤りないだろう(本選集第三巻所収「中国革命の危機を突破する道はなにか」参照)。
 まさに中国経済の長期的停滞は五八年の人民公社運動とその破産を解明することなしには、正確に把握することはできない。五七年――五八年の大躍進と五九年以来の長期的な経済危機は、一個の連続的な経済過程として総体的に把握さるべきものであって、けっしてそのあいだに万里の長城を築くべきものではない。
 ところで、五八年の人民公社運動は、なぜ登場し、なぜ破産したのであろうか。
 もともと、最後のブルジョアとしての農民の集団化、すなわち農業の社会主義的組織化のための闘争は、勝利した工業プロレタリアートの農民にたいする自己犠牲的な物資援助と、物質的刺激をテコとした農民の自発的努力の結合をとおして実現されるべきものである。
 だが、ヨーロッパの中位の後進帝国主義国ロシアにおける革命の勝利と、ドイツ革命を突破口としたヨーロッパ革命の敗北にもとづくロシア革命の孤立は、一方では、この一国的孤立をいかに打破し、世界革命の連続的発展をいかに遂行していくか、という第一義的任務のあらたな展開を提起するとともに、他方では、工業が脆弱で農民が圧倒的な後進国で勝利した工業プロレタリアートが世界革命の永続的発展との結合を追求しながらも、そこにむかってなお今日的に、いかに工業と農業の社会主義的組織化を準備していくか、という過渡期の政策的課題を具体的日程にのぼらせたのである。
 干渉戦争と内乱による都市プロレタリアートの壊滅的状況と、党=政府における官僚層の自立的傾向を基礎として登場したスターリンは、一方では、社会主義社会の一国的建設という反レーニン主義的テーゼのもとに世界革命とロシア革命との連続的関連を切断し、他方では、工業化の資金源泉を農民の集団化にもとづく農村的富の官僚制的収奪に求めるという政策を採用した。三〇年代の大粛清は、このようなスターリン主義的工業化政策にたいする労働者、農民の抵抗の増大と、それを基礎とした官僚内部の動揺を鎮圧するための反動的暴力であった。こんにちのソ連経済における農業の構造的な停滞と、工業の無規制的な生産構造は、まさにスターリン主義的工業化政策を歴史的条件とし、生産計画と生産場面における労働者=生産主体のヘゲモニーの完全な喪失を主体的根拠としているのであって、利潤概念の導入といったブルジョア的方式では解決されうるものではない。
 人民公社運動は、ロシアよりもはるかに後進的な中国において、一国社会主義論のうえにたつ農民集団化をテコとするスターリン主義的政策を強行的に再現しようとするものであった。だが、ロシアはいかに後進的とはいえ帝国主義国としての物質的遺産のうえにたっていたが、中国は半植民地的複合経済という超後進的条件のうえにたっているので、その破産と矛盾はよりドラスティックに起こったといえよう。
 もちろん、国民党から没収した三二億六〇〇〇万元を超える国営工業資本(工業資本総額の六七・三%)が、中央政府の経済的管制高地を保証したとはいえ、国民経済における工業の圧倒的劣勢は、工業の自己蓄積的発展をきわめて脆弱なものにしていたことはいうまでもない。しかも、都市における革命的反乱=工場の労働者管理のための闘争を経過することなく、農民軍の軍事的圧力のもとに国営工業資本を「人民政府」に没収した、という事情のもとでは、これらの国営工業資本はプロレタリア的発展のテコとなるというよりは、むしろスターリン主義官僚制的変質の物質的基礎となった。
 人民政府の樹立(四九年十月)を頂点とした中国第三次革命は、流民化した農民の軍隊的組織化をテコとした農民革命の高揚を実体としている。それは、日本帝国主義の軍事的敗北=戦後日本の前革命的情勢にもとづくアジアの政治的空白を衝いて、国際的資本と地主に依拠した国民党政権を打倒し、帝国主義勢力を一掃するとともに、徹底的な土地改革を遂行し、地主の農地と動産の平等主義的な均等分配を達成した。
 だが、先進工業国の革命的プロレタリアートの物質的援助の欠如という国際的条件のもとで、中国における工業の圧倒的劣勢と、労働者階級の指導性の未成熟という主体的条件は、中国革命に内在する諸矛盾をただちに開花させた。とくに、農民=農業問題において、その矛盾は尖鋭な発展をみせた。なぜならば、土地の均等分配による分割地過小農(農民一人当り平均一・五反)の成立は、貧困の均等分配と農業生産力の停滞を意味するだけで、経済的にはなんの解決も与えるものではないからである。
 五三年の初級協同組合運動を起点とし、五六年――五七年の高級協同組合運動と政治危機の激化を中間期とし五八年の大躍進――人民公社運動を頂点とする農民集団化政策は、農村経済の停滞を打破し、増大する経済作物と工業原料の需要と、全般的停滞状況にある現実の安定作物との矛盾を強行的に解決し、あわせて工業化資金と労働力を調達しようとしたものであった。とくに、五八年の人民公社運動は、高級協同組合運動――大躍進の過程で深刻化した資金と労働力の欠乏を、家族労働の解体にもとづく農村労働力の総動員と、消費規制の集団的強化と退職資金の根こそぎ集中とによって解決しようとしたものである。
 しかしながら、五七年――五八年の大躍進――人民公社運動を頂点とした毛沢東の集団化=工業化政策は、農民にたいして生理的限界を超えた過重な労働を強行したばかりか、農業生産額のうち農民保留分が三〇%以下という強度の収奪をおこなうものであったために、農民のあいだに広範な政治的不満と労働サボタージュを生みだした。かくして、毛沢東=中国スターリン主義は、一方では、社会主義的工業化の旗のもとに工業化資金の収奪を強行しながらも、他方では、増大する農民の抵抗のまえに、武漢決議(五八年十一月)鄭州決議(五九年二月)と後退をつづけ、六〇年十月には公社管理委員会――生産大隊――生産小隊――作業班の四級所有制をうちだし、事実上、五三年の初級協同組合段階にまで後退してしまった。
 問題は、このようなスターリン=毛沢東の集団化=工業化政策を「社会主義建設の基本路線」として評価する従来のスターリン主義的神話そのものにかかわっている。中国の政治危機は「一五年でイギリスを追い越そう」という毛沢東の一国社会主義理論の再検討を要求している。社会主義は資本制的に蓄積された巨大な富の革命的収奪を基礎として建設されるものであって「社会主義的原蓄」や経済競争をとおして建設されるものではない。
 ところが、毛沢東と中国共産党は、中国における五九年以来の停滞的な経済危機と、そこを基礎とした社会的矛盾の深刻化にかんして、それを世界革命との関連において、したがってまた、一国社会主義理論の実践的破産として反省することができない。そこから、一方では、社会主義建設に幾世代も幾世紀もという毛沢東的神話が、他方では、集団化=工業化政策への批判を「反革命の黒い路線」とみる官僚制的支配形態が形成される。
 毛沢東=中国スターリン主義は、一国社会主義理論を基礎とした農民集団化をテコとして工業資金を収奪するというスターリン的政策を強行することによって、官僚制的変質を完成するとともに自分たちの歴史的付属物であった農民的=小ブル的革命主義と衝突せざるをえない。だが、このような毛沢東思想と農民との衝突が、前者のプロレタリア的立場への移行をいささかも意味するものでないことはいうまでもない。かつて、毛沢東的改革をかざりたてていた「敗北した官僚的改革者への鎮魂歌」は、いまやふたたび、現存する官僚的支配者への怨嗟の歌にかわった。
 中国におけるこんにちの政治危機は、人民公社運動として現象した毛沢東=スターリン的一国社会主義理論の破産を本質としており、毛沢東思想=中国スターリン主義の官僚制的形成にもとづく官僚と人民(生産者)との社会的矛盾を基礎としている。中国の政治官僚が、政府と知識人の対立の将来にハンガリア革命の知的導火線となったペトフィ・クラブを発見したことは、意味あることである。
 文芸整風――中国の政治危機をどうとらえるか、という問題はただたんに中国労働者人民の問題であるだけでなく、全世界労働者階級の共同の綱領的課題にもかかわるきわめて重大な問題なのである。したがってまた帝国主義の重圧のもとでたたかっている日本労働者階級の問題でもある。
 
   日本左翼の危機を打開する道は何か
        ――日共「自主独立」路線をうち破るために――
 
 中国において今回の整風運動が激化しはじめるや、日本のブルジョア宣伝機関(新聞、テレビ、ラジオ、雑誌など)は、いっせいに中国問題にかんする反動的思想攻撃を開始した。すでに、中国核武装をめぐつて日本帝国主義は、中国核武装の脅威に対抗するためには「安保条約を軸とする集団的安全保障」と「日本独自の軍事力強化」が必要だという宣伝を強めてきたが、さらに今回の整風運動の激化を機会に、かれらは、中国革命の危機にかんする反動的説明を徹底的に展開するとともに、日本労働者人民にたいして従来にも増して露骨に日本帝国主義への屈服を要求してきている。
 戦後日本の左翼運動が中国革命と深刻な関連をもって発展してきたことは周知の事実だが、それは、日本共産党が中国共産党に国際権威主義的に無批判的に追従してきたという疎外的関連からのみ理解されるべきものではない。日本革命と中国革命との国際主義的結合という課題は、アジアにおける民族=植民地問題と、そこにおける日本帝国主義の特殊的役割という二〇世紀的な問題を一挙的に解決するための重大な突破口をなしている。だからこそ、日本帝国主義は、極東における日本――朝鮮――中国という革命的生命線の分断のために、体制的危機をかけた攻撃をくわえてきたのである。
 したがって、日本労働者運動の革命的前衛をめざすいっさいの革命的左翼は、ブルジョア宣伝機関の展開する反動的思想攻撃にたいして、日中問題の革命的労働者的解決の道を徹底的にあきらかにすることをもって応えるべきである。それは同時に整風運動を象徴とする中国の政治危機にかんして、官僚主義的沈黙や権威主義的讃美をもってしか対応しえない既成左翼の腐敗にたいする非妥協的な闘争の道でもある。
 周知のように、従来、日本共産党は中国共産党への国際権威主義的な無批判的追従を特徴としてきた。日本の民衆のあいだに存在する中国侵略戦争への反省と毛沢東的改革への共感とは日本共産党と中国共産党との関連のきわめて強大な社会的基礎をなしていた。そして、日本知識人のあいだにあるぬきがたい中国問題への非主体的な道徳的接近こそが、日本共産党の中国共産党への没主体的な追従の結果であり、またその存立条件であったといえよう。そこに決定的に欠如しているものは、アジアにおける民族=植民地問題の根底的解決が、中国、ベトナム、シンガポール、インドネシアなど旧植民地諸国民の反帝・反植民地闘争の発展のみならず、アジアにおける反動と侵略の支柱=日本帝国主義の革命的転覆にまずもってかかっている、という事実にかんする主体的反省である。
 中ソ対立の激化は、ロシア革命と中国革命の残光のうえに官僚的に居すわっていた日本共産党=日本スターリン主義に強烈な痛打となった。だが、構改派的なソ連追従主義者を「現代修正主義」として排除して官僚的党内体制をかためた日共宮本指導部は、一方では、帝国主義への際限なき屈服の道をあゆむソ連共産党にたいする左翼的反発を官僚的に収拾しながら、他方では、中国人民の「英雄的解放闘争」への没主体的な称讃と、民族主義的な反米闘争に依拠して、国際スターリン主義の分裂という党の危機に対処した。ソ連スターリン主義にたいする「現代修正主義」との批判は、このような官僚主義的な党内体制の再編のイデオロギー的粉飾であった。
 だが、インドネシア反革命を頂点とした中国世界戦略の破産、スターリン主義陣営内での中国の圧倒的孤立、中国内部における政治危機の激化、そして日本帝国主義の反動攻撃の重圧、という内外情勢の深化のなかで、日共宮本指導部は、危機にたつ中国路線からの逃亡を開始するとともに「自主独立」の名のもとに日本帝国主義へのより露骨な屈服の道をあゆみはじめた。総評指導部の異動をテコとする日本社民運動(社会党、民同)の全体的な右翼化に呼応して、日本スターリン主義運動(日共、革同)の社民運動への反労働者的追従は日ましに強まっている。
 こんにち、すでに日共宮本指導部のあいだでは、中国共産党にたいして「民族修正主義」というレッテルが準備されている。だが、それが中国共産党の綱領的立場にたいするマルクス主義的=プロレタリア的批判にもとづくものでないことは、ソ連共産党にたいする「現代修正主義」というご都合主義的レッテルの今後の運命が的確に示してくれるだろう。
 『赤旗』六六年二月四日主張以来の日本共産党の中国問題にかんする徹底的な沈黙は、日共官本指導部の『自主独立』路線が、毛沢東思想=中国スターリン主義にたいする自己批判的な反省の結果ではなく、危機にたつ中国路線にたいする官僚的逃亡=日帝にたいするより露骨な屈服のための卑劣な時間かせぎである、といえよう。
 ちなみに、『赤旗』は五月一一日に「中国核実験」にかんする歯切れの悪い論評をけいさいして以来、きよう(六月三日)まで六月中に四回「アンテナ」(外電らん)に一〇行記事をけいさいしただけで、中国関係の記事は完全にしめ出されている。そこにはプロ野球やテレビ番組の論評はあっても、中国での文芸整風運動も彭真失脚も周首相のルーマニア訪問も一行の記事すらみいだしえない。もし日共の宣伝を真にうけて『赤旗』だけを新聞としてとっている労働者があるとしたら、かれはテレビ番組は知っていても郭沫若の自己批判についてはまったく知ることはできない。中国における整風運動――中国核実験をめぐつて日に日に強まっている日本帝国主義の反動的思想攻撃と、労働者階級の思想的・政治的混乱にたいして、まさに日本共産党は公党としてなにひとつ発言できないという政治的腐敗を強めている。コミンフォルム批判(五〇年)ソ連共産党二〇回大会(五六年二月)ハンガリア革命(同年十月)中ソ論争(五八年――)という国際スターリン主義の危機に際して、日本共産党が伝統的にとってきた判断停止という非主体的態度が、ここにも一貫しているといえよう。ただ、今回の日共宮本指導部の処置が従来の伝統的方法と相違する点は、中国路線からの逃亡=社民的運動との右翼的癒着という官僚的思想を「自主独立」という美名にかくれて積極的にうちだしていることである。
 こうした日本共産党の静かなる官僚的方向転換にたいして、従来中国共産党――日本共産党の国際的路線に同伴してきた左翼系知識人のあいだから鋭い反発が生じている。
 『エコノミスト』誌の新島淳良論文(六六年五月二二日号)藤井満洲男論文(六月二六日号)、『現代の眼』の「焦点」らん(六月号)新名丈夫論文(同)などは、こうした動向の一端を伝えている。これにたいし、日共=宮本指導部は『赤旗』にはやくも「自主独立を否定する事大主義――新島淳良氏の論文を批判する」と題した一貫にわたる不破哲三論文(六月一〇日)を発表して反論をくわえるとともに、『前衛』下司順吉論文(七月号)などで「解放戦線」批判にことよせて党機関内の「中国派」にたいする官僚的統制を強めはじめた。
 不破論文の主旨は、(1)党の国際路線への明白な批判、(2)「中ソ間の自主独立はない」とする事大主義、(3)「一つの戦線」を主張する教条主義擁護論、(4)「ナショナリズムへの媚び」という中傷、(5)外国研究における自主的批判態度の重要性、という項目で推察がつくと思う。ところが奇妙なことには、この論文には「現代教条主義」という実体不明なものとの闘争の重要性にかんする強調はあるが、「現代教条主義」そのものの批判は一行も存在していない。つまり日本左翼は、日本共産党の「二つの戦線での闘争」という党決定に従属すべきであって、国外のどこかの党の主張を尊重することは「事大主義」だというのである。
 だが、日共宮本指導部のこのような態度は、すでにのべたように危機にたつ中国路線からの逃亡=日本帝国主義へのより露骨な屈服の道を意味することはもちろんだが、その思想的根底には労働者解放運動(その理論としてのマルクス主義)の国際主義的本質にたいする決定的な否定的立場が存在している。日共宮本指導部は、自主独立の名のもとに国際共産主義運動とその理論を各国共産党の「民族共産主義」の総和にすりかえようとしている。それは、国際スターリン主義運動の分解の危機を鎖国的にのりきろうとする官僚的自己保身いがいの何ものでもない。
 日共宮本書記長の茶坊主・米原昶は、ルーマニア訪問にかんする記者会見の席上「整風運動は中国の国内問題だから干渉しない」と弁明したそうだが、こうした「民族主義」的態度こそ、国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲の行きつく腐敗の極致であろう。中国における毛沢東思想=スターリン主義の危機は、日本既成左翼の際限なき混乱と危機としてはねかえりはじめた。こんにちの中国の政治危機をスターリン=毛沢東の「一国社会主義」理論の破産として根底的に把握するマルクス主義的立場にふまえることなしには、中国の危機=日本左翼の危機という今日的な危機をけっして打開することはできない。革命的左翼の一部に根深く残存する親スターリン主義的傾向(たとえば、中ソを「プロレタリア世界革命の予備軍」と評価するブント・マル戦派の立場)の克服は、いまや、日本の革命的左翼にとって焦眉の課題である。
 中国路線からの日共宮本指導部の官僚的逃亡と、日本帝国主義へのより露骨な屈服(ソ連共産党=日本社会党への右翼的接近)とを転機とする日本共産党=日本スターリン主義のあらたな動揺は、おそらくは、秋の日共大会にむかって宮本指導部と「中国派」との対立を深刻化せしめるだろう。中ソ対立として現象した国際スターリン主義運動の反動的自己矛盾は、いぜんとして、日本共産党=日本スターリン主義運動のうちにもっとも尖鋭な表現をとってあらわれている。
 われわれ革命的左翼は、ソ連共産党への官僚的追従を唯一の規範として「総結集」しようとする「日本のこえ」「社革」指導部の卑劣な策動にたいし断固とした批判を強めながら、同時に、宮本指導部と「中国派」の対立を起点として起こるであろう日本スターリン主義運動の分解=再編の危機にたいし「反帝国主義・反スターリン主義」の革命的原則に立脚した徹底的な介入=思想闘争を準備せねばならない。
 中国の危機と日本左翼の危機は、まさに革命的左翼の綱領的前進を緊急の課題としている。われわれは、これに全力をもって応えねばならない。
      (『前進』二八九号、二九〇号、二九一号 一九六六年六月二〇日、二七日、七月四日 に連載)