すべての革命的共産主義者は革共同全国委員会に結集せよ
 
 六一年三月に執筆された本論文は、「革命的」戦旗派の組織戦術のまったき欠如によって、当初企図されたわが同盟との「合同」が完全に挫折した時点にあって、すべての革命的共産主義者にわが同盟への結集を訴え、六〇年ブントの革命的翼との革命的統一の根本的な立場を宣言した記念碑的論文である。
 
 
 三月中旬におこなわれた戦旗派の全国細胞代表者会議は、いわゆる「革命的戦旗派」指導部の完全なイニシァティヴのもとに召集され、運営されたにもかかわらず、逆に、その指導性の衰退と破産を自己暴露したのであった。いなむしろ、破産した共産主義者同盟を革命的に解体し、革命的マルクス主義の旗のもとに再組織していくための闘争において、その決定的な桎梏がほかならぬ「革命的戦旗派」指導部にこそきわめて集約的に内在していたことを明白に再確認させずにはおかなかったのである。同時にそれは、先月中旬の戦旗派中央の「統一」決議以来の「革命的戦旗派」指導部の約一カ月にわたる組織活動とその「立脚点」の非組織性と自己欺瞞が、地方からの代表によって徹底的に切開され、打倒される過程でもあったのである。
 こんにち、すでに、こうした危機を打開し、克服するための苦闘が、革命的戦旗派の内部で力強く胎動しはじめている。われわれは、こうした胎動を革命的プロレタリア党のための闘争の決定的契機に転化させるために、(1)戦旗派の「統一」決議が共産主義者同盟の解体過程に投じた影響を検討し、(2)革命的戦旗派指導部の「自己否定=立脚点」の自己欺瞞と組織戦術の欠如とその破産を無慈悲に暴露し、(三)緊急の組織問題についてのわれわれの立場をあきらかにしなければならない。
 戦旗派中央が二月中旬に、全国委員会との「原則的統一を部分的保留を除いて決意し、決定した」(『戦旗』五二号)という事実は、あきらかに、破産した共産主義者同盟の解体過程にきわめて決定的な影響をなげかけずにはおかなかった。なぜなら、破産した共産主義者同盟の解体=没落過程の「苦悩の表現」としての分派闘争の革命的止揚は、ただ、わが全国委員会との「原則的統一」によってのみ根底的に可能であることを、この「決議」は、不十分な規定性においてではあったが、無視しえぬ重みをかけて提出したからである。
 この第一の影響は、二月下旬におこなわれた共産主義者同盟労働者細胞代表者会議の流産としてあらわれた。この労細代は、いくつかの傾向をもった諸分派(戦旗派をのぞく)の共同の発意のもとに「春闘の方針を検討しあわせてブント再建の方向を明らかにする」ために召集されたのであった。だが、一定の指導的分派も指導的理論もなしに召集されたこの会議は、一部に存在した「真正ブント再建」の思惑とまったく反対に、内部分解と腐敗を赤裸々に暴露し、「烏合の衆」としての実体を自己確認するだけに終ったのである。しかも戦旗派を会場から閉めだすことによって、こうした破産を「反省」すべき契機すらみずから切断したのであった。
 こうした状況のなかで、共産主義者同盟関西派(山本久男)を中心に「自己破産」のうえにアグラをかきながら破廉恥にもいまふたたびわが全国委員会にたいする事実無根の誹謗をおこない、無意味な批判をなげかけることによって、自己の組織をセクト主義的に防衛しようとする「空しい努力」が、第二の影響として生まれつつある。(われわれは、わが関西ブントが勇敢にも「全国委員会批判」に着手しようとしていることを歓迎する。成文を読んだうえで必要とあらば反論することにして、ここでは、かれらのスターリン主義のとらえ方が、革共同西分派への心情的反発にもかかわらず、西分派ときわめて決定的な近似値をもっていることを指摘するにとどめたい。なお、われわれが「一律+α」という賃金要求をもっているとの「批判」は、山本君の読解力を自己暴露するだけなので一言。)
 第三の影響は、右のような新しい反動的試みにもかかわらず、真正ブントの拠点であったプロ通派の分解と事実上の解体として結果したのである。すなわち、プロ通派のカメレオン的「理論」家=姫岡玲治君の自己欺瞞とその破産は、いまやプロ通派の六カ月の「実践」にふまえてその内部からすら摘出されるにいたったのである。わがプロ通派の諸君は、決定的にわが全国委員会と敵対することによって、逆にその没落をはやめ、共産主義者同盟の破産の追体験的構成を喜劇的に演じたのである。そして、その少なからぬ活動家が戦線から離脱していく状況すら生みだし、スターリン主義者の攻撃のまえに全学連を無防備で放置する危険が時々刻々と拡大されつつあるのである。
 このような共産主義者同盟の全面的崩壊は、その破産の現象的実現としての分解からの不可避的な結果であることはいうまでもないのである。だがわれわれは、西分派の諸君のように、「中間主義の没落」として喜んでいるべきであろうか。否! けっしてそうであってはならない。なぜなら破産した共産主義者同盟の「非革命的」解体過程としての「全面的崩壊」状況の深刻化は、同時に、革命的左翼戦線の危機として、それゆえに、われわれの危機としてとらえかえされなければならないからである。そして、まさにこうした自己の危機に無自覚に「自己否定」をステロ・タイプ化し、いわゆる「立脚点」に自己陶酔したところに、「革命的戦旗派」指導部の陥穽があったのである。
 
 「革命的」戦旗派の深刻な誤謬
 
 すでにかんたんにみてきたように、二月中旬の戦旗派中央の「統一」決議は、破産した共産主義者同盟の解体過程としての分派闘争を革命的に止揚すべき契機として重大な意義をもっていた。まさにそれは、革命的共産主義運動の新しい段階を約束するものであった。
 だが、過去の戦旗派と決定的に決別した革命的「立脚点」を獲得したはずの「革命的戦旗派」指導部は、破産した共産主義者同盟を「いかに」解体するかという組織戦術を欠如し、現実の階級闘争から昇天しつつ、こうした「立脚点」をふりまわすことによって、われわれの立脚点とは似て非なるものへと変質していったのである。かくしてかれらは、「動力をもった立脚点」などという「哲学的」常套語で自己欺瞞的に粉飾することによって、自己の組織戦術の欠如を合理化しようとしたのである。
 戦旗派全国細胞代表者会議の前日にいたるまで、われわれと「革命的戦旗派」指導部(同志西原をのぞく)とのあいだに後述の諸点をめぐつてきわめて深刻な対立が存在したこと、そして、いくたびか決裂を決意せざるをえなかったことをここに記録しておく必要があると考える。そして、こうした事態をもたらしたもっとも決定的な原因は、同志青山に代表される一知半解の「立脚点」の自己絶対化であったのである。
 「青山論文」と同志青山に内在し、その後の組織活動のなかで全面的に開花した「革命的戦旗派」指導部の基本的謬点は、およそ次のとおりであった――第一には、自己批判が外在的であることである。たとえば、「青山論文」の場合、共産主義者同盟の批判はあっても、ほかならぬ自己の問題としての反省が欠如している。しかも「哲学」的概念の操作に自己欺瞞的にスリカエる傾向がある。第二には、破産した共産主著同盟を「いかに」解体するかという組織戦術の欠如である。それゆえ、実現さるべき同盟についての展望の欠如として反映する。第三には、「立脚点」「プロレタリア的主体の形成」の自己絶対化である。したがって、党を「いかに」創るのか、党は「いかに」活動すべきか、という問題は、すべて彼岸のものになってしまう。そして第四には、以上の総体的結果としての大衆運動からの召還主義、春闘や学生運動の危機にかんする無感覚の自己合理化として現象する。
 
 革命的ケルンの創成、大胆な統一戦線の組織化を!
 
 われわれは、破産した共産主義者同盟を革命的に解体し、同時に、こうした解体過程を実現さるべき革命的同盟の実現過程として遂行していくために、まずもって、共産主義者同盟の内部で革命的転化をめざし苦闘しつつある同志諸君を、こうした「革命的戦旗派」指導部の深刻な誤謬から解放するためにたたかわなくてはならない。
 われわれはただちに、解体しつつある共産主義者同盟の諸潮流の内部に確固とした「革命的ケルン」を組織するための仕事にとりかからなくてはならない。この「革命的ケルン」は、破産した共産主義者同盟の革命的解体の主体的契機としてたたかうことによって、逆に、自己を実現さるべき同盟の実体として形成していかねばならないであろう。そしてまた、いっさいの革命的分子を大胆にマル青労同、ならびにマル学同に組織するための綿密な準備をおこないつつ、ただちに着手する必要がある。
 右の仕事をすすめるに際して、われわれは、いっさいの妥協を排し、きわめて原則的に行動しなければならない。党の問題にかんして、われわれは、なにひとつとして譲ってはならない。だが、革命的共産主義者は、どんな問題でも「絶対に妥協してはいけない」のだろうか。否! われわれは、全学連の革命的防衛のために、そして学生運動の革命的再建のために、大胆に統一戦線戦術を適用しなければならないのである。
 革共同西分派の諸君は、全自連との統一を実現せよ!という中間主義的意見を公然と大衆のまえで語りはじめている。旧ブント諸君の多くがこういう意見にたいしてあいまいな態度をとっていることは、きわめて不可解である。全自連=スターリン主義者にたいして、断固とした反撃を開始せよ! そのためにこそ、われわれは、可能なかぎりの部隊を結集して、スターリン主義者の攻撃から全学連を防衛するために、全力をつくしてたちあがらねばならない。
 すべての革命的共産主義者は
 反帝・反スターリン主義の旗のもと
 革共同全国委員会に結集せよ
 
                (『前進』二六号一九六一年三月二五日に掲載)