三 六・四ストとわが同盟のたたかい
六〇年ブント主導下の全学連第一六回大会において、全大会参加者へ、六〇年安保闘争の一項点たる六・四政治ストの評価をめぐつて、わが同盟にたいする非難に答えるチラシのかたちをとって、六〇年安保闘争と革命党創成の根本的立脚点を鋭くおしだした文書である。
全学連大会に結集した革命的学生諸君!
きわめて奇妙な事態が、だがものごとをふかく考えようとするものにとってはきわめて自然な事態が、生まれつつある。代々木派と革共同関西派が、みずから会場をたちさったあと、大会は、極左ブランキー主義者の革命的マルクス主義者にたいする攻撃の場に転化した。
共産主義者同盟員を自認するN君は、突如としていう――「あらたな日和見主義を粉砕せよ!」と。だが、かかる「日和見主義」とは、いったい何を意味するか? N君によれば、わが革共同全国委員会と日本マルクス主義学生同盟が、かかる「日和見主義」の発生の根拠であり、それは、六・四政治ストの際に闘争を押える役割をはたした、という。
だが、卑劣な虚構と歪曲に色彩られたこの「批判」は、批判者の心情を裏切って、逆に批判者みずからを突きささずにはおかないであろう。なぜなら、六・四闘争の総括という日本学生運動にとって死活の問題を討議しなければならない、まさにその時に、わが同盟全国委員会の方針と行動が論議の中心にならなければならなかったという厳然たる事実がそれである。
しかも、奇妙なことには、わが批判的批判家の一群は、かの「新しい前衛」、すなわち「全国の数百の職場に細胞をもつ」(「共産主義」六号)偉大なる共産主義者同盟が、ここにおいて一体どこにいたのか、というまったく重大な問にこたえることができないでいる。
全学連大会に結集した革命的学生諸君!
われわれは、かかる権力の眼にさらされた公開の場において、革命的労働者の組織活動にかんする問題を討議しようとするいっさいの挑発を拒否する。われわれは、革命的学生諸君が、十分の配慮をもって討議に参加されることを期待する。
だが、われわれへの「批判」にことよせて、六・四ストを戦闘的にたたかうために活動していた革命的労働者を誹謗し、これに「日和見主義」のレッテルをはりつけるようなことは、断じて許すことはできない。たとえば、かれらは、]機関区において、学連デモが構内に入れなかった責任を]機関区の青年労働者の「日和見主義」に押しつけようとしている。しかしながら、かれらは、学連の前にたちふさがった労働者ピケ隊が、国労中闘の指令で派遣された地方の労働者であったこと、しかも、分会青年部の労働者の説得によって、そのあとピケは完全に解かれていることを故意に無視している。
ここにおいては、事態を左右する鍵は、まったく学連指導部の掌中にあったのである。学連指導部は、学生を構内に導入しようとした。だが、この時、意外な事態が生じた。前日の六・三官邸突入闘争において学連の無責任な戦術指導にほんろうされた学生は、ここにおいて指導部を信頼できず、逡巡してしまったのである。
青年部の労働者に、学生を「アジ」ってくれ、という依頼をしてきたのは、その時である。
「かえりみて他をいう」というコトバがある。かかる本末転倒した闘争の状況こそ、この全学連大会が、深刻に自己批判=総括しなければならなかったものなのである。しかも、国労地本と分会の青年労働者の戦闘的あいさつによって、事態を収拾することができたのではなかったか?
全学連大会に結集した革命的学生諸君!
六・四故治ストの「実現」は、同時に現実には、共産主義者同盟の一年半にわたる組織戦術の危機を露呈させずにはおかなかった。すなわち、かれらは、一年にわたって労学ゼネストの空砲をうちならしてきた。だが問題は、いかに、だれが、であるにもかかわらず……。
だが、ゼネ・ストにくらべればはるかに小規模のこの政治ストのなかでも、かれらは、自己の方針を実現すべき媒介をなんらもちえず、ただただ、他のプロレタリア組織に批判的批判をくりかえすのみである。しかも、かかる現実にたいする深刻な認識なしに、四月――六月の闘争を「あと一歩で政治危機」などと評価し、九月にも「社会を根底からゆり動かすような階級決戦」がくるかのように幻想し、それに備えて「数十日にわたるゼネ・スト」を空語することは、まったく単純な小児病である。
革命的労働者に依拠した革命的前衛党なしに階級決戦を呼号するようなことは、まさに、数百の訓練された革命家がいさえすれば‥‥といったブランキーの心情の復活である。
全学連大会に結集した革命的学生諸君!
五月二〇日の朝、数千の学生を前に階級闘争が敗北したいま、われわれ学生運動も敗北した″と叫んだN君は、いま、諸君にむかって「勝利」を語っている。五月初旬安保決戦などという奴がいる〃と嘆いたA君は、いま、秋の階級決戦を呼号している。
諸君は、かかるカメレオンに左翼共産主義者を僭称することを許しておくべきであろうか?否!われわれは、ブランキーの徒の革命的マルクス主義にたいする攻撃をはねかえし、真に革命的な共産主義運動の建設を、革命的労働者を中核にかならずやなしとげるであろう。
革命的空語では、革命に勝利することはできない。敗北の明確な認識のうえにたって、かかる敗北をもたらしたものをあばきつつ、きたるべき革命を勝利にみちびきうる革命的労働者の創成のために、全力をあげてたたかわなくてはならない。
安保闘争の敗北という冷酷な事実の前に、基幹産業の労働者のすくなからぬ部分がいま、急速に既成の指導部から離脱しつつ、革命的マルクス主義にむかっている。左翼共産主義を僭称するかかるブランキズムは、このような労働者の左傾化を逡巡させ、ブルジョアジーとスターリニストの攻撃を容易にしているのである。
たたかいは、いま、出発したばかりである。この力を極左主義の洪水のなかで埋没させてはならない。
一九六〇年七月五日