反スターリニズムのたたかい
   革共同関東大会提出 田宮テーゼ
 
 本テーゼは、第四インター教条主義者(当時関西派と呼ばれた)との思想的・政治的・組織的闘争の綱領的立脚点を形成した重要な文献であり、革共同・全国委員会の創成の原点をもなすものである。田宮とは当時の本多書記長の組織名である。
 
 
 一 モスクワ第二〇回大会におけるフルシチョフ・グループのスターリン批判は、じつさいには スターリンの第一後継者を決定するためのシーザー″劇の一幕にしかすぎなかったにもかかわらず、ソ連官僚制の危機的構造の一端をはしなくも暴露してしまった。東独ゼネスト、ヴォルフタの暴動などと官僚の圧制への闘争の火ぶたを切りつつあった勤労人民は、「赤軍」の強力のもとに、ソ連の社会的・経済的・政治的構造に「官僚的・軍事的」に編入された東欧「緩衝国」地域において、急激に革命的闘争へとたかまった。ポズナニ暴動を口火に武装ゼネストへとすすみはじめたポーランドの危機は、「民族主義者」ゴムルカの登場によって爆発点にまでたかめられることもなくひきのばされた。だが、有能なただ一人の「スターリン主義」官僚をもみいだすことができなかったハンガリアにおいては、労働者階級のたたかいは、戦線全体をみとおす革命的指導部をもっていなかったにもかかわらず、革命的爆発点へと近づいた。ソ連官僚制の打倒をめざすハンガリア労働者ソビエトは組織された。クレムリン私兵の戦車と鉄砲のカヴェニヤツクにも比すべき血の弾圧との抵抗のなかで、ハンガリア労働者階級は、はじめて自己の権力をみいだした。
 
 二 ハンガリア革命の血の叫びは、日本労働者階級の革命的心臓にひびきわたった。ソ連官僚制への弾劾は、まずもって革命的マルクス主義の旗を志向しつつあった先駆的小グループによって発せられた。内田英世「反逆者」、太田竜『レーニン主義研究』、黒田寛一『スターリン主義批判の基礎』、社会党第四研究会「資料」などがそれであった。だが、日本労働者階級の公認の指導部を自称している日共と民同は、ハンガリアの労働者にたいして一片の「連帯の意志」さえ表明しようとはしなかった。そればかりか、かれらはスターリン主義官僚の反革命的行動を公然と支持し、激励さえした。スターリン主義者と左翼社会民主主義者のこうした裏切りが、労働者階級と左翼知識人のかなりの部分の支持をうけつつあるという状況のなかで、革命的マルクス主義者の独立した集団が公然と大衆に真実を語るための活動を開始することは焦眉の任務であった。「反逆者」編集部に「独立した」革命的マルクス主義の拠点を集中しつつ、精力的宣伝が労働者階級と革命的知識人にむかって開始された。
 
 三 ソ連圏における政治革命の展望を解明しつつ(主として外国の文献、あるいはトロツキーの遺作を紹介し究明することによって)革命的マルクス主義の立脚点をうちたてるための闘争は、組織的には日本トロツキスト連盟の結成として実現した。五七年四月の全国代表者会議は、日本革命の行く手をてらすプログラム、行動綱領草案″を決定し、日本における最初の「独立した」革命的マルクス主義の指導部を組織した。マルクス主義の名のもとにエセ・イデオロギーをふりまき、日本革命をソ連官僚の「外交的」マヌーバーに従属させつつ、ブルジョア的生産様式のもとで苦吟するプロレタリアートの革命的力量を絞殺し、おしまげてきた日本スターリン主義者は、いまや少数とはいえ、そのエセ革命性の本質を見ぬき、日本プロレタリアートの解放を世界革命(人間の普遍的解放)の実現のなかにみいだす革命的集団のまえにセンリツし、恐怖しなければならなかった。
 革命的マルクス主義の立脚点をあきらかにし、革命的指導部を確立するための闘争は、しかしけっして平坦なものではない。それはまず、トロツキズムをセクト的教条的に獲得しつつ、現実にはパブロ書記局の方針をうのみにしようとする太田竜に人格的表現をみる偏向との闘争として、すすめなければならなかった。その第一は、当面の主要戦術を日共主流派の打倒をめざした広範な反対派の統一戦線の結成と統一行動の実現にみいだしえない誤りとの闘争であった。統一戦線の実現のまえにトロツキズムの「純粋性」をまず基礎とするという逆立ち組織論をうちやぶり、別個にすすんでいっしょにうつ″の原則を大胆に展開しつつ、革命的中核を「永久的」に拡大していくことこそが、われわれの勝利の道でなければならないし、そしてまた、こうした統一戦線戦術の一環として運用することによってのみ加入戦術もまた有効性をもちうることを、かれらはいささかも理解しようとしなかった。だから、こうした組織戦術の誤謬の根底にあるトロツキー・ドグマチズム、すなわち、トロツキーを絶対化し、それを唯一の価値判断の基準にするという後向きの態度との闘争が不可避であった。反対派の活動における政治的力学の無知ないし無視からうまれるこうした誤謬こそは、トロツキーの歴史上の弱点のデフォルメでもあった。かくして太田は、第四インターが世界的にも国内的にもいまだ十分に大衆を獲得していない事実を、「二三年以後のロシア・スターリン主義者の反動の圧力の強さ」などに結びつけていく客観主義に転落する。世界革命の一環としての日本革命の実現、ここにこそわれわれのいっさいの価値判断の基準があることを明白にしつつ、われわれはトロツキズムを反スターリン主義→革命的マルクス主義の最尖端としてとらえかえし、マルクス主義を現代的に展開していくものでなければならない(「革命的マルクス主義とは何か」 『探究』第三号参照)であろう。こうした太田の教条的セクト的傾向は、ソ連論をめぐる内田の対馬的傾向との闘争において色こくあらわれた。第五回大会出席後、さらに極端となった太田は、日本における左翼反対派の活動をすべてパブロ分派とのみ直結させようとする陰謀となってあらわれた。
 
 四 六全協後、その上層部の堕落と腐敗をみずから暴露してしまった日共は、その内部に多くの反幹部的潮流を生みだした。これらのなかでもっとも中央部と対立していたのが、学生党員を中心とするグループであった。かれらは平和共存戦略のワクのなかではあったが、平和運動をできるかぎり国際的展望のなかでとらえようとし、またそれを権力との闘争においても徹底的におしすすめようとしている点で特殊な潮流を形成していた。五六年の暮には、ハンガリア革命におけるクレムリンの行動を全面的に支持″し、「理学部的傾向」をトロツキズムと烙印し弾圧をくわえた(その人たちこそ、こんにちCL(共産主義者同盟)の指導部の中核をなす東大グループであることを、われわれははっきり指摘しておこう)。かれらは、五七年にはいぜんとしてトロツキズムに肉体的反発をしめしつつも(東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』をみよ)、われわれのこえに耳をかたむけざるをえなかった。日本共産党大会をめざすいわゆる綱領論争は、日共内の反中央派を綱領的反対派にたかめる一つの契機となった。「第四インターナショナル」『探究』などは日共のエセ『前衛』や『マルクス・レーニン主義』のエセ左翼主義を批判しつつ、革命的マルクス主義の道をあきらかにしていった。学生運動の平和急進主義的袋小路を解明した黒田「反戦学生同盟の諸君へ」(『探究』第二号掲載、一九五七年一二月)とレーニンとトロツキーの折衷的労作である山口一理「十月革命の道とわれわれの道」(『M・L主義』第九号)は、学生党員の左翼化の理論的拠点をつきだしたものとして画期的なものであった。
 
 五 トロツキスト連盟から革命的共産主義者同盟への発展(一九五七年十二月)は、かならずしも量的変化の直接の結果としてではなく、組織論的前進の結果として実現された。それは同時に学生運動の深部に胎動しつつある潮流を予知したものでもあった。学生党員の少数がわれわれの旗のもとにちかづいてきた。反戦学生同盟から社会主義学生同盟への転化がかちとられた大会における杉田・鈴木理論との闘争、全学連十一回大会における平和主義者高野派″との闘争は、わが同盟の組織戦術の最初の大衆的適用の場になった。右をたたいて左によせろ=Aこれがわれわれのアイコトバであった。学生党員の多数を反中央に明白に組織しつつ、かれらの中核を日共のワクをつきやぶってわれわれの同盟に組織すべき任務は急をつげていた。拠点校を中心に、下からいかに反対派を組織するか、これがわれわれの課題であった。
 
 六 フランスにおける反ド・ゴール闘争の評価をめぐつて、パブロのエピゴーネン太田竜との闘争はふたたび重要性をおびた。その対立・闘争は黒田論文(「早大新聞」五八年六月一〇、一七、二四日号)がPCl(第四インター・パブロ派)の「社共政府」のスローガンを批判したことにたいする、太田の非組織的・セクト的批判(?!)からはじまった。だがこのことは、この闘争の意義をいささかもひくめるものではない。なぜならば、それは反ド・ゴール闘争の評価というきわめて実践的な問題をめぐつての対立であったばかりでなく、第四インターの綱領的立脚点をめぐるすぐれて原則的な対立でもあったからである。それは同時にわが同盟におけるこんにち(一九五九年前半期)の論争と基本的同一性をもっているからである。対立・闘争は、反ド・ゴール闘争におけるPCIの方針にむけられた「批判」にたいして太田が「第四インターの原則からの逸脱だ」とひらきなおり、かれら批判者の処分を要求したことからはじまったのであるが、ここではこの対立を契機にしつつ明白 となったところの理論的対立のみにしぼってかんたんに問題点を明らかにすることにする。
  a  SP加入戦術について(略)
  b 反帝・労働者国家無条件擁護について(略)
  c レーニンとトロツキーの革命戦略論について(略)
  d ソ連論について(略)
  e 組織論について(略)
 太田は、同盟内での理論闘争の勝利のみとおしを失うや、わが同盟から組織的に分裂し、反同盟的組織関東トロツキスト連盟再建委員会≠ネるものを組織し、反同盟的活動を開始した。少数派たる太田が全体討議を拒否したという事実からしても、「こんにちの第四インターナショナルの国際的関係の現状に、われわれは想いを馳せないわけにはいかない。アメリカ・トロツキスト=キヤノン派との統一をすらなしえないでいるパブロ=ジェルマンの第四インターのみじめさ。さまざまの「独立」社会主義運動と部分的な統一行動をもとろうとしない第四インターのケツの穴の小ささ。これは世界トロツキスト運動の力関係をなお弱めている一つの教訓であろう」(『探究』別冊一号、一九五八年七月)。
 
 七 日共第七回大会における官僚の勝利、反対派のしめだし、勤評闘争の激化、警職法闘争の高揚、反ド・ゴール闘争の敗北などの事実は、学生党員の多くを過去の小ブル的平和急進主義から革命的マルクス主義の方向へと押しやった。日共内反対派として組織された学連フラク≠ヘ、そのはじめは日共第八回大会をめざすもので、その綱領は(1)戦略・戦術的極左、(2)社会主義革命、(3)所感派打倒、(4)国際権威主義反対(4だけはその後とり入れられた)といったズサンなものであったが、日共中央の無内容な攻撃と統制、同盟員の内外からの活動によって、学連フラクはしだいに左翼合同反対派の傾向を強めていった。かれらの多くは、「世界革命」や『探究』の理論方針にいぜんとして肉体的反発″を示しつつ、こつそりとそれをしいれることなしには、かれらのフラクションの立脚点をどこにもみいだしえぬことに気づいていった。九月になっても日共のワクからはみでることをいぜんとして恐怖していた東大CPの指導部は、十月中旬にいたってはじめて、フラクを日共外組織にまで発展させることを決意するにいたった。だがかれらは、われわれの理論的共有財産をこっそりと、しかも表面的にぬすみとりつつ、わが同盟と第四インターに勝手に死の烙印をおしつけることによって、前からの反発″をテレかくしし、左翼反対派の名誉を独占しようとする陰謀を開始した。かれらは第四インターにただちに加入するかどうかというきわめて飛躍した問を提出することによってスターリン主義から脱出しようとしつつも、いまだ革命的マルクス主義には到達しえてはいない中間的部分を、自己の統制のもとに集中しようとし、またわが同盟の同志にたいする露骨な中傷と策動をすすめた。だがこうしたエセ左翼の学生戦線における策動をゆるしてしまったもっとも決定的理由が、わが同盟の主体的条件のたちおくれ、いなその解体的危機にあったことを、われわれははっきりとみとめなければならない。同盟員の各部署での闘争はかなりの勝利をえつつあったにもかかわらず、同盟員としての統一された活動と指導はゆきづまりつつあった。これはまずもって中央書記局の危機としてあらわれた。これは(イ)専従者の欠如、(ロ)理論的水準の低さ、(ハ)資金の欠乏、(ニ)遠山の階級的裏切り、(ホ)関西ビューローからの通信の切断、(ヘ)学連フラクをめぐる策動と陰謀的大混乱などの複合的結果としてあらわれた。こうしたわれわれの主体的状況のなかで、学連フラクをわが同盟と敵対的な組織へと発展させようとする策動がすすめられていった。共産主義者同盟の結成(五八年十二月一〇日)がそれであった。
 
 八 五八年十二月の拡大政治局会議は、こうした左翼的潮流のあらたな情勢のなかで、同盟の統一と再建を急速のうちに実現し、学生戦線内部においてCL主義への批判を明白にし、学生党員の多数をわが同盟の旗のもとに結集すべき任務をあきらかにした。学生運動の中核的活動家の多数の参加のもとに再建された関東ビューローは、共産主義者同盟のエセ左翼性とその理論的組織的誤謬を暴露し、学生活動家と革命的労働者をわが日本革命的共産主義者同盟の周囲にかたく結集するための闘争を開始した。CLとの闘争は、はじめ第四インターとわれわれの立場・ソ連の評価とわれわれの戦略というきわめて組織的政治的な原則的立脚点をめぐる理論闘争としてはじめられた。
 a 第四インターナショナルをめぐつて  共産主義者同盟の指導的分子はわが同盟と学連フラク――その政党化としてのCL――との統一的展望を拒否しつつ、第四インターはその創立の当時から死滅している、したがって、それがあるからまずそれに加入するという客観主義を排し、日本革命の勝利を基礎に新インターの展望をたてるべきであると主張する。こうしたかれらの主張が、世界革命の危機的状況、とりわけスターリニストとの闘争の複雑な構造をまったく捨象し、第四インターのこんにちの低迷から直接にその破産をひきだすところの現象論的・セクト主義的誤りであることは、いまやあきらかであろう。われわれにとって必要なことは、トロツキーの、したがってまた第四インターの組織論的欠陥・弱点、そのこんにちの低迷を明確にあばきだしつつ、こんにち第四インターに組織されている各国支部を、スターリニストとたたかう左翼反対派の最先端としてとらえかえし、たとえ少数であろうと貴重な同志として、この部分との団結をかため、こんにちの第四インターを世界革命を真に勝利にみちびきうる世界革命党に発展せしめるためにたたかうことでなければならない。われわれと第四インターとの立場はそうした動力学的な展開のなかでのみ理解されうるであろう、したがって、われわれはCLの批判にたいして、たんに歴史主義的合理化やトロツキズムの防衛といったもので答えるべきではなしに、世界革命党を確立するための現実的展望をいかにきりひらくかをあきらかにすることによって、かれらのセクト的な分離結合論的誤謬を示すべきであろう。CLの諸君のわれわれにたいする批判は、われわれ自身がそれ以前に問題にし内部討議によって克服しようとしたいくつかの指摘をまったく一知半解に拡大したものにすぎない。だがこうしたかれらの低水準にもかかわらず、われわれのかれらにたいする反批判、CLの組織論をめぐる闘争はけっして成功的におこなわれたとはいえないであろう。たとえば三月に発行されたパブロの『第四インターナショナル――それはなにか、それはなにをめざすか』がいかにわれわれの闘争を困難な局面におとしいれたかを考えなければならないだろう。そのあとがきでパブロの解説に若干の保留がとどめられていたとしても、それは、まったく現状よりもたちおくれているばかりでなく、さらに過去の理論的成果にまったく無知であることをしめしていた。われわれは同盟のこうした状況を一日もはやく克服し、革命的インターナショナリズムの創成のためにたたかわなくてはならぬだろう。
 b ソ連論ならびにいわゆる同時戦略をめぐつて  CLのわれわれにたいする批判(?!)のもう一つの問題は、トロツキーのソ連論堕落した労働者国家″説にたいする文学的″との批判であり、ドン・キホーテ式の反帝・反スタ同時戦略″論の提出であった。この意見もまた、わが同盟の内部ですでに展開されていた論争の一知半解である点でまったく同様である。かれらのソ連論は奇妙″な構造をなしている。それは官僚制国家資本主義的下部構造と労働者国家的「法律的政治的」上部構造の対応説においてみじめにも暴露される。われわれはトロツキーの堕落した労働者国家″説を基本的には支持しつつ、トロツキーの歴史的評価によりかかるだけではなしに、さらに現実の「ソ連」の政治的・社会的・経済的構造の分析をつうじて堕落″の内容を発展的に解明すべきであると考えているし、そうした意味で堕落した労働者国家″をくりかえしているばかりでは文学的″であるとの説に反対ではない。だがCLの諸君は、現実のソ連にただ『ゴータ綱領批判』を対比し、ただただ「価値法則」の貫徹を指摘するだけである。こうしてかれらは「価値法則」の存在から直接に「資本」の実証へとすすむのである。かくしてかれらは現象論的「同時」戦略にたどりつく。だがかれらが帝国主義打倒とスターリン主義打倒の論理的関係を正しく理解してないことは、それを資本主義国におけるプロレタリア革命とソ連圏における政治革命(かれらはそれを社会革命と呼びたがる、だが社会的でなかった革命があるだろうか)に実体化してしまっていることからあきらかであろう。帝国主義打倒を世界的に実現していく過程のなかで、ソ連官僚制打倒のもつべき役割と位置を区別と同一において正しくとらえることが必要であった。しかるに、こうしたかれらの誤れる批判にたいして、いやスタ官打倒は労働者国家擁護と結合しなければならぬなどと反論する(西分派)ことは、はたして有効であろうか。現実はわれわれにむかって、ソ連圏における政治革命(ハンガリア革命を想起せよ)を帝国主義打倒(プロレタリアートの自己解放)の全過程のなかにいかに有機づけるか、さらにまた、帝国主義打倒のみちゆきにおいてスターリン主義の官僚的統制をいかに打破するかを戦略戦術的に解明することを要求している。そしてそのことは同時に、ソ連における「生産力の飛躍的発展」をもって直接的に、「国有計画経済の勝利」とする生産力理論を、われわれ自身が克服することでもあろう。
 われわれは学生戦線においてCLとの理論闘争が成功的におこなわれえなかったことを率直に認めねばならぬであろう。かれらのわれわれにたいする批判は基本的にはわが同盟内ですでに問題となった諸事実の断片的よせあつめとおもいつきにすぎない。にもかかわらずCLとの闘争において十分の勝利をかちとりえなかったのは、いな全体としては終始おされぎみであったのは、いったいなぜだろうか。それは学生戦線においてわが同盟員のほとんどが加盟して日が浅く、それ以前の理論的政治的な成果から切りはなされがちであったためかも知れない。こうしたことは、同盟員の全体的な理論的低水準とあいまって、じつさいにはかなりのハンディキャップであった。しかしながら、基本的には全国政治局――書記局、関東政治局――書記局が、十分に同盟の過去の理論的水準を維持し、全体化することができなかったことにあるといえよう。しかもCLのわれわれへの批判が、かつて太田修正主義=パブロ修正主義にたいするわれわれの闘争の武器の断片をひろっておこなわれはじめるや、かれらの断片性を正しく批判し、ことばの真なる説明によってかれらに対置するよりも、ややもするとこうした批判に反発し、太田理論への後退によってこれにこたえる傾向さえ生まれていることを指摘しなければならないであろう。太田的偏向との闘争をわれわれがいま注意ぶかく再検討しなければならぬ意味もまた、ここにあることをあきらかにしておく必要があろう。
 
 九 三月から七月にいたる五カ月は、再建されたわが同盟にとって大衆闘争の方向性をめぐる試練のときであった。わが同盟は主として学生運動に依拠しつつ、大衆的形式においてわれわれの方針を提示することがすでに可能であった。労働者階級と革命的インテリゲンチャは、安保条約改定反対闘争と産業合理化闘争をいかなる方針でたたかうか手さぐりしていた。こうした状況のなかで日共は、いちはやく中立化政策″をクレムリンと北京の指示をうけてかかげた。そしてこれはまた社会党の伝統的外交政策の一つでもあった。だがブルジョアジーに中立を要請するというこの方針がまったくノンセンスであることは、ここにくりかえすこともなかろう。いまここでは、CLとわれわれのあいだに生じたところの安保改定にかんする評価、および合理化反対闘争と安保闘争との関連をめぐつての対立についてのみかんたんにあきらかにしよう。
 この安保改定が日本独占資本の独自の要求にもとづいていること、したがってこの闘争は必然的に日本ブルジョアジー打倒の闘争へとみちびかれざるをえないという点では、ほぼ両者の方針は一致している。だがこの改定――日米新同盟――の国際的評価をめぐつて相違があらわれてくる。CLは日米新同盟の「反共」はたんにイデオロギー的外被にすぎず、したがって日本帝国主義打倒でいいんだ、というのである。だが事実はどうか。日本独占資本は、一方では東南アジアへの資本と商品の輸出の自由を獲得するためにアメリカ帝国主義からより有利な国際法的地位をかちとろうとしつつ、他方では労働者国家と自国のプロレタリアートにたいする共同の敵意を基礎に、あらたな形式で神聖同盟をむすぼうとしているのである。日米両国のブルジョアジーのこうした利害の差異と同一性を正しくみぬくことのできぬかれらは、安保闘争それ自身は条約のための闘争″であり、われわれにとって必要なことは安保改定の階級的本質を暴露しつつ、闘争をプロレタリアートの独自の闘争″へといかに転化せしめるかであることをまったくみうしない、安保闘争を即自的に反帝闘争へ飛躍させることによってこの闘争にいっさいを解消しようとする。こうして労働者階級の現実の闘争の状況、その意識、そしてその現実の指導部の問題をとびこえて、安保闘争の方針をかかげさえするならば、労働者階級はゼネストでたちあがるであろうとのドン・キホーテぶりを、かれらは 発揮する。資本家的合理化との闘争の過少評価は、その政治主義的偏向をいかんなく暴露する。資本家的合理化の強行こそは、安保改定に象徴される日本帝国主義へのシャニムニの姿なのだ! いまわれわれにもっとも必要なことは、安保闘争と合理化闘争の結節点を明白にしつつ、これらの闘争をいかに日本ブルジョアジー打倒の闘争へとたかめるかの道をあきらかにすることによって、日本労働者階級を政治的に教育し、社民とスターリニズムから解放することにあるであろう。かれらの誤謬は、かれらが大衆的影響をもっている唯一の部分である学生運動において、極左主義として現象する。労働者階級の現実を「願望」とおきかえ、労働者階級を闘争にたちあがらせるにはただ強烈な「ショック」が必要であるとするかれらは、学生ゼネストの強行へとすすむ。かくして悪名たかき「先駆性理論」が墓からよみがえる。亡霊は現実の支配者になりえない。現実はかれらのみとおしが完全に破産していることを示している。だが、にもかかわらず学生運動においてCLの方針が、現在においてもいぜんとしておおくの活動家をひきつけている秘密はなにか。その決定的原因は、まさにわが同盟が学生運動において具体的闘争方針を提起しえなかったことにあることを、われわれははっきりみとめなければならないだろう。学生――小ブルジョア――が大衆的形態においてどうたたかうべきなのか、このことを具体的にあきらかにしえない以上、CLの方針がいかに全体として誤謬にみちていようとも、学生はそれを採用せざるをえないであろう。われわれはこうした事実を直視し、秋の闘争の、学生運動の具体的な大衆的方針を立案するための準備をただちに開始しなければならない。
 
 十 組織方針(略)
 
 十一 同志諸君。わが同盟の革命的前進のためのひとつの里程標をなすであろう第一回全国大会の開催の日がせまっている。日本プロレタリアートをスターリン主義と社会民主主義の足カセからときはなち、ブルジョアジーの打倒――自己解放をめざす光栄ある事業にむかってかれらをたかめ、組織するための苦難の道は、ただわれわれの革命的自発性にもとづく長期のねばりづよい自己犠牲的活動のなかでのみきりひらかれるであろう。われわれはいまだ革命的プロレタリアートの大多数ときりはなされ、孤立した小グループであることを忘れてはいない。だがわれわれはまた、わが戦列の内部に数基幹産業の少数であるとはいえ、もっとも訓練された革命的労働者をみいだすことを誇りをもって語りうるであろう。革命的先駆的グループと革命的プロレタリアートの結合は、前者の系統的かつ精力的な接近によってのみその端初はきずかれる。そしてそのことは同時に、はたらきかけるべきわれわれ自身の立脚点の理論化を前提する。なぜならば、革命的理論なくして革命的実践はありえぬからである。
 同志諸君。わが同盟の三年間の闘争の成果をわがものにし、その欠陥を大胆にあばきだし、同盟の統一と前進を飛躍的に発展させるために、われわれはその全力を大会の成功の準備のために集中しなければならない。われわれは、この大会およびその準備のための闘争をつうじて第四インターナショナル日本支部を確立し、プロレタリア世界革命の一環としての日本革命にむかってのわれわれの共同の決意をかため、同志的結合をふかめるであろう。だがそれは、同盟内の理論的対立をいささかも無視し、おしかくそうとするものではない。たとえ、それが現在どんなにささやかな相違としてあらわれるとしても、それが革命的理論の基本的命題にかかわりあうものであるかぎり、それは徹底的に追求されることが必要であろう。それは同盟の団結の障害ではなくして、まさしくその基礎である。
                (一九五九年八月)