情勢にアプローチする方法論の整理
―松崎論文をうけて
掛川 徹
産業資本の搾取より貨幣資本の詐欺的収奪に現代資本主義の基軸がある、という松崎氏の重要な指摘を受け止め、この問題をあらためて検討したい。現在の恐慌が戦争と革命の時代の到来を意味しており、新自由主義の破綻を革命論に位置づける必要がある点でわれわれの認識は共通している。以下の小論は情勢論そのものではなく、情勢にアプローチする方法論の整理である。
(1)「架空の貨幣資本」について
松崎氏の「架空の貨幣資本」論は概念の混乱があるのでまずこれを整序したい。
@税金について
税金は言うまでもなく労働者からの国家的収奪である。
かつてスミスは”国民の総収入は利潤・賃金・地代からなり、賃金への課税は労働者の生存費を増大させ、製造業者が利潤から控除してこれを肩代わりするので、結局利潤に課税するのと同じことである”と論じた。実際、自由主義段階で納税の義務を負っていたのは資本家だけだった。労働者への課税自体が帝国主義段階の特質で、これ自体解明すべき一つの大テーマだがとりあえずそれは脇へ置く。
さて、個別資本によって搾取されるのか総資本(政府)によって収奪されるのか、という点で、労働者への課税・非課税は確かに様相を異にするが、国民的総収入の利潤と賃金への分割という視点で見ればスミスの指摘は今日でも生きている。つまり、税金の額がどう決まるのか=国民的総収入を総労働と総資本がいかなる比率で分配するかは、賃金の決定と同様、両者の力関係でのみ決まる問題である。収奪の割合は一見恣意的だが、国民的総収入の枠内で、物理的・社会的・文化的に規定される労働者の生存費を限界基準点として分割比率が上下するということである。百円の商品が115五円で売られるかどうかは、政府の詐欺的思惑ではなく、総資本と総労働の抗争の結果で決まる。
A国債について
国債は将来の徴税にたいする請求権を一定額の資金で購入する金融商品である。額面価格百万円の国債は市場金利1%なら100÷1.01=99万円で取引される。金利が20%に上がれば83万円に下落する。税収を資本に見立てる点で国債は「架空の資本」だが、税収という実体がある以上、国債そのものが虚構だとは言えない。
むろん、米帝の税収をはるかに上回る莫大な米国債が世界市場に出回り、将来の税収によって国債を換金する見込みがない点で、今日の国債市場はまぎれもなく投機状態にある。ただし、国債による大衆収奪が初めて大規模に行われたのは第一次帝国主義戦争だった。金本位制から離脱した各国が戦時国債を乱発し、戦後の金本位制復帰に伴う大インフレによって軒並み国債が紙くずと化したのである。これは第二次大戦当時の日帝も同様で、国民的に購入が強要された戦時国債が戦後のインフレと新円切替で紙くずとなった話は周知であろう。日帝がいずれ同様の手法で個人資産1200兆円を収奪する腹を固めていることはほぼ確実である。
B株式発行に伴う「創業者利得」について
株式発行を新規発行する際、例えば1万円の配当が見込まれる10万円の株式は、金利が1%なら100万円で売られる。資本家は手に入れた資本金10万円以外に90万円の利益を得るが、これをヒルファディングは「創業者利得」と名付けた。日本では未公開株を賄賂として自民党に譲渡したリクルート事件が有名である。「創業者利得」が初めて社会的スキャンダルになったのは1870年代ドイツだったことを「帝国主義論」は指摘している。
(2)現代帝国主義論の再確立を
産業資本にたいする貨幣資本の優位という点で松崎氏の指摘は正しい。「産業資本のますます多くの部分が、それを充用する産業資本家に属さなくなる。彼らは資本の管理権を、彼らにたいしてこの資本の所有者を代表する銀行をとおしてはじめて獲得する」とヒルファディングは指摘した。「帝国主義にとって特徴的なのは、まさに産業資本ではなく、金融資本である」(レーニン)。
独占価格による超過利潤の取得、「とばし」と粉飾決算、土地バブル、株式や有価証券の不正売買…「どんな後暗い醜い行為をも天下御免でやり通し、公衆から巻き上げ」、「主要な利潤は金融的術策の『天才』の手に帰」し、「金利生活者と金融寡頭制が支配的地位にあ」って、「数百人の金融王」が全産業を支配する―「独占は、ひとたび形成されて幾十億の金を運用するようになると、絶対的な不可避性をもって、政治機構やその他のどんな『細目』にも関わりなく、社会生活のあらゆる面に浸みこんでゆく」(「帝国主義論」)。産業資本の利潤の単なる量的拡大ではなく、金融資本の詐欺的・強圧的な全住民からの収奪が資本蓄積の源泉となり(金融資本的蓄積様式の確立)、この金融寡頭制が全世界を政治的・経済的に支配する―これこそまさにレーニンが描き出した帝国主義である。
松崎氏は現代資本主義の重要な特質を正しく指摘しているが、「架空の貨幣資本」という耳慣れない言葉を使うより、「金融資本による収奪」というすでに確立された概念で豊富な資料を整理されることを望む。「生産の集積、それから成長してくる独占体、銀行と産業との融合あるいは癒着―これが金融資本の発生史であり、金融資本の概念の内容である」(レーニン)。この規定が「搾取か収奪か」という議論を止揚する。「収奪でなく搾取に基軸」と言えば確かに間違いだが、金融資本ではなく「貨幣資本の収奪に基軸」とすると、これも逆の間違いとなる。例えばトヨタは、大銀行の系列下にないものの膨大なグループ企業を束ねる独占体であり、10兆円を超す内部留保と独自の銀行を運営している点でまさに「銀行と産業とが融合」した金融資本と言ってよいのではないか。クルマを売る代わりに300万農家を切り捨てる日豪FTAは、トヨタによる農民収奪だと言うこともできよう。
「帝国主義論」こそ、わが再建派の綱領的立脚点である。清水丈夫は、生産部門と金融部門にまたがる資本の運動を「モノとカネ」なる俗流ブルジョア経済学の概念に置き換え、事実上「金融資本」概念を解体してきた。これが与田的血債主義と安田的純プロ主義を生み出す理論的根拠となった。
第1次大戦下のロシアで労働者・農民・兵士は「パン・土地・平和」を掲げて立ち上がった。レーニンは、「帝国主義論」の確立を通して、古代以来の木製のスキ・クワで耕す一億農民の反乱が金融資本の農民収奪にたいする抵抗であると喝破し、従来の「労農独裁」によるブルジョア民主革命ではなく、ロシアでわずか200万人しかいない近代的大工場の組織労働者に依拠した「プロレタリア独裁」、「労農同盟」に基づく社会主義革命こそが全人民解放の道であることを示した。
われわれの眼前には、当時をはるかに上回る規模で「金融投機の天才たち」による収奪が展開されており、これにたいする反乱が「反グローバリズム」という形でやはり世界規模で広がっている。こうした状況だからこそ、安田中央派のように原理論の一面的強調で収奪との闘いを切り捨てるのではなく、ネグリ的な各種「周辺革命論」に組するでもなく、金融資本の政治的・経済的支配をその根幹において打倒することが帝国主義本国プロレタリアート、とりわけ連合など既成ナショナルセンター傘下で基幹産業に組織された労働者の歴史的使命であることを明らかにしなくてはならない。そういう観点から、新自由主義以降の現代帝国主義論の再確立が求められていると思う。(2009年3月下旬)