現代世界認識にかかわる綱領的見解のスケッチ

掛川徹


【1】今日再建派の下に結集している同志は以下の3点において強固に一致している。すなわち、@06年3・14決起を貫徹すること、A安田を打倒すること、B7・7自己批判の立場を守り抜くことである。しかし、今日の清水・安田中央派の急速な崩壊情勢の下で、われわれがここだけにとどまっていては階級全体に責任をとれないことも自明である。われわれは、革命党をめざすものである以上、再建協の綱領を全面的につくりあげ、労働者階級と全人民に世界革命に向かってたたかいの具体的方向性を示さなくてはならない。
そこで、暫定的ではあるが、以下の小論では、現代世界認識にかかわる再建派の綱領的見解のスケッチを試みた。現時点での掛川の結論は概略以下のようなものである。

現代帝国主義は、74−75年恐慌を経て「新自由主義」と呼ばれる政策体系を展開してきたが、これは本質的には没落の趨勢にある基軸帝国主義・米帝の世界支配巻き返し政策であった。
すなわち米帝は、まず変動為替相場制の導入によってドルと金価格との連動から断ち切り、基軸通貨ドルの暴落を回避するとともに、対日・対欧の敵対的な通商政策を強めていった。しかし、趨勢的に工業製品の分野で他帝に太刀打ちできなくなった米帝は、変動相場制に伴う通貨投機をもテコとして、貿易赤字で蓄積された他帝国主義のドル資金を米帝に還流させ、この大規模なドルを投機的収奪に用いることによって金融資本を通じた世界支配の立て直しをはかった。IT技術を駆使した金融新商品の投機は史上空前の規模に達し、米帝金融資本の収奪は新植民地体制諸国のいくつもの国々を国家まるごと破産させるにまで至った。
この過程は同時に、利潤率の低下という基調の下で利潤の絶対量を拡大しようとする米帝が、29年恐慌を機に形成されてきた国家独占資本主義(あるいは「福祉国家」)的在り方を解体し、帝国主義本来の暴力的な在り方をむきだしにするものであった。@金融資本の活動を制約するグラス・スティーガル法を始めとした種々の規制を取り払い、金融資本の収奪を全世界的な規模で野放図に展開するとともに、A搾取率を極限的に強めるために労働組合の弱体化、とりわけナショナルセンターの解体を意図した攻撃が強められた。さらにB農業部門では米帝の食糧支配を貫徹するために米帝アグリ・ビジネスによって世界規模の農民収奪、農業切り捨て・農村破壊が進められ、C社会保障の領域は、「自己責任」の名の下に徹底した切り捨てと営利化が行われた。概略上記4つの内容が「規制緩和」「民営化」の名で進められたが、ソ連邦解体はこれを一層促進するものとなった。
各国帝国主義は多かれ少なかれ米帝の土俵でこれに対抗することを迫られたが、EUはこれにたいして1999年に統一通貨ユーロを導入し、独自の経済・福祉・労働・食糧・エネルギー政策を進めるとともに、ロシアをも巻き込んで米帝の世界支配に挑戦する意思を鮮明にした。ドル・ブロックとユーロ・ブロックの対立は決定的となり、もはや両者の生き残りをかけた世界戦争以外によってしか両者の覇権は決着をつけることができない段階に達しつつある。日帝は米帝の大攻勢に直面し、単なるこれまでの日米軍事同盟だけではなく、むしろ米帝と経済的にも一体化することで延命する道を選択したが、これはドル・ブロックに日帝の存立をかけ、ユーロ・ブロックとの世界史的抗争を米帝とともに生き延びるという決断でもあった。
日米同盟に日帝の延命をかけきった日銀を中心とする金融資本の中心的グループおよび独占資本は、1986年前川レポートを綱領的結集軸としながら、大蔵省を中心に国独資的在り方に執着する旧来の支配グループを解体した。そのメルクマールが1998年の大蔵省解体である。だが、大蔵省の解体以降、支配階級内部の対立はますます激化しており、両者の抗争は本質的に内戦あるいはクーデターによってしか決着がつかないほど深刻な対立をもたらしている。
 わが革命的共産主義者同盟は帝国主義世界戦争の切迫という歴史的事態に際し、反帝国主義・反スターリン主義世界革命の旗を今こそ高く掲げ、たたかうアジア人民と連帯して帝国主義戦争を内乱に転化し、労働者階級人民による社会主義政権の樹立を目指してその先頭でたたかいぬく。
当面する戦略的課題は、以下の「三つの柱と一つの決戦方針」としてまとめられると考える。
@1047名闘争を基軸にすえて戦闘的労働運動の防衛と発展に全力をあげ、ナショナルセンターの再建をめざす。
A300万農民切り捨ての攻撃と最先端でたたかう三里塚闘争を防衛し、市東さんの農地取り上げを許さないたたかいを強める。またこれを水路として、新たな労農同盟の形成を軸に、農業切り捨て・地域切り捨てとたたかうすべての農民、地域住民との共闘陣形を形成する。
B労働規制緩和、農業切り捨て、社会保障切り捨てという前川レポート路線の矛盾の集約点から反撃に立ちあがった「派遣村」のたたかいを戦略的に推し進め、社会保障切り捨てに怒るすべての人民のたたかいを糾合する。
以上3つの戦略的課題を3本柱とし、これを基礎としながら、C改憲阻止、朝鮮侵略戦争阻止−沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒の戦略的総路線のたたかいを推し進める。今日的には米軍再編の最大の火点である沖縄・辺野古闘争に全力をあげる。
 あくまでも荒削りなスケッチにすぎないが、再建派の綱領は何か?という労働者人民の切実な問いかけに答える作業の叩き台として、以下の研究ノートを提出する。

【2】レーニン帝国主義論の「継承」か「解体」か

この間、わが再建派および非中央派の陣営内部でさまざまな議論が開始されている。
その際、重要なことは、再建派の再結集する綱領的な軸が現代帝国主義論の再構築にあり、再建派こそ本多書記長のつくった革共同の継承者である点を徹底的にはっきりさせることにあると考える。
(1)清水・安田中央派はあからさまにレーニン帝論の解体に踏み込んできている。
「前進」2377号片瀬論文(=清水)は「29年大恐慌の後、金融部門は強力な規制を加えられ、30年前までは比較的控えめで受動的な役割を演じてきた。だが、新自由主義による金融自由化と情報技術の革新で金融は大転換した。経済全般で金融は強い影響力を行使し始めた」とはっきり書いてある。まるで74−75年恐慌に至るまで、日本では6大銀行に系列化された金融資本が政治経済の中枢に存在した事実もなかったかのようである。「控え目な役割」しか果たしてこなかったという金融資本は、第2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争でいったいどのような「控えめで受動的」な役割を果たしたのか? 清水議長は答える責任がある。
片瀬論文は、清水丈夫がこの30年の間およそ情勢とまともに向き合ってこなかったことの証明である。
また、「前進」2389号坂本千秋論文では、「戦争・改憲と民営化・労組破壊粉砕の4大産別決戦」が、「たたかうアジア人民と連帯し、帝国主義の侵略戦争を内乱へ」「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」「改憲阻止・日帝打倒」にとってかわる「革命戦略」だと明言した。「発展的転換」だの何だのと御託を並べているが、「かつての革共同の総路線が今日では間違いである」という結論だけははっきりしている。
その論旨は“74−75年恐慌に直面した帝国主義は、民営化=労組破壊の新自由主義攻撃を徹底した。この攻撃を最深部で阻止したのが85年動労千葉の2波ストライキだ。動労千葉のたたかいが新自由主義を破産させた。今日、帝国主義は民営化=労組破壊をさらに徹底する以外になく、その焦点が4大産別解体を意図した道州制攻撃である。すべてのたたかいを道州制決戦に位置づけ、従属させてたたかうことで革命になる”というものである。
これは、世界戦争危機に際して“戦争が起きる前に革命をやる”といって、戦争・改憲とのたたかいをいっさい放棄し、実際には反戦闘争や改憲阻止闘争をたたかう労働組合に敵対する運動である。その思想的核心は帝国主義論、金融資本論の解体にある。
(2)清水はG―W―G’の資本の循環運動を「カネとモノ」という概念で解体してきた
この30年間、清水=島崎は銀行・証券など金融資本に関わるめまぐるしい変動を一切分析してこなかった。単なる「モノ余り」「生産力の過剰」といったレベルの認識しか彼らは持ち合わせておらず、新自由主義の投機の凄まじさにびっくり仰天して右往左往しているのが現状である。
これにたいしてわれわれは、再建協の綱領をうちたてる立場から、金融資本がこの30年いかに変遷してきたか、実証的分析に入る必要がある。
その対象領域は膨大だが、労働者人民の切実な理論的欲求から直ちに踏み込むべき論点と方向性はいくつかある。 まず、「新自由主義とは何か?」という大問題について、労働者人民に明確な回答を提示することが必要である。結論から述べると、大まかにいって2つのポイントがあると考える。一つは、74−75年恐慌とベトナム失陥をメルクマールとする米帝を基軸とした戦後世界体制の動揺、危機にたいし、米帝は金融資本の投機的収奪を中心軸にすえて世界支配体制を立て直そうとした。そのイデオロギー的な旗印が「新自由主義」だということである。二つに、「新自由主義」の内実に関わるが、金融資本による収奪を徹底するために、米帝は29年以降帝国主義体制の内側に一般化した国家独占資本主義体制を解体していったことである。
@金融を中心とする帝間争闘選
「新自由主義」を進めたのがレーガン、サッチャー、中曽根だ、と一般的に言われるが、3者を単純に並列化したり一括りにすることはできない。というのは、米帝の規制緩和の徹底ぶりが他の帝国主義より際立っているから、というだけではない。「新自由主義」とは何よりも米帝が帝間争闘戦を推進するうえでのイデオロギーであり、スターリン主義および米帝以外の帝国主義をたたきつぶす点にこそその本質があるからである。
米帝が国内外で「自由化」と規制緩和を推進した最深の動機は、製造業部門における帝間争闘戦の劣勢を金融資本の支配によって逆転させるという米帝の国家戦略にもとづいていた。「自由化」「規制緩和」といっても、対外的には特定部門で優位に立つ米帝資本が他国市場に流入できるようにしろという要求なのであって、米帝の戦略的産業が国際優位を失えば、米系資本に有形無形の国家的援助を与え、例えば日帝には「数値目標」導入などの管理貿易に近いことを平然と押し付けてきた。特定分野の「対米開放」こそ核心なのであって、「自由化」そのものに一般的な普遍性があったわけではなく、あくまでも米帝金融資本の「自由化」に重点があり、日帝がこれに対応して「自由化」を進めてきた意味やニュアンスは米帝とはまったく異なっている。
米帝は、金融資本にたいする規制を取り払って投機的に資金を運用することで、米帝の貿易赤字でため込まれた他国の外貨準備を米国内に再び還流させ、米帝金融資本が世界中から集まったドル資金で金融投機を繰り返す−こうした資金循環のシステムを築き上げることによって、製造業部門で米帝を凌駕する日独帝国主義を金融の力で圧倒し、米帝金融資本を中心とした世界支配の立て直しをはかってきた。まずもって米帝の世界支配の立て直しと日独帝国主義にたいする争闘戦−これが「新自由主義」の核心的な本質である【資料1】。
金融投機の崩壊によって基軸通貨ドルが根幹から動揺している。「新自由主義」の優位性を保証していたのは米帝経済の好調であり、帝国主義が世界恐慌に突入した今日、もはや「新自由主義」はイデオロギー的にも政策的にも崩壊した。
だが、ここからの問題は、「新しい金融秩序をどうやって再構築するか」とはならず、より破滅的な世界経済の分裂化・ブロック化と帝国主義世界戦争の危機の切迫が世界史の焦点になっていると考える。
A「新自由主義」の内実についてさらに検討する。
「新自由主義」は「金融自由化」を核心部分にすえながらも、金融資本の活動全域におよぶ規制を撤廃してきた。資本が手をつけてきた規制の体系には、いわゆる金融ファイア・ウォール(銀行・証券業務の兼業禁止)、公益事業の国営化、労働組合活動の一定の保証、社会保障制度、農業保護政策など、社会生活の全領域におよんでおり、これら総体が国家独占資本主義的な社会システムを構成していた。74−75年恐慌を機に過剰生産が露呈し、利潤率が低下するなかで、利潤の量的拡大をさらに進めるためには国家独占資本主義的、ケインズ主義的なこれらの統制システムそのものが桎梏となり、その解体が進められたのである。
この点を評価するうえで重要な視点は、この「新自由主義」政策を通じて帝国主義経済は全く新しい何らかの段階へと飛躍したのではなく、実はレーニン当時の帝国主義、何ものも制約することのない、金融資本のむきだしの暴力的な世界支配の世界に原点回帰したのだ、という観点である。
74−75年以降の金融自由化の流れは「グラス・スティーガル法」(銀行・証券の兼業を規制)に代表されるファイア・ウォールあるいはレギュレーションQ(預金金利に関するFRBの規制)の撤廃に核心がある。もともと、今日の投機経済とその崩壊の根底にあるのは、74−75年恐慌を境に、過剰資本と信用崩壊の危機に直面した銀行が不良債権を証券化して売りさばくことで通貨の流動性を確保し、手数料収入を儲けるというロジックである【資料2】。これによって、リスク評価が不可能となった金融商品が投機的に肥大化し、その資産効果によって生産そのものも拡張されてきた。
この過程を通じて、銀行が従来のような「預金を集めて貸し出す」という商業銀行業務を後景化させ、ヘッジファンドを通じて証券投資に資金を注ぎ込み、シティバンクのように自ら膨大なCDO(住宅関連証券)を発行するなどの現状から、「銀行はもはや従来の銀行ではない」「帝国主義は変わった」論が噴出してきた。
だが、不思議なことに世間のあらゆる論者が看過しているのは、29年恐慌を教訓化したファイア・ウォールの撤廃が新自由主義の特徴だとすれば、現代世界は29年恐慌以前に原点回帰したのではないのか、という問題である。つまり、新自由主義こそレーニン当時の金融資本の在り方に近いのであって、30年代危機の教訓に踏まえた帝国主義国家権力が金融資本を全面的に規制した戦後的在り方の方がむしろ特異だったのではないのか? という問題である。この問題を考えるには、われわれ自身が戦後的既成の価値観から離れて考える必要があると思う。
そもそも、戦前(1920年代)の日本では、証券市場を通じた企業の資金調達や株式買収による企業乗っ取りが日常的に行われ、企業経営は高配当を求める株主によって左右されていた。銀行を通じた直接金融は企業の資金調達の一部を占めるだけだったが、中央銀行を核心とする銀行業界の産業支配がこれによって左右されたわけではない。失業率は25%程度の高率で労働力市場は流動的であり、解雇と再雇用もごく一般的で、社会保障システムはほとんど存在しなかった。つまり、1930年代に戦時統制経済体制を確立するまでの日本帝国主義は、「市場原理主義」が制圧した今日のアメリカ帝国主義に限りなく近かったのである【資料3】。
「戦時統制経済」と一言で書いたが、これには「国家独占資本主義」「福祉国家」と同じものを違った形で表現したものである。「軍事ケインズ主義」と呼ぶ学者もいる。そもそも失業率の低減を制度的に織り込んだいわゆる「福祉国家」自体が戦時統制経済の別の顔であり、「揺り籠から墓場まで」と言われるイギリスの社会保障システムは対独戦争の過程で形成されたことはよく知られている。日本の場合は、戦後経済の成功は1940年に形づくられた戦時統制経済システムによるものだという論調はすでに一定の定着を見ており、これは「1940年体制」論と言われている。
アメリカのニュー・ディール体制も「戦時統制経済」の一つである【資料4】。29年恐慌−30年代危機の過程で、帝国主義は大きくその姿を変えたのであり、レーニン帝国主義論からすれば戦後の帝国主義世界体制の方が特異だったということもできる。むろん帝国主義の国家独占資本主義化には「失業がない国」ソ連に対抗するという目的が大きく作用したことは言うまでもない。
国独資的な「戦時統制経済」の特徴は大変多岐にわたるので、簡略に全体の概要をまとめることは難しいが、重要なポイントは次の点にある。
「市場原理主義」の下では個別資本の利潤拡大が最大限に尊重されるが、これは戦争遂行という総資本の利害から見ると大きな矛盾を来す。「戦時統制経済」は限られた資源を元に軍需生産の最大限の拡張再生産をめざすため、株主など個別資本家の利潤欲求に制度的な規制を加えるとともに、信用創造を国家の統制下において戦略産業に資金を重点配分する。また、労働力の搾取も、軍隊の精強化、軍事生産の安定化という観点から、基幹産業において一定の制限が加えられ、同時に社会保障システムを整備することで労働者階級の不満が体制批判に向かわないようにする。
ここでもう一度、74−75年以降の規制緩和の流れを振り返ると、世界市場というパイが拡大しない基調の下で資本が利潤を拡大するために、(1)ファイア・ウォールの撤廃を基軸に金融投機を通じて全社会からの収奪を強めるとともに、(2)労働市場における規制緩和で搾取率を高め、 (3)社会保障制度など資本の利潤拡大に直接貢献しない部門を切り捨て、(4)統制システムに群がる既存の利権集団や統治機構そのものを解体する。(5)こうした過程は同時に資本間の弱肉強食の抗争を極限まで強め、帝間争闘戦を徹底的に激化させてきたが、(6)ソ連邦崩壊はこうした全過程の歯止めを最後的に外す役割を担った。
米帝が推進した「新自由主義」は、こうした内実をもって全世界に強制されてきたのである。
日本では中曽根が先頭を切ってこれに追随しようとした。特に86年「前川レポート」(前川は日銀の元総裁)が日本の「市場原理主義」グループの綱領的結集軸となり、支配階級内部で「戦時統制経済」グループとの死闘を繰り広げてきた。日帝支配階級の分裂は、米帝が日帝つぶしとして「新自由主義」政策を展開してきたその本質に根ざしている。米帝にいかに対抗するのかをめぐって、日帝支配階級の意思が分裂してきたということであり、こういう観点で90年代の政界再編をめぐる動きを再度とらえなおす必要がある。
(ここでは、小泉に典型的な「構造改革」派を「市場原理主義」グループと呼び、これに対立する「守旧派」のことを「戦時統制経済」グループあるいは「国独資」グループと便宜的に呼んでいる。正確な表現ではないと思うが、あらゆる角度から全面的な検討を経ないと正確な定義づけが困難なため、さしあたり便宜的にこうした表現をとる。例えば、「市場原理主義」グループの極にある米帝は、他国の市場開放を要求する際、確かに「市場万能主義」という装いで登場するが、彼らの主要な輸出品目の一つである農産物に関しては農業への補助金という形で厳重な統制を敷いている。また、「戦時統制経済派」といっても、世界中で戦争放火している張本人はやはり米帝の「市場原理主義」グループである。結局、世界戦争に突入していけば米帝も日帝も否応なく経済統制を強める以外に選択肢はない。「戦時統制経済」グループはむしろ「国家独占資本主義」派と呼ぶ方が適切なのかもしれないが、言葉が正確でないことは承知のうえで、当面の便宜として上記のような分類で用語を用いているのでご理解いただきたい。)
Bその上で、いくつかの点で、確かにレーニンの当時存在しなかった真新しい現象は確かに存在する。
一つは金本位制にとって代わる変動為替相場制の導入である。
金本位制の当時は、各国通貨が金と連動していたため、金の価格=通貨の価格であって、通貨そのものが投機の対象となったことはない。
これに比して、変動相場制の下で各国通貨そのものが投機の対象となった点に現代帝国主義の特徴がある。とりわけ、レギュレーションQの撤廃に大きな役割を果たしたのが、インフレによるドル減価であった。インフレで通貨価値が乱高下することで、投機の機会が圧倒的に増大し、また通貨売買のマネーゲームに参加してリスクヘッジしないと資産価値を増やすどころか維持することもできなくなった。この通貨投機が現代の投機を史上類例のない規模に押し上げた大きな要因である。94年のメキシコ危機、97年東アジア通貨危機も、外貨準備高と経常収支のアンバランス、内外金利差など経済実態と乖離した各国通貨がヘッジファンドに集中攻撃を浴びたのが原因だった。
だがそれでも、事象そのものの規模や激しさ、国民経済に与える影響の大きさ別とすれば、「現代帝国主義は通貨そのものを投機の対象とするに至った」とシンプルに整理することが可能であると考える。
さらに金融上の技術革新という問題がある。CDOやデリバティブ、ネット取引などの金融商品、金融技術は確かについ最近登場したもので、完全に新しい事象である。リスクからかけ離れた信用膨張を可能にしたという点で、投機の量的拡大に貢献したとは言えるが、これが質的に帝国主義そのものを変容させたとまでは今の時点では言えないように思う。現状では世界的にヘッジファンドは撤退、解散の趨勢である。
これまで、銀行によらない直接金融の導入は確かに大きな論点だった。
GM・クライスラーの清算劇を見ても、「多数の債権者」に再建計画と債権放棄を呑ませることができなかったという話が出てくるが、母体行の承認と債権放棄、という話は出てこない。日産が系列下の金融子会社から資金を調達できずに合併を断った、という話もあるが、「新自由主義」の下で国家独占資本主義の金融資本の在り方が大きく様変わりしたことは事実である。これが「権力の中心はもはや存在しない」「労働者ではなく多様な民衆(マルティチュード)がいるだけ」というネグリ「帝国」論の実体的根拠をなしていたと思われる。
だが、こうした議論の実体的根拠だったヘッジファンドは、投機経済の崩壊のなかで相次ぎ解散している。「ビジネスモデルとしての投資銀行はもはや消滅した」「金融システムは再び、伝統的な商業銀行中心の世界へ戻っていっている」(榊原英資「メルトダウン」2009年)という指摘もすでになされている。要するに、銀行は生産的投資から利子を拡大することができなかったため、ヘッジファンドを通じた投機的な資金運用で収奪を強めたが、信用が崩壊して投機が不可能となり、結局企業は銀行から金を借りる以外の方途がないというのが現状である。大企業の社債やCPの引き受け手が見つからなければ、最後にこれを証券市場で買い取って資金提供するのも中央銀行である。結局、権力の中心実体としての銀行が、この大恐慌のなかで再び舞台の前面に出てきたのである。
そもそも国家独占資本主義以前の帝国主義は直接金融が一般的だった点からしても、直接金融の拡大は金融資本的蓄積様式論とレーニン帝国主義論の根幹を塗り替えるまでの問題ではなかったのである。
Cブロック化と世界戦争の危機
帝国主義段階では、恐慌の危機はブロック化・世界戦争へと転化する。これはレーニン帝国主義論の根幹である。 このロジックは、今日ではドル・ブロック(米英日)とユーロ・ブロック(独仏×ロシア)という2大陣営の世界的激突という形でもはや誰も無視できないところまで現実化している。そもそも、フランスやドイツ国内では、「アメリカの世界支配に代わって独仏がヘゲモニーを握る、ロシアの軍事力を加味すればこれは可能である」という議論がすでに国民世論の域に達している【資料5】。
中央派・平田派も表面的には「ブロック化・世界戦争の危機」に論及し始めている。ただし、中央派の論は「戦争にいたる前に4大産別決戦で革命を起こす」と言って、現実の戦争とのたたかいを革命戦略の中からすべて放逐している点に特徴がある。改憲阻止もなければ反基地闘争もない、「民営化・労組破壊粉砕」が唯一の革命戦略だというのだ。彼らの「ブロック化・世界戦争の危機」論が、現実の「ドルvsユーロ」の世界戦争危機から認識をそらせるための、ためにする議論であることは明白である。
それはさておき、まずは具体的なブロック化の事象について列挙してみる。
・イラク戦争、ロシアの南オセチア侵攻―いずれもブロックの対立点に沿って戦争(戦争危機)が勃発している。イラン危機も同様である。
・G20−ドル基軸体制に中ロが異論。通貨ブロックの分裂はもはや決定的段階に突入したと言える。
・NATOをめぐる攻防−仏帝がNATO中枢に入って「EU軍」への再編を狙っている。
・仏が核軍事力の強化に突進している
・アフガン作戦に消極的なEU。逆に石油利権を求めてイラク国内に入り込んでいる
・パレスチナ問題でもサルコジが独自の調停を試みるなど介入の意図明白
・中南米にはロシアが軍事面で介入を深めている
・食糧問題をめぐる抗争=「食糧戦争」。アフリカはEUブロックが制圧した【資料6】。
中央派はCDS問題→ドル暴落不可避論を一面的に強調するが、ドル暴落の論理的な帰結は、ドル・ブロックとユーロ・ブロックの通貨ブロックへの世界的分裂であり、世界戦争である。「もはや石油が一滴も買えずに日本は崩壊する。それが嫌ならアメリカから石油を供給してもらうためにEU・ロシア連合軍とイランで戦え」ということが労働者人民に対してリアルに提起される時が必ずくる。
帝国主義者はドル暴落を織り込んだ上で、ドルとユーロの分裂―世界戦争をにらんで陣取り合戦に奔走しているのが現在の局面だといえるのではないか。
以上の基本動向について認識を深めるため、EUの経済分析をユーロ成立から振り返って再度全面的な検討に入る必要があると考える。EUは、例えばCPを発行する企業は少数で企業の資金調達はもっぱら銀行からの直接融資によっているし(09年5月9日付読売)、とりわけドイツ帝国主義の中枢に社会民主党が存在する点が象徴するように、米英日のいわゆる「市場原理主義」とは一線を画する形で組織されている。これを解明する作業は喫緊の課題である。

○日米安保同盟論

次に、日米安保同盟論について論点を整理したい。
「新自由主義」にはそもそも帝間争闘戦が内包されており、米帝は当初、市場開放要求を日帝に突き付けることで自らの劣勢を挽回しようとした。クリントン政権成立当初は実際に日帝の貿易黒字をターゲットとする激しい争闘戦が展開されたが、93年日米包括協議の決裂、当時通産大臣だった橋本とUSTR代表・カンターのやりとりは記憶に新しい。
通商交渉でラチがあかないとみた米帝は、従来から進めつつあった金融による米帝世界支配の立て直しに完全に重点を移行した。95年のローレンス・サマーズ財務長官就任がその転機だった。これに対応してドル安からドル高政策への転換がなされ、米帝の政権中枢はすべて「市場主義三銃士」と呼ばれる金融人脈が押さえることとなった。その攻勢は凄まじく、97年アジア通貨危機ではアジア経済の要衝を基本的に米帝が制圧し、日本の長銀も米帝が買収するに至る【資料7】。
この過程でとうとう大蔵省も解体され、いわゆる「戦時統制経済」の中枢が瓦解する。後に見るように、日帝の権力中枢では「地政学派」(=親ロ派)と「アジア主義者」(親中派)が粛清され、日米安保軍事同盟に日帝の延命をかけきる、という決断が日帝中枢の意思となった。これはEUが99年にユーロという統一通貨を設立し、米帝の大攻勢に対応したのと好対照をなしている。石油売買をユーロ決済で行うというフセインの決断がイラク戦争の最大の契機だった点はすでに暴露されているが、石油のユーロ決済は米帝貿易赤字がドル資金の還流によってファイナンスされなくなるということであって、ストレートにドル崩壊に結びつく。ユーロで石油を買うという行為自体、この時点ですでに独仏が対米戦争の意思を固めていた証左と言える。これとの対比でいっても、独自の円経済圏構想を米帝に粉砕された日帝はドル・ブロックの下での日米軍事同盟に国家戦略をすえなおしたことが推測される。ドイツに従う以外の選択肢をもたないスペインやイタリアと同様に、今日の日帝は米帝の国家戦略に自らを適合させる以外にもはや延命の道がないということである。
日帝の食糧安保戦略は形骸化していたとはいえ、日豪FTAに示されるように公公然と食糧自給の放棄を国策とした点も、ドル・ブロック内で米帝に食糧供給を依存するという決断抜きにはありえない話である。
こうしてみると、今日の米軍再編・日米安保同盟の強化というロジックは、米EU対立のなかで、米の対EU軍事戦略という切実な要求から日米同盟強化論が出されていると見るべきである。この点の検証は、改憲決戦と沖縄闘争の観点から死活的な要求となっている。
(なお、日銀が完全に対米独自性を放棄したわけではなく、円経済圏に代わるユーロ型の地域共通通貨をアジアに導入しようと画策していることも「円の支配者」は示唆している。これに類した経済記事も散見されるが、新しい地域通貨導入には最低でも20年かかると言われており、急展開する現在の国際政治で意味を持つとは思えない。)

朝鮮半島危機や中国問題も、米帝対独仏帝という枠取りで整理しないと理解できないと考える。
もともと94年朝鮮半島危機も、直接的には中国がどちらへ動くか読めないという中国問題の大きさがあり、間接的にはドイツが仕掛けたユーゴ内戦に米帝が介入するという死活的要請から、米国務省朝鮮問題担当官の頭越しにアクロバティックな妥協を成立させた経緯がある【資料8】。ドイツとヨーロッパを抑えるという優先順位から北朝鮮と東アジアの問題を整序したわけで、ここにソ連崩壊後の帝間争闘戦の原型がうかがえる。
米帝の対北強硬路線は、イラク戦争の重圧すなわち対EU対決の重さからブッシュ政権の下で後景化してきたが、ドイツが朝鮮問題に介入してきた今日の状況下では、朝鮮問題が対EU対決の火点となって戦争危機が現実化する趨勢にある【資料9】。例えば、ドル大暴落に際して中国が生き残りのためにユーロ・ブロックにつくと決断すれば、対EU戦略の脈絡から朝鮮侵略戦争―北朝鮮の米帝による軍事占領も不可避となり、これはユーロ・ブロックの同盟者であるロシアとの激突を不可避的にもたらす。つまり従来と全く異なる対EUのベクトルから、日米帝国主義の朝鮮侵略戦争は切迫しつつあると言えるのではないか。
こうした観点から、この間の北朝鮮の核・ミサイルをめぐる6者協議、米朝協議、および中国問題の大きさについて再度点検し、整理する必要がある。米帝国防戦略も2001年以降については検証を要する。
こう考えてくると、清水が「日米対決不可避論」をまたぞろ持ち出している点は、ドル・ブロックとユーロ・ブロックの世界的な分裂という、現実の戦争危機にたいする認識を曇らせる反動的役割しか果たしていないと言える。
D統治形態論について
「市場原理主義」グループによる国家権力の掌握は、これまでの統治の在り方を全面的に変更するものであり、われわれの革命戦略にも重大な影響を及ぼす。
いくつかはっきりしていることから確認すると、国鉄分割・民営化に始まり、「前川レポート」で綱領化された日本の構造改革を担った金融資本の中枢は日銀だということである。ここに権力中枢が移行したメルクマールは、日本の戦後国家体制の中心に位置した大蔵省が1998年に解体された歴史的事実である【資料10】。この点は資料で引用したリチャード・ヴェルナー「円の支配者」に詳しいが、ここから、現在の日帝の国家戦略を決定し、推進している中心は日銀であり、トヨタやキャノンが表の実働部隊だという推論が成り立つ。
また、ここで重要な事実は、この日銀を中軸とする日帝内部の「市場原理主義」グループは明確な親米派だということである。2000年に小泉が推進した「外務省改革」も親米派以外の外務官僚を粛清する点に核心があった。ソ連崩壊後の国際情勢において、日米安保を相対化し、ロシアと関係を改善することで米ロ中のパワーポリティクスを生き延びようと考える「地政学」派を叩き潰したのである【資料11】。
民主党・小沢の秘書が「国策捜査」で逮捕される問題も、こうした脈絡で捉えなおすことが必要である。小沢と民主党は、明らかに中国寄りで安保を相対化する傾向があると米帝が懸念している旨、ブル新でも報じられている。民主党政権の成立不可避と言われる状況で次期首相候補に国策捜査をぶつける手法は支配階級内部のきわめて深刻な対立をうかがわせるが、金融資本中枢は日米安保を相対化する傾向をもつ小沢が国独資グループ再結集の軸となりつつある事態を恐れ、「腐敗政治家」のレッテルを張ることで(これ自体は正しいが自民党二階はどうなのかという問題は残る)、ある種のクーデター的手法を用いてつぶしにかかったと見るべきだろう。民主党の下に旧大蔵官僚・榊原英資、外務省「地政学」グループ、国民新党、連合などが結集して日帝が路線転換するということは、今日の国際情勢の下ではロシアあるいは中国と手を組んで対米戦争をたたかうところまでストレートにいきつく。民主党の「次の内閣」財務大臣とされる中川正春などは「民主党政権が誕生すれば『ドル建ての米国債は購入しない』」(09年5月5日付読売)とまで公言しており、ここまで来ると対米宣戦布告にも等しい。2大陣営のどちらにつくのかをめぐる日帝支配階級内部のこうした路線対立を考慮しないと、選挙を無効にするクーデターにも等しい小沢秘書逮捕という事態は理解できないだろう。
食糧自給の放棄が衝撃的に打ち出され、農地法を解体して市東さんの農地を取り上げるという大転換がなされたのも、「ヤミ専キャンペーン」で農水省と全農林がマスコミから袋叩きにされているのも、こうした国家権力内部における権力の重心移動抜きに考えることはできない。
いずれにせよ、未だに日帝国家権力内部における親米「市場原理主義」派と戦後的「戦時統制経済」派の抗争は支配階級を二分する闘争として継続中である。両者の対立を見ていく場合、重要なことはこれが本質的には日米軍事同盟=対EU・ロシア対決路線と、日中露同盟による対米対決路線との対立としてある、ということである。
親米「市場原理主義」派は権力中枢を掌握し、日帝の国家戦略をドル・ブロック=日米軍事同盟路線にかけきる方へ完全に舵を切ったが、金融投機が崩壊しているうえに、ユーロ・ブロックとの軍事的対立が強まっていけば、米帝じしんが何らかの形で戦時統制経済システムを復元することは避けられない。こうした状況で、竹中のように「構造改革を止めたから恐慌になった」と強弁する「市場原理主義者」は今や少数である。日銀「市場原理主義」グループが進める米帝との経済的一体化は、恐慌が深化するなかでは必ずしも現実味をもたず、あまりの破綻性ゆえに支配階級内部でも動揺する者が続出している。しかし、「市場原理主義は間違っていた」ということは、ストレートに米帝金融資本を否定し、基軸通貨ドルと対決することを意味する。結局、日帝支配階級内部における「市場原理主義」か「戦時統制経済」か、という対立と議論は、自民党と民主党との抗争、あるいは政界再編という形で複雑に錯綜しながら、結局のところ米帝と連合してEUと戦うのか、EUと連合して米帝と戦うのか、という二者択一として収斂される以外に決着がつかない。現在までの政治情勢を見る限り、日米同盟派が国家権力の全面発動で日中露同盟派を封殺し、ボナパルティズム的な強権支配の下で世界戦争に突進していくことになろう。 ここで97年の動労千葉の和解について触れておく。
和解を主導したのは現在国民新党を率いる亀井静香だが、亀井は一貫して国独資派、「統制経済」派であり、日銀主導の「市場原理主義」派との抗争が激化する渦中にあって、「市場原理主義」グループとの抗争で1047名闘争を亀井の味方につけるため一大決断を下したのである(亀井は94年にも客室乗務員に契約制を導入しようとした日航に反対して労組を支持し、日航と全面対立した経緯がある)。つまり、動労千葉の強固な団結に支配階級内部の分裂が作用してこの劇的な和解が成立したということである。亀井の国労工作が失敗した原因はさらに究明を要するが、ここで注目されるのは、本来、この勝利的和解を1047名闘争のなかに持ち込み、たたかうナショナルセンター建設に活用することが求められたにも関わらず、安田は亀井と和解した事実を一貫して隠蔽したがっている点である。これは、安田が公安警察の元締めだった亀井を「権力中枢」と誤解し、和解の効力を過大評価していることを示すだろう。
国鉄分割民営化は「新自由主義」の最先端の攻撃であり、これとたたかい抜いてきた動労千葉の存在は日帝中枢と相容れない。米帝の対EU戦争をともに戦う国家的決断を貫くためには、いずれ亀井ですら投獄は避けられず、まして動労千葉をこのまま放置することは100%ありえない。早晩日帝国家権力が動労千葉の組織破壊に総力をあげて乗り出してくることは間違いない。これにたいして、合法主義に陥って武装解除する清水・安田中央派による動労千葉の引き回しと孤立化を許さず、1047名闘争を勝利的に貫く動労千葉を来るべき組織破壊攻撃から守り抜かなければならない。
(3)清水「モノ・カネ」論によって諸戦線(カネの世界での収奪)と労働運動(モノの世界での搾取)とは分断されてきた。言い替えれば、「帝国主義打倒」は空文化してきたのである。
戦線の再構築においても帝論の軸を立てることが一切のカギをなす。三里塚、入管、部落、「障害者」、女性・・・いずれにおいても清水・安田中央派は「金融資本」という共通の敵を見失い、「賃資」と「差別糾弾」の両極にたたかう陣営を分断させてきた。
特に、社会保障制度は「戦時統制経済」あるいは「国家独占資本主義」の不可欠の一環であり、これを「市場原理主義」グループが解体しようとしている点を明確にさせることは、「障害者」戦線のたたかいを推進するうえでも決定的だと考える。
(4)清水「モノ・カネ」論はロシア革命史の無視・忘却と一体。
ロシア革命論を帝国主義本国における革命論として現代に復権する。

以上の観点で、この30年間の空白を埋める綱領的努力を開始する。
30年はとてつもない時間である。われわれが09年の現時点から「本多書記長の闘いを継承し・・・」というのは、59年に本多書記長が「レーニン・トロツキーのたたかいを継承し・・・」と言ったのとほとんどくらいのタイムスパンがある。本多書記長は政治局内部で積極的に学習会を進め、59年から7年かけて66年第3回大会を準備し、この過程で「革共同の内戦論」に結実する綱領的見解の骨格をほぼつくり上げたが、われわれも同じように数年がかりで第7回党大会を準備するということである。この試論はあくまでもその作業を開始する決意を、再建協に結集する全同志に共有してもらうために、叩き台として提出した。

【2】資本攻勢と労働組合再編の流れをどう位置づけるか

「市場原理主義」グループの全体像を捉え直すなかから、80年代に始まる資本攻勢を位置づけることが必要である。資本蓄積の障害を地域まるごと取っ払う、というのが金融資本の動きであり(Dハーヴェイ「新自由主義」)、中央派のように労組破壊だけに絞り込むのは明らかに一面的である。そういう観点から振り返っても、動労千葉のジェット燃料ストライキ闘争は、地域の労働者が先頭に立って農民とともに農業切り捨てとたたかうという形で、前川レポート路線とのたたかいの原型をわれわれに提示している。このたたかいを通して動労千葉は、中曽根政権の総評解体攻撃=国鉄分割民営化とたたかい抜く力を形成していった点は、動労千葉20年史が総括している通りである。
「甦れ労働組合」のペテンは、連合を批判する際に、労組交流センターを対置するのではなく、なし崩しに「動労千葉はこうである・・・」と単組を対置している点にある。そもそも分割民営化の狙いは単なる労組破壊ではなく、総評というナショナルセンター破壊に狙いがあった点に本書はほとんど触れようとしない。国労破壊=ナショナルセンター破壊、という日帝の攻撃にたいし、「たたかわない国労を粉砕せよ」と言って背後から率先協力しているのが現在の清水・安田中央派である。これにたいして、ナショナルセンター破壊の攻撃とたたかってきた1047名闘争を、ナショナルセンター再建のために防衛することこそわれわれの回答でなくてはならない。
規制緩和=非正規化の流れも、これだけを独立して強調すると逆の意味で一面的となり、全体像が明らかにならない。非正規職の問題は重要だが、700万連合を無視して「非正規が労働運動の主流」「もはや熟練工はいない」とまで言ってしまうと労働現場の現実から乖離してしまうだろう。
いずれにしても、金融資本という概念を中軸に位置づけ、これにたいして労働者階級がナショナルセンターを軸にして反撃する、という構図で問題をたてていかなければ、労働者は一体何とたたかっているのかがまったく明らかにならないと言える。
こうした観点から道州制についても検討しなおす必要がある。道州制については「市場原理主義」グループも「戦時統制経済」グループのいずれも掲げており、道州制導入それ自体については一見すると支配階級は一致しているように見える。だが、その色合いはさまざまに異なっており、われわれは道州制導入絶対反対の立場からこのたたかいを推し進めていく。
いずれにせよ、連合批判に真正面から取り組む必要性が生じている。
ここで「派遣村」について触れておく。「派遣村」のたたかいは、労働の非正規化・農業切り捨て・社会保障切り捨てという、日銀が進めてきた「前川レポート」20年間の国家戦略の矛盾の集約点から発生した新しい運動と位置付けるべきである。「派遣村」こそ、日本帝国主義の中枢と対決する労働者人民が生み出した新しい闘争なのである。「前川レポート」との対決という点で、「派遣村」のたたかいをナショナルセンター再建運動と結びつけ、1047名闘争および三里塚闘争と合流させていくことが革命に直結する戦略的テーマだということをここでは確認し、その戦略的展望を押さえておきたい。

【3】農業問題論

(1)労農同盟論の原理的レベルにおける問題(別紙)
(2)三里塚決戦論
−実践的には、<三里塚×沖縄×自治労>決戦が重要だと考える。

【4】民族・植民地問題

(1)金融資本の収奪によって新植民地主義体制諸国はすさまじい債務の重圧にあえいでいる。利払いのために国民生活が破壊される。金融資本による世界支配と収奪の主要なテーマとして債務問題を全面的に検討する必要がある。
(2)われわれが民族解放闘争に取り組む場合、まずもって朝鮮侵略戦争阻止のたたかいが基軸であり、入管闘争と在日朝鮮人民のたたかいを防衛し、連帯していくことがもっとも喫緊かつ重要なテーマである。
北朝鮮排外主義とのたたかいにおいて、現在では朝鮮総連を中心とする「民族学校防衛」運動が当面して在日運動の最大公約数的なたたかいの契機になっているようである。(ウリハッキョ上映会運動など)。
これを支援していくためにも、われわれはスタの民族理論の根幹=「4つの定義」−<言語・地域・文化的共通性・市場>の批判が必要になっていると考える。
イラク侵略戦争の過程で顕著となったが、中東問題では4つの定義がどれもあてはまらなかった。最大公約数としてパレスチナ解放闘争、「イスラム共同体」が反帝の運動母体となっている。スターリン主義的な民族解放闘争論では彼らのたたかいを包摂することができないのである。
翻ってみるに、これは在日の世界でも実は同様で、在日3世、4世になってくると、「言語」「文化」という従来の民族概念の中心軸が必ずしも自明のことではなく、ネイティブ・タン(母から伝えられる母語)が日本語という在日朝鮮人も珍しくない。彼らにとって、朝鮮侵略戦争策動から必然化する民族差別とたたかう際、日帝にたいする反発を意識的に表現することは必ずしも容易ではない。われわれは抑圧民族に属する労働者階級として、日本帝国主義の民族差別に反対し、朝鮮人民の自決権を擁護する立場から、民族学校を防衛する立場を徹底的にはっきりさせなくてはならないが、そのうえで「言語共同体」が民族だというスタの民族理論に拝跪して、多くの在日朝鮮人民を民族解放闘争から排除することがあってはならない。
われわれは、そもそも民族とは何か?という次元から問題をとらえなおす必要に迫られている。例えば、ユーゴ内戦でもっとも辛酸をなめた「ムスリム人」は国連も承認した「民族」だが、クロアチアやセルビアと言語も人種も同じで、トルコ支配下にあった時イスラムに改宗した人々とその子孫という以外に周辺住民と何の違いもない。そもそも国名と言語名が同一の民族国家は東アジアとヨーロッパぐらいにしか存在せず、言語共同体を生活の中心にすえている方が世界的に少数派である。反帝民族解放闘争のアイデンティティは、中東では宗教共同体であり、中南米では先住民意識であり、東アジアでは言語共同体であるが、階級概念を基軸にすえたうえで、こうした全体像を包摂するような民族解放闘争論が求められていると思う。試論的には、「帝国主義の抑圧およびこれとたたかってきた歴史認識を共有し、この歴史観に依拠して帝国主義と現在もたたかう」点に民族解放闘争の核心があり、東アジアでは主として言語共同体によって歴史認識が継承されていることから、日帝の民族差別は国籍差別を踏み絵にして朝鮮人民の歴史認識と反帝闘争の放棄を迫るものとなっている、ということではないかと思う。いずれにせよ、スタの民族理論を前提としない立場から、南北統一をめざす朝鮮人民のたたかいに肉薄していかなくてはならない。
(3)PD派と清水・安田中央派の「国際連帯」について
民主労総ソウル本部と動労千葉との国際連帯が、入管闘争にとってかわるものとして中央派に対置され、喧伝されている。労組間の国際連帯はきわめて重要だが、これによって入管闘争の戦略的位置づけが変わるわけではなく、まして労組の国際連帯を口実に入管闘争を破壊する清水・安田中央派の排外主義的言動をわれわれは決して許すことはできない。
清水・安田派の言う「国際連帯」は、PD派と清水・安田中央派とが路線的にシンクロしている問題として理解すべきだと考える。
PD派は、韓国で階級闘争をもっとも先鋭的にたたかう活動家フラクションとしてたいへん重要な存在であるが、民族的契機を全面的に否定する点は明らかに間違いを含んでいる。これに比してNL派は、日米帝国主義の民族抑圧とりわけ朝鮮侵略戦争策動にたいする朝鮮人民のたたかいを集約している点で非常に重要な存在だが、民主労総内部では階級融和的な傾向が強い。両者の確執は、かつての労農派・講座派論争とたいへんよく似た構造をもっている。われわれは清水・安田中央派との党派闘争を断固推進し、PD派とNL派の対立を止揚する思想的綱領的立場を自らの闘いを通じて物質化することで、彼らの最良の部分を反帝・反スタ世界革命の立場に獲得していかなくてはならない。
以上。

【資料1】本山美彦・萱野稔人「金融危機の資本論」(2008年)

「萱野 アメリカが今のような金融中心の経済に移行したのは、アメリカに売る商品がなかったからだ、というのは本質的なポイントだと思います。1970年代以降、アメリカは製造業などの実体経済における国際競争でまったく勝てなくなっていました。経常収支赤字(貿易赤字)はふくらむいっぽうで、自動車や半導体など、さまざまな分野で外国企業にたちうちできなくなってしまった。
そのときアメリカがとった戦略が、経常収支赤字を上回る資金を海外からアメリカへと投資させることで、その赤字を埋め合わせるというものでした。そしてその資金をアメリカの金融市場で運用しながら、世界各地の成長が見込まれる製造業へと投資する。つまり自分たちが製造しなくても、世界の製造業の成果をアメリカに還流させるということです。たとえば株をもっていれば利益の配当がありますからね。これが『世界の金融センター』として世界経済の覇権をにぎる構造です…債券や証券というかたちでの所有権をつうじて世界の製造業を支配しようということが起こっていた…」
「本山 当初アメリカは同盟国である日本を復興させてきました…それが、まさに70年代に入って、アメリカは自らのGDPの低下に愕然とし、同盟国であった日本は彼らの経済競争の相手となりました。このあたりから、貿易摩擦が大きくなっていきます。
ところが、変動相場制を導入しても円高を導入しても、何の効果もなかった。そして次の戦略が金融でした。その金融へのシフトのきっかけとなったのが、オイルダラーです。アメリカはそれまで、世界でもっとも厳しい銀行規制であったグラス・スティーガル法を順守してきましたが、アラブに集まったドルを奪還するために、それをやめて銀行にオイルダラーのリサイクリングをさせるようになります。その一方で、アラブ諸国にはアメリカの赤字国債を買わせていくようになるのです。
萱野 つまり、産油国が得たドルをアメリカへと投資させることで、ドルを還流させ、それによってアメリカの貿易赤字を穴埋めさせようとしたわけですよね。世界中の資金をアメリカに集めて、それを運用することで儲けをだす、という『世界の金融センター』アメリカの原型がここにあります。ただ、70年代にはまだアメリカも製造業に自信をもっていたので、本格的に方向転換するのは80年代以降ということになりますね。」
「萱野 オイルダラーが産油国からアメリカに流入しはじめたのは、だいたい何年からくらいからですか?
本山 キッシンジャーが暗躍したころですから、1973年から始まり、1975年にはその戦略がはっきりとビルト・インされていきました。キッシンジャー路線とは『産油国は、石油価格を上げてもいいが、そのぶんアメリカの赤字国債を買え』というものです。」
ここでは、ニクソン・ショックの後、米帝が貿易赤字を挽回するため、金融に加えて食糧と武器の輸出を主要な国家戦略にすえなおした点を指摘しておきたい。

【資料2】96年橋本「我が国金融システムの改革」の狙いと背景(高尾義一「金融デフレ」1998年)。

「金融システムを改革する上での主な課題は、信用創造機能を回復させ、その上で目詰まりを起こしている資金フローを正常化することである。このためには、国内面に限定すれば直接金融の育成と間接金融の再建を急ぐということ」「間接金融中心の金融システムは、機能不全に追い込まれている。預金を受け入れたとしても、運用面では貸倒れリスクが無視できず、比較的高いリターンを生み出せる資金の使途が見出しがたくなっている。実際、主要先進国経済へのキャッチ・アップを終えた後では、先行き有力な成長分野がそう簡単に見いだせないのも当然であり、ほとんどが手探りの状態といっても過言ではない。この中で、銀行が貸出しを実行するとすれば、その資金の回収可能性には通常以上にリスクが伴う。また、そこから期待し得るリターンは安定性に欠けることになる。このことは、預金といった元本保障で確定利付のタイプの商品を主として扱う、銀行を主体とした間接金融では、金融システムがうまく機能し得なくなるのは当然」「まず第1は、金融機関の資金調達サイドで証券化を進めることである。換言すれば銀行預金を証券化することを意味する…元本返済の確約と確定した利払いの必要がない証券化商品で資金調達すればよい」「第2は、運用サイドは伝統的な貸出ではなく、資産担保証券(ABS)などを通じて、徹底的に証券化を進めることである…従来の銀行審査では、最近の与信リスクを適切に評価することが難しくなっている。この点で、資産担保証券などで貸出を証券化すれば、市場で与信リスクを評価することが可能となる」。高尾によれば、96年3月時点で金融機関への資金の出し手は80%が預金と信託、資金の取り手は70%が貸出で、この時点ではまだ間接金融が「資金フロー面で圧倒的に高い比率をもつ」。これを、金融機関銀行の預金と貸出を証券化する一方、銀行と系列会社による株式持ち合いも解消し、証券市場で取引手数料を自由化することで、銀行からの融資ではなく証券市場を通じた資金の流動化を実現すると改革の狙いを説明し、「これほどの規模の制度改革は歴史的に見ても、1927年の昭和金融恐慌期や1947年の第2次大戦後にしかなかった」とコメントしている。
またジョージ・ソロス「ソロスは警告する」(2008年)によると、銀行の債権を証券にして売り出すアイデアは、82年中南米債務危機で登場したブレイディ債が最初である。「1980年代の途上国債務危機は、その後の各国政府・銀行の協調介入によってひとまず収束した。とはいうものの、銀行システムに資金を注入するだけでは十分ではなかった。先進諸国の銀行から途上国政府が借りた金額の総額は、銀行の自己資本を大幅に上回っていたのだ。問題のある国々がデフォルトを実行すれば、先進諸国の銀行システムも破たん状態に陥っていただろう」「その結果、先進諸国の中央銀行は伝統的な役割から大いに逸脱した政策を実施した。各国の中央銀行が一致団結して債務国の救済を行ったのだ…このときの危機は、債務者側の救済が国際協調を通じて実行された初めての例となった…国際機関、各国政府と中央銀行、それに多数の民間銀行が団結できたのは、“連鎖破綻”の恐怖のせいだった」「債務国が採用した緊縮政策は一定の効果を上げたが、それでも経常収支の改善分を上回るペースで債務が増えていく国もあった。この問題を認識した民間銀行は、貸倒引当金を積み上げていった…やがてブレイディ債(途上国の、さらなる債務削減や金利減免を条件に、IMFや先進諸国が担保を保障した債権。債務国の債券と借り換えることで銀行も売買しやすくなる)が考案されてこの問題は決着を見る」「それ以前は、ひとたび信用危機が起こると、再発を防ぐために、危機の原因となった金融機関は、より厳しく監督されるのが常だった。だが、レーガン政権時代、市場原理主義がすでに力を得ていたとあって、途上国債務危機は逆の結果を招いてしまう。アメリカの銀行は、危機以前に比べて、事業の自由度を高めたのだ。アメリカの金融業界に対して施行されていたさまざまな規制は、段階的に撤廃されていった」「アメリカの銀行は、支店の新設も、州を超えた合併も、新規事業への参入も、すべてが許されるようになった。証券業務と銀行業務を分離していた規制も全面的に廃止となる。『団結貸し付けシステム』への参加が管理の負担になった民間銀行は、自行のバランスシートに記入される債権をなるべく減らしたかった。そのためには、債権を一まとめにして規制当局の監督外にある投資家に売り飛ばせばよい。かくして、それ以前とは比べ物にならないほど洗練された金融商品が多数、新たに開発されるようになった」「リスクが広く分散された結果、個々の金融機関や投資家が引き受けることのできるリスクは大きくなっていった。だが、不幸なことに、そのリスクは事情を熟知している金融機関を素通りし、実情をよく知らない投資家に負わされていった。さらに悪いことに、新しい金融技術があまりにも洗練されすぎていたために、規制当局はそれらに内在するリスクを正確に計算することが不可能になってしまった」「市場参加者が作ったリスク計算に依存するという決断を下したことで、規制当局は海底から錨を引き上げてしまったも同然だった。信用膨張の大波にさらわれ、金融市場は大々的な漂流を始めたのである」。

【資料3】リチャード・A・ヴェルナー「円の支配者」(2001年)

「以下の事実を読んで、どこの国の話かあててみていただきたい。この国はまじりけのない資本主義が特徴だ。この国では、企業が外部資金を調達する主たる場は株式市場である。株主は非常に強力で、高い配当を要求する。そのために経営者は短期的利益を追い求める傾向がある。経営役員の多くは社内からは選ばれず、外部の者が任命される。し烈な企業買収合戦のおかげで、経営者はいつ企業買収の攻撃を受けるかとおちおちしていられない。おまけに業績を上げなければ、即刻地位を追われる可能性がある。
この国の労働市場では、採用、解雇が頻繁におこなわれるし、従業員の転職率も高い。所得と富の格差は巨大だ。豊かな資本家階級の家族たちは配当収入で暮らしている。貯蓄率は低く、消費が80パーセントと国内総生産の最大部分を占めている。政府の規制は少ないし、官僚が経済に直接的な影響力を行使することも少ない。それどころか、官僚は政治家に言われたとおりに行動しなければならない。政策課題については激しい論争があり、国民は政治に高い関心をもっている。
これは現在のアメリカだと考えるのは当然だろう。たしかにアメリカにもよくあてはまる。ところが、じつはこの国とは日本なのだ。戦後の日本ではなく、1920年代の日本である」
「当時の日本は、われわれが知っている戦後の日本とはまるで違っていた。自由放任の経済システム、純粋な自由市場資本主義の国だったのだ。終身雇用も年功序列制度も定期賞与も広がりがなく、企業労組も少なかった。会社はしばしば中途採用をおこない、容易に解雇した。従業員のほうも、もっとよい職場がありそうだと見れば遠慮なく辞めた。日本の従業員は、現在のアメリカの従業員と同じくらい頻繁に職を変えていた(転職率は80年代の日本の約3倍)。労働組合は企業ごとではなく業種別に組織されていたから、賃上げ要求の実効性は高かった。戦後の企業労組では事実上、不可能なことだ。影響力の大きな労働組合は20年代にたびたび深刻なストを打ったが、戦後日本では産業別ストライキの話はほとんど聞かない。失業率は、戦後の大半がそうだったような2パーセントではなく、25パーセント前後だった。
企業はほかの企業に所有されているのではなかった。戦後のような株式もちあいシステムはなかったのだ。1920年代には本物の資本家がいた。個人や一族が企業の株式の相当部分を保有していた。どの株式でも個人株主が大半を占めた。1990年代初期には個人株主の比率は15パーセント以下に下がっている。企業の取締役会に株主が直接、代表を送るのはあたりまえで、企業の経営方針決定には株主の意向が反映された。戦争前には、大企業の取締役の大多数は社外取締役で、株主に送り込まれた人々だった。対照的に、1990年には大企業の取締役の90パーセント以上が社内の企業経営陣から選ばれている。
1920年代には株主の力が強かったのは、企業が資金の半分以上を株式市場で調達していたからだった。戦後は、たとえば60年代から70年代のように、株式市場での資金調達は外部からの資金調達総額の5パーセント未満に減った。20年代の株主は高い配当を要求するのに慣れていた。そのため、企業は利潤音できるだけ多くを配当として支払わなければならなかった」
「1920年代から30年代はじめ、日本の主要企業は利益の3分の2以上を配当として支払い、6パーセントほどが取締役のボーナスで、社内留保はわずか25パーセントにすぎなかった。1966年から70年を見ると、対照的に利益の43パーセントが配当で、取締役のボーナスはわずか2パーセント、そして55パーセントが再投資にまわされている…20年代には貧富の格差はきわめて大きく、不動産や株式を所有する多くの金持ちは配当と賃料で暮らしていた。この資本家階級の重要な部分を占めていたのが財閥で、株式を集中させた持ち株会社を通じて傘下企業を支配していた。しかし、資本家はほかにもいた。工業および製造業の大企業60社のうち、財閥の系列会社は10社しかなかった。企業の大半は財閥系列ではなく、株主は分散していたのである。
しかし、財閥は影響力を拡大しようと躍起になっていた。彼らは株式取得や企業買収によって積極的にほかの企業を買い取った。戦後の大半を通じてほとんどなかった現象である。財閥同士が敵対的買収合戦を繰り広げることも多かった。1930年代には三井グループが三菱グループから明治製糖を買収し、鈴木グループから東洋製糖の2工場を買い取った。王子製紙は、競争相手の三井財閥の系列だった富士製紙の経営権を手に入れている」。
戦後の日本資本主義は、構造的には30年代に形成された戦時統制経済が継続したもので、官僚による資源と信用の統制を特徴としており、構造改革はこれを解体するものだと筆者は主張している。

【資料4】スーザン・ストレンジ「マッド・マネー−カジノ資本主義の現段階」(1998年)

「何が長期にわたる1930年代の悲劇の原因だったのか」「その一つは、たとえば現代にも関連するような金融上の不正である。…金融上のモラルと規制のあいまいさはニュー・ディール政策の初期段階で認識され、それは33年の証券法、34年の証券取引法といった諸改革として表現された…[その他の要因の一つが]アメリカ銀行業の構造であり、20年代にはそれは90年代のアジア諸国の構造とさほど異ならなかったのである。小規模で脆弱な独立銀行があまりにも多く存在していた。銀行が、慎重さを欠いた投機的な投資のせいで流動性の不足に陥ると、不幸な顧客預金者によるパニック的な預金取付けを引き起こしただけでなく、他の商銀行へとドミノ効果が波及した。30年と33年の間に、ほとんど9000もの米銀が破綻し、33年だけでそれは4000件を超えた。多くのコミュニティにとってこれは、多くの預金者の貯蓄が雲散霧消したにとどまらず、現地の信用源泉が閉じられたことをも意味した」
銀行の投機的な証券投資は戦前の米銀ではごく普通に行われており、銀行の証券業務をファイア・ウォールで禁止したのがニュー・ディール体制だった。
本山美彦はこの点を次のように整理している。
「アメリカでは1933年、世界恐慌のあとに、銀行・証券・保険を兼営してはいけないとする『グラス・スティーガル法』というものができました。1929年の世界恐慌では、まさに現在のように、銀行や保険会社がもっている株が下がったり、証券によって預金が圧迫されたりして大変なことになったので、その教訓としてつくられたのです。
さらに、銀行は大きくなってはいけない、すなわち州を超えて銀行を営業してはいけないとも定められていました。また、『レギュレーションQ』として金利は下げなければいけなかったし、さらに銀行の査定において、地元企業にどれだけ貢献したかということが判定材料にされました…」(「金融危機の資本論」2008年)。こうしてできあがった米帝の規制システムを、本山は「軍事ケインズ主義」と呼んでいる。

【資料5】エマニュエル・トッド「帝国以後」(2003年)

筆者はフランスのブルジョア政治学者で、シラクに影響力を与え、また本書はドイツでベストセラーになったという。解説によれば、彼は本書で一躍文壇の寵児となり、メディアにも頻繁に登場しているという。
トッドの立場は近代経済学と人類学の混交で、すべての社会は資本主義的代議制民主主義統治形態へと発展しつつある、その発展度合いを規定するのが出生率と識字率(つまり国民的教育水準)+伝統的家族形態(私有財産継承の社会形態)という、フランシス・フクヤマの論理に多少味付けした程度の浅薄な政治学「理論」。とりわけ、ロシアのチェチェン侵攻を肯定的に見ており、軍事的・政治的・社会的にスターリン主義を美化している点に彼の欠点は顕著に表れる。
彼の主張の画期は、米帝没落の必然性を指摘したうえで、独仏同盟とロシアとの連合を通じて、ポスト米帝の世界支配・管理を提起している点。米帝が世界に貢献した時代から世界に依存し、収奪する一方の状態へと転落したこと(双子の赤字と資金の還流)、米帝国内の絶対的貧困と貧富の差の拡大、「ならず者国家」との戦争は、地上戦の弱さを自覚した米帝が取るに足らない相手と戦争することで自らの必要性を軍事的にデモンストレーションしているにすぎない、と喝破している。
問題は、これがフランス政界の中枢から出された見解で、ドイツではすでに国民的認知がなされている点にある。「前進」2389号は以下のように伝える。
『主催者のIGメタル(金属労組)の代表は、オペルを救済するために「米GMから独立して欧州自動車資本の統一的な経営を確立すべきだ」と述べた。反米排外主義をあおり、労働者を欧州資本・国家への屈服と協調の道に引き込もうとしているのだ。政権与党の社民党のシュタインマイヤー副首相・外相(次期首相候補)は「オペルはドイツの誇り。その担い手の労働者とともに米国資本と闘う」と愛国心をあおり、政労資一体となってオペルを救おうと訴えた。だが労働者はそのための犠牲になれと言っているのだ。
労働者は、これらの発言に怒りを表明した。「IGメタル本部は企業みたいになった。84年以来まともなストをやっていない」「組合費をマネーゲームに使っている」「工場の労働者は数年で4万8千人から1万8千人に減らされた。今や労働者の半分以上が非正規雇用だ」「今こそ国境を越えて団結して闘う時だ」。現場には、政労資一体の屈服路線に幻想はない。』
「前進」が得意げに報じるドイツ労働者の反応は確かに健全だが、問題は資本やSPDといった独帝中枢が「対米戦争」を労働者に向かってアジっていることである。ドイツは国家意思としてすでに対米戦争を決断している、と見るべきだが、「前進」はその点には一切触れようとしない。

【資料6】天笠啓介「世界食料戦争」(2008年)

ユーロ・ブロックとドル・ブロックの対立構造のなかで、食糧問題はブロック間対立の主要な争点として浮上しつつある。EU加盟国は次々と「GMO(遺伝子組み換え食品)フリーゾーン」を宣言して米帝の穀物を締め出し、BSEを契機に米国産牛肉を拒否している。その主要な起動力は独帝であり、この対立はアフリカに波及して、2002年から2003年にかけて、飢餓人口が拡大するアフリカ諸国が米帝の食糧援助を相次いで拒否する前代未聞の事件に発展した。EUは公式には認めていないが、遺伝子組み換え作物を栽培すればEUが輸入をストップするためにアフリカ諸国は食料援助を拒否している、というのが米帝の主張である。米帝は遺伝子組み換え作物推進のためにアフリカに支援金をちらつかせ、これに対抗して独帝が遺伝子組み換え規制強化のために230万ドルを寄付する、といった具合である。
食糧問題がこれほど激しい争闘戦の戦場となっているさなかに、日帝は食糧自給を断念するというとてつもない決断を下している。ある意味で、食糧補給も含めて日帝は日米軍事同盟にかけきっていることの一つの表れではないか。これは日米安保同盟論を検討するうえでも重要な視点だと思う。日豪FTAは米軍再編とワンセットだという見方もできるのである。
「アグリ・ビジネス」(1980年、R・バーバック、P・フリン、大月書店)もアメリカの農業政策についてトータルに論じた良書である。米国内の農民分解の現状、中南米、の農民経済分析、デルモンテを例としたアグリ・ビジネスの食糧支配を丹念に論じている。重要な点は、米帝の高官が「食糧は武器である」と明言し、食糧輸出・援助を一貫して世界支配の重要な道具として扱ってきたことである。特に71年のニクソン・ショックを受け、米帝経常収支を改善する支柱の一つとして食糧輸出が国家戦略に格上げされ、対ソ・対日欧・対新植民地諸国にたいする戦略的輸出品目として食糧輸出が推進されてきた。今日の世界的な食糧危機の背景には、食糧を通じた世界支配という、40年以上展開され蓄積された米帝国家戦略が存在する。これに唯一食糧自給を掲げて対抗したのが現在のEU諸国であることも詳述されている。
本書では、オーストラリアの穀物生産は現地の農民によるものだが、流通・販売はカーギルなど米系穀物メジャーがほとんど押さえていることも示唆している。
日豪FTAは形式上オーストラリアに食料生産を依存するものだが、実質的には米系穀物メジャーに日本の食糧供給を任せることを意味しており、日米争闘戦を分析する上でもきわめて重大な事実である。
自動車と食糧をバーターするという日本経団連の決断は、食料供給を米帝に完全に依存するということであり、国家対国家の関係で見れば米帝への全面屈服に近い事態である。コメを輸入に依存して農村が壊滅すれば、「瑞穂の国」という天皇制イデオロギーも崩壊する。日帝支配階級内部を2分して当然の戦略ということである。分割民営化では反対派の仁杉国鉄総裁は更迭されたが、現在行われている全農林バッシング、「ヤミ専」キャンペーンもこうした脈絡でとらえるべきだろう。

【資料7】榊原英資「メルトダウン−21世紀型『金融恐慌』の深層」(2009年)を参照。

【資料8】デビッド・ハルバースタム「静かなる戦争」(2002年)、ケネス・キノネス「北朝鮮 米国務省担当官の交渉記録」(2000年)などを参照。

Laura Silbar and Allan Little ”The Death of Yugoslavia”(1995)によると、ドイツ帝国主義は敗戦後もクロアチアのファシスト団体ウスタシャを自国内に囲い込んで育成し、ソ連崩壊後には彼らに武器と資金をもたせてクロアチアに大挙送り込んだ。これがセルビア・クロアチア間の内戦の引き金をひく決定的な契機となり、ユーゴスラビアを解体と再分割に追いやった。ドイツが主導する戦争を座視することができなくなった米帝は、すべてに優先してこれに介入せざるをえなくなり、95年セルビア空爆へと突進する。

【資料9】本山美彦/萱野稔人「金融危機の資本論」(2008年)

「本山 とりわけ目を引くのは、イギリスやドイツを中心に朝鮮ファンドというものができていて、朝鮮のレアメタルの開発を認可していることです…。
推測ですが、アメリカはそれを分かっているからこそ焦っているのではないでしょうか。6カ国協議をむりやり進め、日本との関係を二の次にして、朝鮮にたいするテロ国家指定を解除しました。アメリカとしてはヨーロッパと朝鮮が結びついてゆくなか、置いてきぼりをくらいたくないのでしょう…
…偽ドル事件はCIAの策略だったということが分かりましたが、これはドイツの新聞『フランクフルター・アルゲマイネ』が暴露しました。そして2007年1月に、それまで実現されていなかったアメリカと朝鮮との会談がドイツで設定され、それから6カ国協議の再開まで一気に動きだしました。これから考えても、ヨーロッパ、特にドイツを中心として朝鮮との関係ができているのだと思います。」
本山氏と萱野氏が指摘する事実はきわめて重大である。対米戦争を決断するドイツがついに東アジアにのりこんできたということだからである。両氏は経済主義的に「アジアは経済成長の拠点で、アメリカと距離を置いた新しい国際関係をつくれ」と言うが、ブロック化のなかで日帝に提示される「新しい国際関係」は対米戦争か対独ロ戦争以外にない。日帝が日帝である限り、対米対抗、対独対抗いずれにせよ自己の存立をかけて朝鮮侵略戦争にのめり込む以外にないのである。

【資料10】「円の支配者」(リチャード・A・ヴェルナー、2001年)

「(74年まで日銀総裁をつとめた)佐々木は1980年代はじめに方針を180度転換したかに見える。とつぜん、金融自由化と日本経済の国際化という目標の積極的な支持者になったのだ。日本の経済体制には根源的な変革が必要だと思い至ったらしい。日銀のバトンをプリンス前川に渡した佐々木は、経済同友会代表幹事に就任し、1983年1月に「世界国家への自覚と行動」と題する日本経済の改革と自由化のための5カ年計画を作成した。
この計画は、日本は世界に向けて早急に市場を開放すべきであると呼びかけ、日本経済は『目先の国益擁護型から、世界共通の利益増進型へ転換しなければならない』と述べている。目標は農業、金融、サービス業の迅速な『完全』自由化だった。さらに規制や官僚の指導の廃止、行政改革、政策決定に政治家が大きな役割を果たすこと、首相の権限を大幅に強化し、強力な指導力を発揮できるようにすることなどを強く求めていた…10年にわたって金融政策を動かした前川春雄…は1984年12月に実験を三重野に譲った。前任者の佐々木と同じく、これで前川はロビー活動に専念できるようになり、いっそう堂々と目標を追求しはじめた。佐々木と前川のロビー活動、それに彼らと主張を同じくする国際化論者たちは影響を及ぼさずにはおかなかった。1985年10月31日、中曽根康弘首相は「国際協調のための経済構造調整研究会」を創設し、前川を座長に任命して、『中、長期的視点から日本の経済的、社会的構造と運営に関する政策を研究』し、どう改革していくべきかを明らかにするという仕事をゆだねた。それから首相と私的諮問機関は19回の会議を重ね、1986年4月7日に、首相に勧告を提出した。マスコミはこの報告書を、内容と結論づくりに力のあった座長の名前をとって前川レポートと呼ぶようになった。言うまでもないが、前川レポートは先に発表された佐々木レポートの呼びかけと符節をあわせたもので、さらにくわしく大胆な提言を行っていた…要するに、目標は政治体制そのものの変革、戦時経済体制の廃止、アメリカ流の自由市場経済の導入だった。」
「1998年まで、少なくとも法的にいえば、日本経済は大蔵省がコントロールしていた。国税庁と税務署を通じて税を、主計局を通じて国家予算を、理財局を通じて債券発行を、国際金融局を通じて外国為替への介入と国際的な資本の流れを、税関を通じて輸出入を、証券局と証券取引委員会を通じて証券取引を、銀行局を通じて銀行部門を支配していたのだ。そのうえ、大蔵省は貨幣の鋳造をおこない…、印刷局で政府文書の印刷もしている。
 大蔵省は公的な法規則の施行だけでなく、非公式の指導を通じて権力をふるってきた。この非公式の指導の一部は『通達』として出されているが、書面になっていないものもあり、超法規的な『伝統』として代々の官僚が伝えてきている。大蔵省の影響力は日本社会の経済、政治両面にわたって広く浸透してきたようだ。元大蔵官僚は政府系金融機関や公共企業体、民間銀行、証券会社、大企業、東京証券取引所などのトップに天下りし、あるいは政治家になっている。自民党議員の3分の1は元官僚である。」

【資料11】佐藤優「国家の罠−外務省のラスプーチンと呼ばれて」(2005年)

「冷戦構造の崩壊を受けて、外務省内部でも、日米同盟を基調とするなかで、3つの異なった潮流が形成されてくる。そして、この変化は外部からは極めて見えにくい形で進行した。
第一の潮流は、冷戦がアメリカの勝利により終結したことにより、今後、長期間にわたってアメリカの一人勝ちの時代が続くので、日本はこれまで以上にアメリカとの関係を強化しようという考え方である。
具体的には、沖縄の米軍基地移転問題をうまく解決し、日本が集団的自衛権を行使することを明言し、アメリカの軍事行動に直接参加できる道筋をきちんと組み立てれば、日本の安全と繁栄は今後長期にわたって保証されるという考え方である。この考え方に立つと日本は中国やロシアと余計な外交ゲームをすべきではないということになる…
第二の潮流は、『アジア主義』である。冷戦中結語、国際政治において深刻なイデオロギー上の対立がなくなり、アメリカを中心とする自由民主主義陣営が勝利したことにより、帰って日米欧各国の国家エゴイズムが剥き出しになる。世界は不安定になるので、日本は歴史的、地理的にアジア国家であるということをもう一度見直し、中国と安定した関係を構築することに国家戦略の比重を移し、その上でアジアにおいて安定した地位を得ようとする考え方である。1970年代後半には、中国語を専門とする外交官を中心に外務省内部でこの考え方の核ができあがり、冷戦終結後、影響力を拡大した。
第3の潮流は『地政学論』である…東西冷戦期には、共産主義に対抗する反共主義で西側陣営が結束することが個別国家の利益に適っていたので、『イデオロギー外交』と『現実主義外交』の間に大きな開きはなかったが、共産主義というイデオロギーがなくなった以上、対抗イデオロギーである反共主義も有効性を喪失したと考える。その場合、日本がアジア・太平洋地域に位置するという地政学的意味が重要となる。つまり、日本、アメリカ、中国、ロシアの四大国によるパワーゲームの時代が始まったのであり、この中で、最も距離のある日本とロシアの関係を近づけることが、日本にとってもロシアにとっても、そして地域全体にとってもプラスになる、という考え方である。  この『地政学論』の担い手となったのは、冷戦時代、『日米軍事同盟を揺るぎなき核として反ソ・反共政策を貫くべきだ』という『対ソ強硬論』を主張したロシア語を専門とする外交官の一部だった。さらに、彼らは日本にとっての将来的脅威は、政治・経済・軍事面で影響力を急速に拡大しつつある中国で、今の段階で中国を抑え込む『ゲームのルール』を日米露三国で巧みに作っておく必要があると考えたのである。『地政学論者』の数は少なかったが、橋本竜太郎政権以降、小渕恵三、森喜朗までの三つの政権において、『地政学論』とそれに基づく日露関係改善が重視されたために、この潮流に属する人々の発言力が強まった。
同時に、これら三つの異なった潮流とそもそも外務省内部にあった派閥抗争が絡み合う形で、省内抗争は外部の人脈を巻き込みながらより複雑なものへと変貌していった。」
「…田中真紀子女史が外相をつとめた9か月の間に、冷戦後存在した三つの潮流は一つに、すなわち『親米主義』に整理された。
田中女史の、鈴木宗男氏、東郷氏、私にたいする敵愾心から、まず『地政学論』が葬り去られた。それにより『ロシアスクール』が幹部から排除された。次に田中女史の失脚により、『アジア主義』が後退した。『チャイナスクール』の影響力も限定的になった。
そして、『親米主義』が唯一の路線として残った、9・11同時多発テロ事件後の国際秩序を『ポスト冷戦後』、つまり冷戦、冷戦後とも時代を異にする新しい枠組みで捉える傾向があるが、日本は『ポスト冷戦後』の国際政治に限りなく『冷戦の論理』に近い外交理念で対処することになった。」
佐藤優は長時間にわたる取調のなかで西村検察官の「国策捜査」に関する興味深い議論も克明に記録している。 「『これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです…評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下がってくる…法律はもともとある。その適用基準が変わってくるんだ。特に政治家にたいする国策捜査は近年驚くほどハードルが下がってきているんだ。一昔前ならば、鈴木さんが数百万円程度なんか誰も問題にしなかった。しかし特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下がっていく…時代の変化としか言えない』…西村氏は、官僚の例として、EIEインターナショナルの大蔵官僚過剰接待問題をあげる。『高橋治則の事件は覚えているだろう…それまでカネをもらうと賄賂だが、接待に関しては問題ないというのが官僚の常識だった…大蔵には行きすぎがあった。接待を賄賂と認定したのは画期的だったんだが、あのときはこっちが追いきれなかった。上まで捜査を十分にのばすことができず、結局、田谷(広明・元東京税関長)、中島(義雄・元主計局次長)を取り逃がしてしまったので、大蔵の体質は十分に変化しなかった。それで、その後ちょっとたってから大蔵では榊原(隆・元証券局総務課長補佐)の過剰接待、風俗接待のようなしょうもない事件が起こったんだ。今回のあんたの事件でも東郷を取り逃がしてしまったけれどね。でも、うちが大蔵をあげる事件をしなければ、金融と財政の分離もなければ、大蔵省の財務省への再編もなかったぜ。大蔵省の機能を転換するためにあの国策捜査は一つの「時代のけじめ」だったんだ。』」
文字通り、日銀の構造改革、「市場原理主義」派の先兵として検察が権力行使に踏み切ったということである。 「小泉政権の成立後、日本の国家政策は内政、外交の両面で大きく変化した…内政上の変化は、競争原理を強化し、日本経済を活性化し、国力を強化することである。外交上の変化は、日本人の国家意識、民族意識の強化である。
…『小さな政府』、官から民への権限委譲、規制緩和などは、社会哲学的に整理すれば『ハイエク型新自由主義モデル』である。このモデルでは、個人が何よりも重要で、個人の創意工夫を妨げるものはすべて排除することが理想とされる。経済的に強いものがもっと強くなることによって社会が豊かになると考える/…鈴木宗男氏は…『政治権力をカネに替える腐敗政治家』として断罪された/これは、ケインズ型の公平配分の論理からハイエク型の傾斜配分の論理への転換を実現する上で極めて好都合な『物語』なのである。鈴木氏の機能は、構造的に経済的に弱い地域の声を汲み上げ、それを政治に反映させ、公平配分を担保することだった…ここまでの分析については(検察官)西村氏も全面的に同意見であった」
さらに佐藤は考察を進め、戦後的な利権政治家のなかで他でもない鈴木宗男が狙われたのは、彼が対ロシア関係の改善を眼目にすえる「地政学派」の代表でもあったからだと論じる。
外務省内で日ロ平和条約の締結をめざす「地政学」グループが国家権力の発動によって粛清された事実は、今日の小沢にたいする国策捜査を検討するうえでも大変重要である。
(2009年4月下旬)


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