掛川氏の「架空の貨幣資本と金融資本」に応えて

                           

松 崎 五 郎

討論なので論争点に直対応していて 論文のように順序よく整合性をもって展開するとはなっていません。読者には分かりにくいと思いますが ご了承ください。
(1) 消費税について。分かっておられると思いますが 私は消費税について「架空だ」と言ったのであって、「架空資本だ」と言ったのではありません。私たちはこれまで現実生産・実体経済のみを見て、架空資本を考察対象外としてきたので また架空資本を資本と誤解している人が多々なので まず架空という概念を理解してほしいから最初にあげたのです。くどいようですが 「100円の商品に105円の価値があると誤解する」人はいないかもしれませんが この消費税分はGDP統計に入るのですか、入らないのですか。
また「架空の貨幣資本に基軸が移った」のは90年代後半からです。「本多さんやレーニンを否定するのか」と言われても 「現実が違ってきているのでは」と応えるしかありません。98年頃 松下電工の社長が「うちは製造会社で労働者がいてなりたっているのだからクビを切ることはない」と言いながら、1年もたたずにクビ切りを始めた という話がありました。当時 産業資本家の最後の突っ張りが崩れさったのだと思いました。

(2) レーニンも投機など帝国主義の特徴としてあげているではないか との掛川氏の意見について。『帝国主議論』と『資本論』を比べると レーニンが『資本論』をよく読んでいることが分かります。第二インターと決別したレーニンにとって (理論的には)マルクスとレーニン自らに依拠する以外になかったと思います。マルクスが基本視点として展開(推論)した論点を、レーニンは帝国主義の現実から詳論している と私は見ています。
では レーニンやマルクスと 何が・何処が異なるのか。マルクスは当時の産業資本主義・自由主義段階にそって『資本論』では繰り返す景気循環論として展開していますが 帝国主義段階では景気循環は1回しかないのです。レーニンは 最後は帝国主義間戦争になると見ていたのですから[だから「革命だ」と言ったのですが] 彼も1回しかないと見ていたのです。レーニンとの違いは レーニンの時代の帝国主義は発生期の「元気な」時代で、矛盾にぶつかるとすぐに暴力・戦争で解決しようとしたが 今の帝国主義は 2回の世界大戦をへているので 総もたれ合いに見える位ヨレヨレで[帝間争闘戦・競合戦ですが]、潰れるのを待っているような状態です[自分から潰れることはないですが]。
循環の繰り返しと1回のみの違いは 『資本論』V巻15章の恐慌論で言えば 第3段階(価値破壊)が国家による資本救済策で徹底的には起こらない(あるいは恐慌そのものは回避しようとする)ために、第4段階(再建)に行けない状態 つまり第2・第3・第4段階が同時並列的に存在する状態だということです。U巻21章で言えば UからTへの資本移動ができれば循環は繰り返されるが 資本移動ができなければ循環は中断されたまま(よって循環は1回のみ)ということです。
ところで 第二次世界戦争以降 米帝の戦争政策・戦争体制は継続されたままですが ある意味帝間戦争ができないために 経済が「それ自身の純粋な論理」で動いています。現在、経済そのものの崩壊が誰にでも分かる形で起こっています。この現実を分析・説明しようとしたら 「元気な時代」のレーニンではなく 純論理的なマルクスの方が論理的に考えられ、好都合なのです。レーニンの言葉のもつイメージから離れることができ、今の現実に合わせて逆に論理をイメージできるからです。

(3) 再生産表式について。『資本論』は U巻は価値の運動として分析されていて V巻でそれが資本主義では(資本としては)いかに現れるかを展開しています。だから原理と現実の関係にあります。三段階論はそれとしては間違いとは思いませんが 各段階を切り離して内的関連性を無視してしまったら 間違いに転化すると思います。
掛川氏が述べられる様に「資本主義の再生産の条件はT(v+m)>Uc」で 逆のT(v+m)<Ucが恐慌勃発状態です。そして「恐慌を通じて資本がTに移動する」と展開されています。ところでこの逆の不等号(<)はどういう状態をさしているのですか。Uが過剰でTが過少ということではないのですか。なぜならT・U以外の第三者とではなく、TとUとを相互比較しているのですから。
U巻21章・拡大再生産でマルクスが論証しているのは <価値通りの交換で拡大再生産を続けて行けば、拡大再生産は必ず行き詰まる(単純再生産に収束する、あるいは生産が部分的にストップする)。しかし追加貨幣があれば、その分だけ拡大再生産は延長されるが その反動=恐慌が必ず起こる>ということです。拡大再生産の条件 Tmの一部がTcの拡大分に回されるのだから、UcはT(v+m)より当然小さく 初めからそれを前提に展開されているのです。前提を結論だとすると マルクスは何のために21章を論じたのかです。

(4) 現在の経済危機は「100年に一度」と言われています。だから 誰も経験したことがありません。言い換えれば この危機にどう対処すべきか?は 経験や過去の例ではなく、論理的に考える以外にないのです。例えば 戦前・戦後の高揚した労働運動を勉強しても(それも必要ですが) それだけでは今後の労働運動の指針にはなりえないのです。私たちは 戦後確かに生産と生活の崩壊を経験していますが それは戦争によって生産が破壊されつくした状況であって 現在の危機は 逆に過剰資本・過剰生産ゆえに生じています。労働者・人民がそのもとで如何なる状態におかれ、如何なる意識になるのか? これが掴まれなくては 革命運動として勝利させることはできないと思います。
ロシア革命のスローガンは 「パンと自由と平和な土地」でした。「搾取反対」でも「大幅賃上げ」でもありません。パン=生存・生活であり、自由=人権であり、平和=戦争反対です。つまり 資本主義・帝国主義の発展期に対応したあり方ではなく その崩壊期に対応したあり方を 見つけ出さねばならないのです。それを論理的に考える理論的基礎を マルクスは晩年の『資本論』U巻・V巻と『ゴータ綱領批判』および「アイルランド問題」で明らかにしたのではないでしょうか。

(5) 掛川氏は「銀行資本の機能の中で 何が社会主義の基礎となり 何が不毛な投機として廃絶されるべきか」と問題をたてられていますが 未来社会では銀行および貨幣はまったく全て要らないのです。ただ過渡期において 現実との・現実への妥協として 擬制的労賃制や国民銀行(一行のみ)が一時的にとられることがありうるのです。また「社会的総労働と労働生産物の配分は銀行間の決済を通じて組織されています」と言われますが 銀行はそんな機能は果たしていません。銀行は 自分自身の儲け(利子略奪)のみを問題にしているのであって 総労働と総生産物の配分を規制する機能は 資本家間の儲けを求める自由競争によって 結果として成立しているのです。
未来社会について具体的に言えば 未来社会では貨幣はなくなり、労賃にかわって労働証書制になりますが この労働証書は 形を変えた「信用」―資本主義のブルジョア同士の信用から未来社会の労働者同士の「信用」=協働する仲間が与える証明に―です。この労働証書を扱うのは もちろん銀行ではなく生産協同組合とコミューンです。つまり 生産協同組合が 各人が規定時間労働したことを証明するのです。そして各個人は その証明の範囲内で自分の必要物を取り出せばよいのです。
マルクスは 「未来社会では過剰生産が再生産の統御」と述べています。資本主義のように需給をバランスさせる必要はなく 過剰つまり備蓄を基本にすればよいのです。だから 問題は倉庫・貯蔵場所をどこにつくるかであって 生産した場所につくれば旨くいきます。つまり産業循環でいう原材料Pmではなく生産物W’で貯蔵するのです。他方 生産協同組合の生産的消費分やコミューンでまとめた個人的消費分(働けない人の分も含めた全住民の分)は 必要に応じてそこへ取りに行けばよいのです。生産地で備蓄すれば 消費プラス備蓄分をこえる不必要な量や備蓄分を下まわる不足分が 当該の生産協同組合の構成員に一目瞭然で分かり、それに合わせて生産を増減できます。総生産物の配分はこれでやっていけます。また 総労働の配分は 一生産協同組合の生産を単品に特化しないで、複数の生産を行うようにすれば 労働力の移動は各コミューン内が基本になります。ただ 農業のための季節移動は残ると思いますが。だから 官僚制を生み出す完璧な計画やそれを立案する人などは 要らないのです。
(2009年4月末)


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